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尖閣諸島問題の国会中継 [社会]

今朝の朝食後、衆議院予算委員会の中継を聴いた。尖閣諸島問題を巡る集中審議であった。
質疑者は、田中康夫(国民)、小野寺五典(自民)、塩崎恭久(自民)の人たちだった。議論の
中心テーマは、中国漁船船長の逮捕、拘留延長後の処分保留のまま釈放した検察の判断に
民主党政府の政治的介入があったのではないか?というところで、与野党間で争われた。
政治的介入があったのでは?という野党の追及に、政府は「No.」と主張し続けたわけである。

私は、それらの質疑応答を聴いていて、次のような疑問をもった。それは、どうも議論の道筋
が違うのではないか?ということである。政治的介入の有無を争うのは、三権分立の原則を
侵犯したか?否か?を問題にしているのだろうが、その前に、議論すべき事があろう。
それは、国内刑事事件と、他国との外交問題に絡む事件とでは、自ずと取組み方も異なると
いうことである。外交問題ともなれば、国益や国民の権利・利益を守る事に関して、今回で
いえば、中国と日本では正義に関する考え方が、180度異なる。日本国の検察は日本の国益、
国民の権利・利益を守る国内法を基本として活動しているので、外交がらみの案件では、
捜査の方針や、落し所を、政治的に判断するのが当然ではないか?従って、政府が責任を持ち
大局的観点から全力で事件に対応し、三権が、綿密な連係をとって当るのが当然だろう。

今日の国会中継で最も強く感じた事は、菅首相の、この問題に対する「感度」のなさである。
「尖閣諸島問題」を、単なる1刑事事件としてしか感じる事ができないのではないだろうか。

確かに「尖閣諸島問題」や、「北方領土問題」、「竹島問題」等が小さな問題として片がつく
ことを望まぬ国民は居ないだろう。しかし、願望が現実のものになるためには努力が必要だ。
仙石官房長官は、「「尖閣諸島問題」の様な問題に関して、政治的介入に関する前例がない。
従って皆で議論していきたい。」等と、中学生の生徒会ようなことを言っていた。民主党は、
政権を担うに当って、どんな覚悟があったのだろうか?鳩山、菅と腑抜け首相が続いて、後は
仙石官房長官だよりの民主党だが、その人が、この体たらくでは、どうしようもない!
長い間、日米安保条約のお陰で惰眠を貪っていた日本。普天間基地問題で、国際的にその間隙
を衝かれて久しぶりの国難が襲ってきたというのに、民主党政府中枢はまったく腑抜け同然。
“「いざ鎌倉」の時には助ける”とクリントン国務長官から言質を取ったと安心する外相や首相。
中学生並の前例主義の官房長官。こんな主権国家としての覚悟のない腑抜け政権では、米国が
「いざ鎌倉」の時に助けにきてくれるだろうか?この国はどうなるのだろう?如何なものか。
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「ゲゲゲ」から「てっぱん」 [物語]

NHKの連続TV小説も、今週から「ゲゲゲの女房」→「てっぱん」へと切替った。
だいぶ前宣伝をしていたが、話の筋が何となく気に入らず見るつもりはなかったが、
月曜日は、いつもの習慣で、切替りに気付かず、「てっぱん」を見てしまった。
ドラマ制作者もさる者、イントロが、意表を突き、何となく見ている内に、村上あかり
(瀧本美織)が、海に飛び込むシーンがあり、その思いっきりの良さに感服した。しかも
再度、飛び込むのには驚いた。防波堤の近くには、消波ブロックなどもあるだろうに?

今日まで見続ける事になった理由には、あかりのあの勢いの他に、「ベッチャー」がある。
今の私にとって、尾道は隣町と言っても良いご近所であるにも拘らず、「ベッチャー」?
調べてみると、「鬼」の一種らしい。そこで、「ゲゲゲの女房」と妖怪でつながった。
「ベッチャー」が、このドラマで、どんな働きをするのか?あるいは、働かないのか?
そこをある程度、確かめるまで見てみようかな?と思ったのである。

「ゲゲゲの女房」において、妖怪は、表だった働きではないが、全編を通じて、見えない
存在感があった。行灯の光の中で元気だった妖怪が、科学技術が進み、電気の光が皓々と
輝くにつれ、日本列島が不夜城になるにつれて、姿を消し、人々は忘れてしまった。
妖怪を忘れるにつれて、人間としての大切なこころも忘れてきているのではないか?
「ゲゲゲの女房」の物語は、そのように問い続けていたのではなかろうか?
それは、2003年製作の「Dr.コトー診療所」の五島健助(吉岡秀隆)が、病院激務のために
忘れていた事とも深く関係していた。

「てっぱん」において、村上あかり(瀧本美織)はトランペットを二度までも海に投込んだ
田中初音(富司純子)のことを、祖母とは知らず「ベッチャー」(尾道の子どもらには祭り
で恐ろしい存在)と名付ける。その命名が、田中初音(67歳)の年齢に似合わぬ、無作法で
礼儀知らずな態度で、決定的になった。初音は、家を訪ね、あかりの過去を暴き、その心を
恐ろしいまでに傷付けてしまった。少なくとも私は、同年代という設定の初音に怒りを覚えた。
もっと、何とかもののいいようもあるだろう。自分は10数年もほったらかしにしている事を
棚に上げて、娘がお世話になっていた家庭(父・錠(遠藤憲一)、母・真知子(安田成美))に
あの態度は無いだろう!いま思い出しても腹が立つ。あかりの父母は本当に出来た人である。
「ベッチャー」は本来、良い妖怪?果たして初音・ベッチャーはどうなのか?如何なものか。
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国土領有問題 [社会]

尖閣諸島沖で海上保安庁の巡視船に衝突した中国漁船事件で那覇地検は公務執行妨害で逮捕
した船長を処分保留のまま釈放。政府は序列第3位・温家宝程度の人物の恫喝に負けた。
領土侵略問題では、既に「竹島」は、韓国領土になったような雰囲気にある。また「対馬」も
土地の買占めや、観光客の横暴で、韓国に乗っ取られるのではないか?と、心配されている。
一体、国土とは何なのか?領土とは何なのだろか?
歴史的に言えば、沖縄は中国に近く、対馬は朝鮮に近いために、それぞれに朝貢外交を行って
いた。中国の古い歴史書によれば日本も中国に朝貢外交をしていた時期もある。しかしだから
日本も中国の領土だという事にならないのと同様、対馬や沖縄にも当てはまらないのは当然。

結局、国家の国土領有権は、国家が主張し、国際的に認められる事が第一であるが、国際的に
認められていても国家間の力関係で領有権が移転する場合もある。ただし、国際的な圧力で
国家間の紛争に干渉して、訂正させる場合もある。日清戦争後の三国干渉はその好例だ。
竹島や、尖閣諸島、対馬などの場合には、国際的には、日本の領土と認められているのだから
本来なら、日本の政府が、キッチリと主張すべきなのである。何故、政府が弱腰になるのか?
それは、日本人全体の問題でもあるのだが、国土領有問題という筋論と、経済的な問題等とを
一緒くたにして考えてしまうという、所謂、「味噌も糞も一緒にしてしまう」性癖による。

マイケル・サンデル(Justice: What's the Right Thing to Do?(和訳本:『これからの
「正義」の話をしよう:いまを生き延びるための哲学』の著者)は、現実の政治において、
「正義」と市場主義の両者を踏まえて議論するには、それなりの方法論があると言っている。
哲学的な思考、欧米の真髄は、現実的理念と、普遍的理念との整合性に関する考え方等に
関して、さまざまな示唆を与えてくれ、人生を豊かに展望できるようにしてくれている。
現実的理念の対立を議論して、最終的には、それぞれの立場の人々が、それなりに納得できる
結論に統合していくサンデルの「正義」の話は、政教分離という建前を高い次元で乗越える。
現実の行動理念を煮詰めた主観的正義の理念の対立を、如何に整合させるかの議論だ。

侵略を受けた国土領有問題で譲歩する事は、一部の領民や漁民の被害に止まらないだろう。
一方、突っ張った時に、どの様な被害を蒙るのか?譲歩か?対抗か?の選択によって被害者も
被害額も異なってくる。どちらの方策を取るかを決断する場合に、現実的理念の対立を如何に
整合させるかの議論が必要になる。民主党に「正義」の議論ありやなしや?如何なものか。
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思いがけない出来事 [大家族]

戦後の1950年代前半に「君の名は」というラジオドラマが放送されて人気を博した。小学生の頃で
あったが「君の名はと、訪ねし人あり・・・」で始まる哀切な主題歌は今でも心に刻まれている。
映画では岸恵子と佐田啓二が主演で、両人の出世作だった。あの物語は、様々な理由でホンの
チョッとした入れ違いのために、二人は約束の半年毎に数寄屋橋で会う事ができず、運命に
翻弄される長い長い物語になる。

最近は、携帯電話という便利なものがあって、待ち合わせの場所や時刻が少し違っても昔の
ような悲喜劇は余り起こらなくなった。もし携帯電話があったら「君の名は」という物語は
存在し得ないのである。現代は、様々な技術の発達で、思い違いや勘違い、ちょっとした
トラブルによる“思いがけない出来事”も、大した問題には発展しないのが普通だ。

そこで我々は日頃、身の回りの事は、自分の思い通りになると思い込んでいるフシがある。
私は最近、思いがけないトラブルに巻き込まれた。思いがけないトラブルとは、土曜日の夜
23時過ぎにシャワーを浴びて、出ようとしたら取っ手を回しても扉が開かない。風呂場に
閉じ込められたのである。原因は鍵が壊れたためである。「何だコリャ!」誰かの冗談・悪戯?
と、一瞬、思った。紆余曲折あって、約1時間後、やっとの思いで脱出に成功した。

後になって冷静に考えたが、今回の事件は、“不幸中の幸い”だった。
第1は、妻が在宅していたこと。第2は、風呂場のドアがガラス製だったこと。
息子からも、メールで、「人生いつ、何が起こるかわからないから面白い?如何なものか?」
と、言われてしまった。まさにその通り!今回の経験は、ついつい、忘れていた大切な事を
思い出すために、神様が、適当なレベルで、チョッと注意してくれたのである。

世の中の大きな事は、意のままにならなくとも、身の回りの事は結構、思い通りになると
思い上がっている自分を省みる必要があるのだ。自分の健康が意のままになると思っていない
と言いながら、一生懸命に健康管理している内に、健康も思い通りになると思っていないか?
身近な人間関係も、何とかなっていると思っているが、本当にそうなのか?
思い通りにならなかったことを、鍵の設計問題などのセイにしてすぐ忘れてしまうのではなく
あの忌まわしい出来事を楽しみ、面白がって、人生を、より味わい深いものにしていこう!
「君の名は」の物語も、そういう面から味わうということか? 如何なものか。
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「ゲゲゲの女房」・最終週に思う [物語]

「ゲゲゲの女房」物語の魅力は何だろうか?
それは、欧米からのパクリではない、“日本のこころ”を大切にした生き方ではなかろうか?
日本は、明治維新以来、西欧列強に追いつき追い越せと、欧化政策と富国強兵を進めた。
そして、第二次世界大戦に負けたにもかかわらず、「終戦」と称して、反省を怠った。
戦後は、親米政策、経済成長政策で、高度成長をして、1980年代には、ジャパン・アズ・N01.
とおだてられたが、今や、中国の恫喝に対して、卑屈にも、官僚の言うままである。

こうして見て来ると、日本は世界の超大国とおだてられているが、本当に中身はあるのか?
「和魂洋才」は良いが、空疎な張子の虎の洋才で体裁を保っているが、中身は空っぽで、
未だに、日本という国は、吹けば飛ぶような仮設建築ではないのだろうか?

そんなときに、「ゲゲゲの女房」物語が始まって、“日本のこころ”の大切さを、随所に
気付かせてくれた。布美枝(松下奈緒)の生き方は、古風な“耐える女”の典型として
受け止められたかもしれないが、私は、現代にも通じるさまざまな大切なことを教わった。
1つ。人のいうことを深く受け止める。茂(向井理)の“見えないものを信じるこころ”を
しっかりと受け止めることが出来るのは、茂に対する自然な信頼感であろう。
2つ。常日頃、感謝のこころを見失わない。“感謝の心”は、つまるところ自己責任?
人のセイにせず、欲張りをせず、与えられた状況の中で、あまり不満を感じない事だろう。

茂の頑張りで、茂・布美枝夫婦は、国家から勲章を授かるほどの大成功者になった。
だから、布美枝のやってきたことが報われたが、敗残者夫婦になっていたら、信頼関係も
感謝のこころも、失われてしまうのではないか?そう考える人も多いかもしれない。
それが、欧米の真髄抜きの欧米的な合理主義に慣れきった日本人の考え方であろう。

昨年、衆議院のバラマキ選挙で、民主党が大勝したのは、庶民が自然な信頼関係と、そして
感謝のこころを見失った結果に起こったことではなかろうか?最近の状況を観察していると
強欲な既得権者ばかりでなく、一般庶民までが臆面もなく、少しでも分け前にあずかろうと
鵜の目、鷹の目である。従来、日本人の大半の人は、成功者でなくとも、金持ちでなくとも
地域社会で相互の信頼関係があり、感謝の心があった。国内産業の国外流出を嘆く人は多い。
果たして、現代日本人のこころが何処かに流出していることを嘆く人は?如何なものか。
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立待月_'10 [閑話]

今日、岡山の月の出は、18:04。月の入りは、明朝の6:27。満月の後は月の出が遅れるから
待つ時間があるために、十七夜の月を、立って待つ程度に遅れるという意味らしい。
明日、十八夜の月は、居待、座待(いまち)の月という。座って待たぬと疲れる意味か?
今日も天気が悪く、月見は難しかろうと思っていた。
所用から帰宅したのが、21:45頃。ふと見上げると、何と、お月様が雲間に見える。
雲は、大きな模様のさば雲、あるいはうろこ雲の一種だろうか?溶けかかった流氷が海に
浮かんでいるようにも見えた。雲が薄いためか、月が綺麗に見えるのである。
◎ 無駄を承知で、写真を撮った。安物の~デジカメだから、旨く~写る~はずもない~

今年は、本当によく月見をした。こんなことも珍しい。
普段はそんな気にならない事が多いのか、気にはかけていても、観月もなかなか出来ない。
月見などという事は、余程、閑人でないとやるものでは無いらしく、私が月見をしていても
散歩や、なにかでそぞろ歩きしている人たちでさえ、月を見ようともしない。

今日の時事問題で気になる事がある。公務執行妨害で拘留中の中国漁船の船長を、那覇地検が
処分保留で釈放することを発表した件である。民主党という組織は、烏合の衆なのか?
小沢、鳩山の「政治と金」の問題では、検察批判の急先鋒だったにも拘らず、今回は、検察の
判断という言い逃れで、責任を回避し、全く、「腰抜け外交」も甚だしい。
また、村木厚子女史の問題に絡む地検主任検事の逮捕という状況の中で、いくら建前の言い訳
とはいえ、地方検察の判断を素直に受入れて良いのだろうか?
法律に則って、粛々と進めるということが、こういうことだったのか?

自民党の政治は悪かったかもしれないが、社会全体の利益という観点は外していなかった?
個別の利益誘導はあったかもしれないが、大局を見失う事はなかった?少なくとも、誰が
見てもオカシイというような大局の見損じはなかったと思う。バラマキ政策に釣られた民衆に
負けた現実から、最近の自民党は民主党を見習い、意気地のない党に成り下がりつつある?
消費税値上げではなく、本当に、国のために働く、志の高い政治家は居ないのだろうか?
民主党には、全く、言葉の重みがない。前から私は信用していなかったが、もういい加減に
して欲しい。民主党が政権を持続すれば、日本はガタガタになってしまう。
如何なものか。
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十六夜_'10 [和歌・俳句]

今年は本当に暑い夏だったが、昨夜の雨で、全国的に気温が下がり、秋らしくなるらしい。
当地は9月に入ってからも「真夏日」が続き、9/15,16を除き、20日間も「真夏日」 !!!
よく此処まで頑張った(耐え凌いだ)ものだと感心する。暑いのもほどほどが良い!

今夜は、十六夜の月であるが、またも月見はできないかもしれないと思っていた。
昨夜来の雨は止んだが、雲はまだ厚かった。午後4時頃いつの間にか青空が覗いていた。
今日の生活パターンは変調で、夕食を早めに済ませて、18時前に散歩に出た。そうしたら
東の地平線の近くに、今出たばかりの大きなお月様がみえるではないか!空は一面に晴れ
大きなお月様が、微笑んでいるようにみえた。東に向かういつもの散歩コースをとった。

◎ いま出たて 大きな月の輪 散歩道
◎ 十六夜の月 家並みのかげに 見え隠れ
◎ 月光に コウモリ飛び交う 二羽三羽
コウモリの数え方は間違っているかもしれないが、月光に照らし出された田園地帯を飛び交う
コウモリに、頭や匹は似合わないと思った。月光とコウモリといえば吸血鬼を連想する。
しかし、我が田園地帯は、まったくその気配なし。平和そのものである。
今日は旧暦の8月16日、従って今宵は、“十六夜(いざよい)”だが、月齢は14.7・満月だ。
でも、こころなしか、少しはかけているところがあるような気がする。気のせいだろうか?

芭蕉は、更科紀行で、観月の名句を残している。
名月の夜
◎ 俤(おもかげ)や 姨(をば)ひとりなく 月の友  芭蕉(45歳・貞享5年:1688)
十六夜
◎ いざよいも まださらしなの 郡(こおり)かな  芭蕉(同上)

二つの観月の句は能狂言・謡曲の「姨捨」の物語に引かれて遠路、訪ねて出来たものである。
能では、名月の夜に、捨てられた「姨」が旅人の夢に現れて、白い衣で月光の中を舞う。
月のことを大勢至(阿弥陀如来の右の脇侍・大勢至菩薩)といういわれなどが語られる。
幻想的な「姨(をば)」の面影を抱き、遠路はるばると訪ねて、夢を適えた芭蕉のよろこびが
しみじみと伝わってくるような気がする。如何なものか。
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月見_'10 [和歌・俳句]

月見といえば、この月の月。
◎ 雲折々 人をやすむる 月見哉  芭蕉(42歳・貞享2年:1685)

西行は、雲がかかるのを、月へのもてなしと讃えたという。
確かに、昨夜の、満天に雲の陰が見えなかった小望月は、何か寂しげだった。
芭蕉は、西行のひそみにならって、雲の働きを、月見の客へのもてなしと謳った。
十三夜の月は、薄雲が、すこしかかって、ベールの向こうの美人が、またあらわれる風情は
えもいわれぬ風流を感じたものである。さすがに、月見の名人・芭蕉だけのことはある。

◎ 晴れよとの 願いも空し きょうの月  (自作)

今日は、朝からずっと空の様子を伺っていた。昨日一昨日と同様に、今日も晴れてくれよ!
と願ったが、いよいよ絶望?空は鉛色。雨が轟く雷鳴と共に、ザンザンと降っている。
日本人、特に俳句の世界では、侘び、寂び等といい、完璧な美よりも、少し何かが不足して
いるような美を好む傾向があるのに、月見は、なぜ満月観賞なのか?不思議な気もする。
名月との出会いは、天候の悪戯で運次第。年に1度の出会いを果たせるか否か?の賭けだ。
だから俳句は、天候による運次第という不完全性に創造的魅力を感じているのかも知れない。

さて、仲秋の名月という風雅な日に、「検事逮捕」という、トンでもない事件が起きた。
村木厚子前厚生労働省局長の事件が一件落着し、とりあえず大臣官房付きで現役復帰したが、
このお目出度い話で終わるほど、問題は単純ではなかったようである。主任検察官が、
押収した証拠品を改ざんしたとなると、調書の取り方や、シナリオ作成の問題とは次元を
異にした重大極まりない問題である。検察官が、自己の正義を押し通すために証拠品を
改ざんしたのなら、それは正義ではなく思い込みの激しい「自己中心主義者」でしかない。
仮に意図をもって証拠品を改ざんしたというなら、無理筋を押し通したために、引っ込み
が付かなくなり、切羽詰ってそういった行為に走ったとしか考えられない。

もう1つの可能性は新聞報道の誤報である。新聞記者にも思い込みの激しい正義の味方が
多い。今まで多くの人が迷惑を蒙っている。小耳に挟んだ断片的な情報をつなぎ合わせて
刺激的な記事をでっち上げるのである。検察も新聞も誠実な対応を!如何なものか。
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待宵_'10 [希望]

待宵とは、名月の夜を明日に控えて、気もそぞろの人々の心持をいっているのだろうか?
昨夜の十三夜は、心配して19:00過ぎに空を眺めたら、厚い雲から一瞬、顔を覗かせ、
また雲隠れしてしまった。21:00頃、外に出ると、薄雲はチラホラあったが、美しく
輝いていた。何か、名残惜しい気がして、近くのグランドまで散歩して、ゆっくりと観賞。

◎ 十三夜 うりざね顔の お月様
◎ 薄雲は 美人を被う ベールかな

“暑さ寒さも彼岸まで”は、今年には通用しないのか?昨日、彼岸の入りだったが、
当地・倉敷は、今日再び、真夏日(最高気温・30℃以上)になった。
疲れが出たのか、今日は、午後、珍しく昼寝をしてしまった。
夕方に、散歩。帰り道には日も暮れかかり、東の空には、待宵の月が出ていた。

◎ 待宵や すこしふくよか お月様

朝は雲が多く、昼間も相変わらずだったので、何か、冴えた夕映えの月は印象的だった。

◎ 小望月 いにしえ人も 愛でしとか

今夜もグランドまで、散歩しながら月見を楽しんだ。
空には、雲一つないようだった。が、残念ながら満天の星空とはいかない。
水島臨海工業地帯の夜間の照明やフレアの光は、昔に比べて随分弱くなったとはいえ
里山の稜線はくっきりと影絵のごとく浮かび上がっている。

グランドで感じる夜風は、実に心地よかった。遠い昔を思い出すような気がした。
そうだ!この風は、8月も半ばを過ぎた頃の、夕涼みの風の感じなのだ。
時代は代わり、日本列島は不夜城と化し、世界は地球温暖化の危機を叫ばれるが、
風の味わいの中に、いまだ変らぬものがある。月の光の尊さも、月を愛でる人の心も、
今も昔も、変りはない。風の流れのように、
自然の信頼関係のなかで、自然の流れに沿って生きたい!如何なものか。
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生き方と絆・② [物語]

今日は、彼岸の入り、十三夜、そして敬老の日である。
十三夜の月見は、古来、日本独特の風習だそうであるが、今夜は大丈夫か?
午後の散歩に出かけて間もなく雨が降り出した。畑作をしている友人が喜ぶ顔が浮かんだが、
それも束の間の糠喜びで、あっけなく通り雨は上がってしまった。
◎ 友の顔 浮かんで消えた 通り雨
雨は上がり、青空も見えてきたが、南半分は雲に覆われている。十三夜の月見、実現するか?
9/17は、深夜近くに散歩。十日月が皓々と、薄雲を華やかに浮かびあがらせていた。
◎ 十日月 供に散歩で 深夜店

Dr.コトー(吉岡秀隆)の物語は、週刊誌記者・巽(津田寛治)の妹を死なせたことが原点に
ある。言い訳をすれば幾らでも出来る状況であり、普通の人であれば、病院の対応を是として
何ら恥じる事もなく、病院勤務を継続していたろう。しかしコトーは、己を恥じた。

当時を振り返って、「あの夜私は医者ではなかった。犯してはならない過ちを幾つも犯した。
私は忙しすぎて何かを見失っていた。」、とコトーは反省するのである。聞き方によっては
その言葉は、問題からの逃げ口上と受け取られかねない。しかし、彼は逃げたのではない。
コトーは、見失い、忘れかけていた大切なものを探し、思い出すために島に来たのである。
彼の探していたものが何だったかを端的に表現しているのが、第9話「暴かれた過去」冒頭の
エピソード、山下努(船木誠勝)の娘・桃子(松本梨菜)の人形事故の救急処置場面である。
他愛無いお話として見過ごされてしまうが、「Dr.コトー診療所」・全編を貫く大切な主張だ。
桃子の心の痛みをコトーは究極のところで受け止め、それを行動に表現したのである。

第4話 “病気を診るな、人を診ろ”で言われたことであるが、医者は、病気を治すだけが
役割ではない。病人を、生活から、家族や知人から分離して、生命維持するだけでは、はや
老齢の病人は人間関係から切断されてしまったと感じるだろう。コトーは次の様にも言った。
「医者は、患者の運命を握っているのではない。患者の運命の手助けをしているだけだ」と。
人形が傷付いただけで、桃子の身体には何の心配もない。しかし、医者は“人を診る”。
だから人形の手術をするのである。また第4話の患者の話では、生活面を考慮して自らの責任
において片足切断の選択をせず、リスクをかけて別の治療をするのだ。Dr.コトーの失くし物
は、人間の“絆”(自然な信頼関係)を大切にする生き方だった。如何なものか。
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