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道義と法律 [社会]

今朝のテレ朝スーパーモーニングで、道義的責任と法律的責任という観点から、
コメンテータに、次のような問題を出して、法律的責任の有無を問いかけていた。
1)川で流されている人(知らない人)を見た人が、救助の連絡をしなかった場合
2)登山中で、知合った人が、滑落した場合に、救助の連絡をしなかった場合
3)泥酔した友人(A)を介護して帰宅中にAの言葉に従い、Aを放置し、Aが死亡した場合
全て、道義的責任はあるが、1)のみには、法律的責任がない、という説明だった。
私の解釈では、1)は、状況認識の個人差、連絡手段の問題等が理由だろうが、要は
この種の問題は、現行犯逮捕的な状況にないと、犯行として立証できないからではないか?

私が、今回の押尾裁判に注目しているのは、従来の常識的な観点からすると、今回の裁判での
TV等、マスコミの報道では、「道義」と「法律」との違いを強調しているように思うからだ。
例えば致死罪は“放置したから死亡した”ことを証明する必要がある、ということだったが、
前記問3)では、予測できなくとも結果として死亡したら責任があるという。押尾被告の場合
は、目の前で被害者の死亡を見届けながら救急車を呼んでいない。放置して死に至らしめた事
は間違いない。また、合成麻薬を渡したかどうか?が、保護責任者になるかならないか?の
決め手というのは常識的にどう考えてもおかしい。肉体的接触のある男女関係があるのに麻薬
を自分で飲んだら保護責任は「無い」というのはおかしい。それなら前記問2)登山中の滑落も
本人の不注意で、同伴者には保護責任がないことになる。

それにも拘らず放映されているどのテレビでも、「道義」と「法律」との乖離は、当然の事と
して、難しい法律用語がわからない人間は「バカ」という論調で押尾裁判を解説している。
私もそれを鵜呑みにして、法律的に罰する事は難しいのだろうと思っていた。
「道義」と「法律」を区別する事が、学のある人間のように言っているが果たしてそうか?
元来、「道義」と「法律」とは、1つのものだった。法律の運用の中で、時代の変化に合わせる
ために様々な解釈がなされる内に、「道義」と「法律」の間には多少の齟齬は出来るだろうが
決して別物でない。日本にはプリンシプルがないので、長期間における専門家間の机上の空論で
「道義」と「法律」に乖離が出来すぎた。それを何とか改革するために「裁判員制度」が導入
されたのだ。「道義」と「法律」を区別したがる人間に碌な者はいない。押尾裁判は、芸能人の
「裁判員制度」の初の裁判として注目されている。芸能界の“常識”が一般常識とかけ離れた
全くの非常識であることを“裁判員”は、正々堂々と糾して貰いたい。如何なものか。
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