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生き方と絆 [物語]

Dr.コトー診療所の第9,10,11話の再放送(先週土曜と今日)について、“生き方”と“絆”という
観点から書いておきたい。人と人との“絆”、人間関係、信頼関係などは案外もろいもの。コトーが
島に来て半年、築いてきた島民との信頼関係は、第8話の「救えない命」で最高潮に達した。
そのとき島に来ていた原沢咲(石田ゆり子)が言っていた。「あなたは、一番幸せなお医者さん、
医師は、病を治してこそ感謝されるが、死んで感謝される事などない。」、と。然るに、先週9話
「暴かれた過去」では、東京の週刊誌記者・巽健司(津田寛治)が、コトー(吉岡秀隆)に復讐しよう
と、コトーの過去にあった医療事故の週刊誌記事を村内にバラまく。この記事によって、コトーと
島民との信頼関係はもろくも崩れ去ろうとしていた。

コトーは、役場の課長・星野正一(小林薫)に、自分から島の人々に真相を打ち明ける説明集会を
開いてもらうことを依頼した。そして、説明集会の当日、雨による土砂崩れの事故が発生して、
週刊誌記者の巽と子どもの山下信一(斉藤大貴)が重症を負う。この二人の救急処置の順番で、
信一を先に助けてやれという巽に逆らい、巽の脳の損傷を素早く診断して、コトーは巽の手術を
先行する。自分の息子・信一をそのままにされた山下努(船木誠勝)は、このことでコトーに強い
不信感を抱いてしまった。

第10話「この島を出て行け」では、ついに、最悪の事態へと進行していく。重傷を追った巽謙司
(津田寛治)と山下努(船木誠勝)の息子・信一(斉藤大貴)の手術は終了した。しかし強い
不信感を抱いてしまった山下努の気持は納まらず、安藤重雄(泉谷しげる)も、Dr.コトーを
このままにしておくわけにはいかないと、遂にDr.コトーに島から出で行けと言う。

この信頼関係の崩壊、ズタズタになった“絆”が、どの様にして回復したのだろうか?
それは、看護婦の星野彩佳(柴咲コウ)、事務員の和田一範(筧利夫)、吐血までする胃潰瘍に
なるほど心配した課長の星野正一など変らぬ応援団がいた理由も大きい。しかし一番信頼回復
のポイントは、コトーの過去の事件に対する真摯な反省である。第10話、退院間際、コトーを
責める巽に、また、第11話、手術後の三上医師に、心からの自分の気持を吐露したのだった。

人間関係、信頼関係を築き、“絆”を作るのは、自らの生き方なのだと思う。コトーは、半年間
島の人々のために一生懸命貢献し、そしてまた島の人々から多くを学んだ。だからあきおじの
勲章(藁草履)を貰えた。その生き方を貫けば、“絆”はキッと甦る。如何なものか。
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生き方と病 [物語]

“ためしてがってん”、「認知症!介護の新技で症状が劇的に改善する」の放送は、私に
大変興味深い情報を提供してくれた。しかし、気になる一点がある。それは、
“認知症介護の改善”という言葉の裏に、合理化・効率化の臭いがすることである。

“ためしてがってん”の“認知症介護の改善”で、私が最も注目したのは認知症患者が凶暴化
する等、悪化のメカニズムを明らかにした点である。認知症患者も扁桃体(へんとうたい)と
いう大脳辺縁系の器官が働き、感情を伴った記憶は、記憶に残ることに着目し、認知症患者を
普通の人として親切に接する事で、症状の進行が随分遅くなるという。従来、“認知症患者は
訳が分からない”、と思って扱っていたために悪化が早く進行してしまったのだ。

このことは、人間的な関係を重視する事の大切さ、を明らかにしている。
病院では、病人を物体のごとく扱う、というのは、随分前から言われている事である。
Dr.コトー診療所の第8話「救えない命」の物語でも、明おじ(今福將雄)は、人間関係を大切
にするDr.コトー(吉岡秀隆)だから、本土の病院ではなくDr.コトー診療所を選んだので
あろう。人間関係豊かな中で生活している人間には、人間関係の希薄さは耐えがたい。

資本主義社会は、合理化・効率化によって物質的に豊かになってきた。しかし心の豊かさを
維持し更に豊かにしていくためには、人間的な関係を切断してしまう合理化・効率化の限界を
知っておくべきではなかろうか?
リースマンは、「孤独な群集」の中で、アノミー型という性格分類をしている。アノミー型の
人間は社会や人々との連帯感を喪失した人間であり、凶暴化や無気力化、自殺化に走りやすい。
科学的思考(自分と対象を分離切断する思考)を駆使し、合理化・効率化に憂き身をやつし
金や名誉を求めている内に、一般の人間関係は愚か、家庭内の親子・兄弟姉妹などの関係まで
壊れてしまう事になる。アノミー型の人間が、ある文化圏の人口減少傾向に入ると増加する
という事は、ギリシャ・ローマ時代から歴史的に証明されているという。

私見では、認知症や境界人格障害などの現代病は、アノミー型の延長線上であると考える。
現代が抱える病は、もはや国家予算や、増税で治せるものでは無い。反対にそうすればする程
現代病は重篤になり、国家経済は増々おかしくなるだろう。Dr.コトーのような人は、金で
創れるものではない。いまや効率を度外視した人間関係の再構築が必要だ。如何なものか。
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生き方と命 [物語]

昨日、“ためしてがってん”、「認知症!介護の新技で症状が劇的に改善する」は大変に
タメになった。以前のブログ「2009-03-06認知笑or認知症」でも認知症の事を取り上げた事が
あるが、その時につくった、川柳とも俳句ともいえない一句は的を射ていたと思う。
◎  アラエイティ 認知症より 認知笑

私は私の子どもの頃、周りの人々がお年寄りと、どの様に接していたかを、よく覚えている。
多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛している事が、自然に滲み出ていた。だから
接する人々は、今でいうところの「バリデーション」と呼ばれるようなコミュニケーション法
が自然に身についていた。老人が多少ボケても親身になって耳を傾け、意味がよくわからなく
とも、ユーモアとして笑顔で答えていた。実際、当時の老人は洒落や冗談がうまかった。
周りの人たちが、シャレを即、分からず間をおいて爆笑を誘う事もしばしばだった。
いまでは「バリデーション」も外国の老婦人を先生として、有難く日本人は拝聴していた。
こういう手法だけを逆輸入して、表面だけ取り繕う福祉で、税金をつぎ込んでやる事が
これからの日本の進む正しい道なのか?よく考えるべきではないか。

Dr.コトー診療所の第8話「救えない命」の物語を、「終末医療」といった、型通りの医療の
問題としてではなく、人間の一生がどうあるべきかという面から見るべきではないか。
この物語が、藁草履作りを子ども達に教えている明おじこと・山下明夫(今福將雄)の所に
Dr.コトーが訪ねてくる場面から始まるのが象徴的である。明夫の息子・山下一夫(納谷真大)
が、父親の様子がおかしいとコトーを呼んだのだ。明夫は末期がんとわかり、本土での手術を
コトーは奨めるが、明夫はコトーの執刀を望む理由を、「もし、わしが死んでもあんたの手に
かかって死ねるなら本望じゃ!」という。明夫がコトー(吉岡秀隆)のことをどれだけ知って
いるだろう。信頼関係というのは、疑えばキリがない。明夫は見知らぬ人よりも島で懸命に
働いているコトーを信頼するに足ると思ったのだ。だから、明夫が亡くなったときに、一夫と
妻の道子(森上千絵)から、明夫の遺品を手渡される。それは、藁草履と一通の手紙、そこに
「コトー様 夏涼しくて冬暖かい わしの自慢は 西瓜と藁草履 あきおじ」と書いてあった。
冒頭の場面で、明おじは、コトーに藁草履を作ってやる約束をしていたのだ。

老後こそ、生命維持よりも心をさらに豊かにすることだ。そのためには、若い頃から人々との
心からの「バリデーション」会話法や、信頼と笑顔が大切ではないか?如何なものか。
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道義と法律 [社会]

今朝のテレ朝スーパーモーニングで、道義的責任と法律的責任という観点から、
コメンテータに、次のような問題を出して、法律的責任の有無を問いかけていた。
1)川で流されている人(知らない人)を見た人が、救助の連絡をしなかった場合
2)登山中で、知合った人が、滑落した場合に、救助の連絡をしなかった場合
3)泥酔した友人(A)を介護して帰宅中にAの言葉に従い、Aを放置し、Aが死亡した場合
全て、道義的責任はあるが、1)のみには、法律的責任がない、という説明だった。
私の解釈では、1)は、状況認識の個人差、連絡手段の問題等が理由だろうが、要は
この種の問題は、現行犯逮捕的な状況にないと、犯行として立証できないからではないか?

私が、今回の押尾裁判に注目しているのは、従来の常識的な観点からすると、今回の裁判での
TV等、マスコミの報道では、「道義」と「法律」との違いを強調しているように思うからだ。
例えば致死罪は“放置したから死亡した”ことを証明する必要がある、ということだったが、
前記問3)では、予測できなくとも結果として死亡したら責任があるという。押尾被告の場合
は、目の前で被害者の死亡を見届けながら救急車を呼んでいない。放置して死に至らしめた事
は間違いない。また、合成麻薬を渡したかどうか?が、保護責任者になるかならないか?の
決め手というのは常識的にどう考えてもおかしい。肉体的接触のある男女関係があるのに麻薬
を自分で飲んだら保護責任は「無い」というのはおかしい。それなら前記問2)登山中の滑落も
本人の不注意で、同伴者には保護責任がないことになる。

それにも拘らず放映されているどのテレビでも、「道義」と「法律」との乖離は、当然の事と
して、難しい法律用語がわからない人間は「バカ」という論調で押尾裁判を解説している。
私もそれを鵜呑みにして、法律的に罰する事は難しいのだろうと思っていた。
「道義」と「法律」を区別する事が、学のある人間のように言っているが果たしてそうか?
元来、「道義」と「法律」とは、1つのものだった。法律の運用の中で、時代の変化に合わせる
ために様々な解釈がなされる内に、「道義」と「法律」の間には多少の齟齬は出来るだろうが
決して別物でない。日本にはプリンシプルがないので、長期間における専門家間の机上の空論で
「道義」と「法律」に乖離が出来すぎた。それを何とか改革するために「裁判員制度」が導入
されたのだ。「道義」と「法律」を区別したがる人間に碌な者はいない。押尾裁判は、芸能人の
「裁判員制度」の初の裁判として注目されている。芸能界の“常識”が一般常識とかけ離れた
全くの非常識であることを“裁判員”は、正々堂々と糾して貰いたい。如何なものか。
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夕焼け雲に想う [物語]

昨日の夕方、散歩途中で見とれるような夕焼け雲に出会った。
もう乏しくなった夕日の残光に映えた黄金色の雲は、朱色と雲の襞の薄墨色との間に
多様な色彩を混ぜ合わせて、この世のものとも思えない、妖しい光を放っていた。そして、
私がチョッと目を離していた間に、黄金色の妖しい雲は、どす黒い雲に変わっていた。

私の脳裏に、般若心経の「色即是空」というのは、この事だと、思い浮かんだ。
「色即是空」というのは、“感覚的認識によって様々に変容する事象は、実体がない”という
事である。雲も、一時として同じではなく、不断に変化するのであり、気象予報などでは
ダイナミックな変化の中で捉えるという科学的手法を用いている。
それなのに一般的な人間は、感覚的認識によって同じ“雲”の千変万化に目を奪われる。
「色即是空」で言いたい事は、ものごとを断片的に捉えず、ダイナミックに捉えよ!と
いうことだと解した。そこで、私は考えた。
仏教でいうところの「色即是空」というものの見方、考え方を、実社会でどう捉えて、
利用していけばいいのだろうか?と。そして、一つのアイデアを、思いついた。

それを説明するのに、押尾被告の裁判の問題を例にしたい。
この裁判の関心は、保護責任者遺棄致死罪が成立するかどうか?である。
この罪に問われるためには、薬物を押尾が被害者に渡した事、が立証されなけではいけない。
これは、本人の証言または明確な他人の証言がない限り、状況証拠になり明確にされない。

もう1つの関心は、押尾被告の人間性の問題である。押尾被告は一般的人格者であった。
それが、薬物の影響、或いは特殊な状況で、彼の人格が豹変したか否かである。
その争点になるのが、救急車への連絡だ。仮に急死したとして、友人に救急車も呼ばない?
常識人である私としては、考えられない行為である。これは被害者の輝きがなくなった時に
押尾の心に暗雲が広がったと見るのが妥当だろう。この暗雲が、被害者を見捨て、薬物関連
証言でも否定している源? こういう場合の豹変は人間として下等だと言われている。
押尾裁判を、法律的な観点からだけで観ていると、どうしても静的な見方になる。
一般常識や、庶民感情からのダイナミックな視点を欠かす事はできない。
そういうダイナミックな視点から見る時、浅ましくも自己保身のために豹変した醜い彼の心が
見えてくる。その心を醜い浅ましいと思えないなら、悲しいことだ。如何なものか。
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「ゲゲゲの女房」24週 [物語]

今週の「ゲゲゲ」には、人生とは何か?人の一生とは何か?という大問題を考えさせるものが
あった。後から考えると、青春時代などアッという間の出来事。結婚して、仕事や子育てに
翻弄されて、そして気がついてみると、既にもう人生は、終着駅に近づきつつある。
茂(向井理)の父・修平(風間杜夫)が、孫の喜子(荒井萌)の進路(青春の悩み)相談に
対して、“人生は雲のようなもの。好きなことをやりなさい。”という場面があった。
「人生どんなに頑張って立派な実績を残しても、雲のように吹き流されて跡形もなくなる。」
というのである。これには異論のある人も多いかもしれないが、一般庶民はそう考えて自らを
慰めるのである。修平じいさんは後で「“雲”は気取りすぎた。人生は“屁”のようなもの」と
言い直している。この辺りが、じいさんの平凡で非凡なところではあるまいか。

修平の浮気騒動で、修平・絹代(竹下景子)夫婦はギクシャクする。また藍子(青谷優衣)の
就職の事で、茂・布美枝(松下奈緒)夫婦も何となく気まずい雰囲気になってしまう。長年
連れ添った夫婦でも諍いは起こる。茂たちに仲人を依頼したアシスタント相沢(中林大樹)も
これから結婚する身として、結婚とは何なのか?結婚していいのか?悩んでしまう。

今週は、修平若かりし頃に情熱を傾けた映画館経営時代の旧友のお孫さん・志穂(入山法子)
との出会いで、老け込んでいた修平が暫しの間、若返る話がメインだった。早大卒という
立派な学歴がありながら、変わり者で芸術家肌の修平は、銀行員を辞めて映画館を経営する。
志穂は、当時、招聘していた弁士の孫で、弁士は修平の学生時代からのつきあいだった。
旧知のお孫さんとのデートなら、誰も変な勘繰りなどしない。修平は何故、志穂とのデートを
内緒にしていたのか?私は分かるような気がする。若い頃から抱いていたシナリオの構想を
旧友が気にしていたことを知り、また劇団員でシナリオ作家である志穂にもそれを聴かれて
修平は現役に復帰したのだ。現役のシナリオ作家同士として付き合うという事なのである。

サミュエル・ウルマンの「青春」を思い出す。
青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ、と高らかに謳っている。
理想や情熱、驚きや憧憬、探究心、挑戦する心、喜び、敬愛、信念、美、希望、自信
この詩の中には、素晴らしい言葉が書き連ねられ、読むだけで力を与えてくれる。
確かに、人生は“雲”や“屁”のようなものかもしれない。しかし、全人生を青春時代として
生き抜く事ができたら、人が結果をどう解釈しようと良いではないか。如何なものか。
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力と愛・② [社会]

大阪地検は障害者団体向けの郵便割引制度を悪用した事件を2008年頃から捜査していた。
2008年5月には、上村元係長が逮捕され、2009年6月になって、現職の厚生労働省雇用均等・
児童家庭局長だった村木厚子さん(54)が逮捕された。容疑は、障害保健福祉部企画課長
だった2004年6月に、実体のない障害者団体「凛の会」に、上村元係長に指示して障害者
団体証明書を作成させた、というものだった。村木厚子さんは一貫して無罪を主張した。

今日の昼のTVで、無罪判決が下りた。結論的に言えば、上村元係長の単独犯行という結果。
2004年当時の元係長と、元部長が、調書では、依頼や指示をした事になっていたが、
証言では、調書を全面的に否定する内容になり、検察の立証は難しくなった。

今日発行の月刊「文芸春秋」10月号に、村木厚子著・「私は泣かない、屈さない」という
記事が掲載されていた。それを読むと“検察”のやり口が詳細に解説されていた。
弘中弁護士(優秀な弁護士さんらしい)曰く「検事が自分の好きな調書を作ってしまう。
それが調書というものだ。」村木さんは、“どんなに説明しても、結局検事さんが書きたい
ことしか書いてもらえない。そこからどれだけ訂正してもらえるかの交渉が始まる”という。
また検事は「調書の細かな修正を面倒がって、執行猶予が付けば大した罪ではないから良い
でしょう」という感覚だという。村木さんとしては公務員としての信用の問題なのだ。
検事は、庶民感覚とかけ離れた存在である。まったく“愛”のカケラも無い冷酷人間だ。
村木さんは、自分の誇りと、公務員としての信用をかけて、泣いて訴えたという。

それでも調書の修正に応じてくれた遠藤検事はマシな方で、国井検事というのは思い込み
が激しく、調書を一本も作成することなく終わったという。コミュニケーション能力は
どうなっているのだろうか?そんな異常なコミュニケーション能力では“愛”は育たない。

拘置所生活に関する村木さんの記述は素晴らしかった。“世の中には人のために動く人が沢山
いることを、身をもって知った。500通ほどの手紙を頂いたが、私なら手紙に何て書いたら
いいのか分からない。キッと皆さん、ものすごく一生懸命考えて書いてくれたのだと思う。”
という相手の気持を受け止める力を、国井検事に分けてやりたいものである。
検察というところは強大な権力を持ち、最高権力者をも監獄にぶち込める。だからこそ、
人間として謙虚でなければならないのではないか?如何なものか。
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力と愛 [物語]

今日は重陽の節句。私の親父の誕生日でもある。
奇数は陰陽では“陽”になり、重陽は陽が重なるという意味。
親父は重陽の節句が、お祓いの行事から吉祥の行事へと変わった経緯を知ってか知らずか?
親父の誕生日は、旧暦で記憶されていたとして、自分で自分の誕生日を9/9に指定していた。
その辺の経緯については、ブログ「2009-11-09 閑話091109」に書いた。

鈴木宗男議員が最高裁で上告を棄却され、異議申し立ての通る見込みもないと騒がれている。
議院辞職、収監、服役という事になるらしい。記者会見中、娘さんの話になると、鈴木議員も
涙を見せた。鈴木議員は、「娘は、健気に父親を励ましてくれる。」と言っていた。

私は、鈴木議員の犯罪について、検察と鈴木議員のどちらが正しいのか?分からない。
私の考えでは、公職の高い地位にある人の裁判は、ある種の権力闘争であると思っている。
被告側も、検察側も、ある種の権力集団に属しており、両集団による権力闘争なのだ。
明らかな証拠でもあれば、全く問題はないが、状況証拠や調書のみによる裁判は、本来は
“疑わしきは罰せず”の原則論から言えば、有罪にはなりえない。しかし、社会秩序を維持
するという建前から、両者は権力闘争によって決着を付けようとするのである。

坂本竜馬の暗殺は、幕府・新撰組の仕業ではなく、薩長によるものだという説が根強い。
その理由は、倒幕のために薩長連合を説いていた裏で幕府と公武合体工作をしていたから。
これに薩長は激怒したというのである。鈴木議員の問題も、ロシアとの関係などにおいて
これに似たような、チョッとやばい事象があったのではなかろうか?

権力、軍事力、暴力、腕力には、最終的に論理など通用しない。最後は力である。
今回の代表選で、小沢が勝って首相になれば、小沢に対して検察も無理をしないだろう。
本来、民主主義政治における三権分立という大原則は、こういうことではない。
残念ながら、日本の民主主義は、借りてきた猫で、ねずみを捕らない。形だけで魂がない。
従って、正しく機能しない。本来の民主主義政治には、“愛”が無ければならない。
本当の民主主義政治では“愛”が根付くよう、国民も国家も不断の努力を惜しまない。
“愛”とは、自己犠牲の精神である。罪人となる父親を必死で支える娘さんの心である。
その心が、父親だけでなく、全ての人に開かれている事である。如何なものか。
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異常気象余話 [閑話]

今日は24節気の1つ“白露”。今日から15日後の“秋分の日”迄の期間も“白露”という。
大気が冷えてきて露が出来始める頃というが、今年はどんなものだろうか?
気象庁のデータによれば、9月以降も8月とほとんど変わりない残暑が続いている。
岡山は、9月に入って昨日まで1週間、連続熱帯夜。猛暑日が3日、真夏日が4日だ。
倉敷は、9月に入って、9/2を除いて、熱帯夜6日間。猛暑日2日、真夏日5日である。

夕方の散歩で感じる風には、秋の気配がないといえば嘘になる。しかし夜もほぼ熱帯夜。
これでは、結露はまだ少し先になるだろう。
◎ 露むすぶあさ 待ち遠し 秋の暮れ

民主党政治の熱気が、日本のこの糞暑い異常気象を現出させているのだろうか?
それとも、菅‐小沢で争われている代表選挙の熱気のセイだろうか?
私は、政権交代した民主党政治が、国民の期待を裏切った結果の不満の熱気だと思う。

私の考えでは、元々、民主党政権は真ともな政治が出来るところまで成長していなかった。
国民の多大な期待は、大風呂敷のマニフェストによって喚起されたものであるが、それらの
期待を全て満足するまでの準備は、民主党には出来ていなかった。
今回、小沢元代表が代表選に出馬した事によって、心ある人々は、民主党内の組織的な
問題に気付き、暗澹たる思いであろう。

二大政党の一方としてしっかりした存在であるべき自民党が、あまり信頼できなくなった今
今回の代表選では、どちらが勝っても「挙党一致で頑張る」という。
民主党は、過去の自民党同様に、政権交代の危機感のない派閥闘争に明け暮れるのか?
それならば、結局、自民党であれ、民主党であれ、何ら代わり映えしないことになる。

二大政党政治を言い始め、小選挙区にして、それを実現した小沢一郎は、代表選の結果に
かかわらず、正常な二大政党政治実現のために、もう一働きしてもらわなければならぬ。
異常気象の大気温度が下がって露が結ぶように、変な熱気で、危うくなった二大政党政治。
変な熱気が冷めて、正常な二大政党政治が実を結ぶように期待する。
現在の民主党熱は、異常気象のように何だか変だ。如何なものか。
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同窓会余話 [閑話]

同窓会の翌日は、記念ゴルフコンペを開催。48名が参加した。表彰パーティの後は解散。
但し連泊する遠方から参加した連中(東京、海外、その他)は、中華屋に集合して二次会。
20名ばかりのこの集会も流れ解散で、21時頃にホテルに着いたが、4名だけで隣の居酒屋へ。
中華屋からホテルまで10~20分ばかり歩いた喉の乾きを少し潤しながら「深いぃ~話」を
しようという寸法である。チョッと酔った頭で、素晴らしい話が出来たと思っていたが、
今思い出そうとしても、キーとなる部分が、なかなか思い出せない。

話題は、政治・時事問題から、歴史、哲学、宗教、そして社会問題へとなかなか尽きない。
我々の年代が集まると、病気の話題が必ず出ると言うが、ほとんど出てこない。そういえば
元気者のINが“整体師”のことを話題にしたが、あまり他のものが乗って来ないのでそれきりに
なってしまった。私など、実生活の中で“整体師”との接点が皆無で、話の穂の継ぎようもない。
恐らく、もっともっと身体を鍛えてゆくと、“整体師”との接点もでてくるのか?そう考えてみると、
病気は不健康の成れの果てではなく、健康追求の果てにもあり得るのだろう。

此処からは同窓会との関係は全く無い、私の勝手な記述であることをお断りしておく。
現在、押尾被告の裁判が、保護責任者遺棄致死罪で争われている。
この裁判のポイントは、争点となっている女性(KT)が、健康者から病人になってから死に
至るまでの経緯、時間が大切だと思うが、その点を明らかにされていない?

押尾被告は、今回と同様の麻薬を使った女性関係を繰返していたようだが、
このような行為が、男・女ともに健康者→病者になる確率は低いのだろうか?
次に、この様な行為によって、男・女の内、どちらかが、健康者→病者になった場合、相手に
保護責任者足りえる資格(すなわち、正常な判断力を持った成人)があるのだろうか?
KT嬢の病者→死者の経過時間内に、押尾被告が正常な判断力を取り戻せたのか?

私の考えでは、検察は押尾被告に保護責任者遺棄致死罪を課して見せしめにしたいのだろう。
私は情としては分からなくないが、日本の倫理観を全て法律で決しようという考えには違和感
を覚える。押尾被告の独善性、利己主義は明らかであり、昔の日本では法律ではなく倫理観で
裁かれた。しかし現代日本では微罪ならば、堂々と生延びられる可能性大である。
今回の根本問題は、日本の倫理観の崩壊をあからさまにしているのでは?如何なものか。
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