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NHK連続TV小説「純と愛」 [物語]

今日、たまたまチャンネル切替え途中で「純と愛」の画面になった。
普段なら、即座に他チャンネルに切替えるところだが、
いやに雰囲気が変わっていたのでつい、数分間、視聴した。
私の予想した通り、最後は丸く納まるようだった。
お話は、どんな奇跡でも起こす事が可能である。
だから、この話を毎日見ている人は、それはそれなりに感動しているのだろう。

しかし私の様に、昨年の11月上旬頃から、愛想を付かした視聴者の目には、
何とも、不自然な和解の場面だった。
出演者の演技が、わざとらしく、非常にぎこちない。自然な演技とは言えない。
全く息が合っていない。間の取り方も不自然で、味わいがない。
役者の演技力の問題なのか?私は、それよりもあまりにも話の展開が不自然で
無理筋であるために、役者もついていけなかったのではないかと思う。
今日以後は、例え一瞬たりとも、「純と愛」を見たくないと思った。

愛と誠の両親・多恵子(若村麻由美)と謙次(堀内正美)が海辺で大声を出すシーン。
大きな息子や娘をもった人間にしては、いかにも幼ッ児ぽい行動に見えた。
その年になって、やっと我欲にこだわっていた事を理解できた開放感からか?
今迄の行動は、その程度の事も理解できなくて、偉そうに怒鳴っていたのか?
或いは、精神的に病んでいたのか?
それでも本ドラマの登場人物の様に、何とか正常な人間に戻れば良いのかもしれない。
本ドラマは、我欲を抑制するのではなく、勝手気ままに振舞って、自己の非に
気付く事が、大切だと言いたいのかもしれない。既成の概念から自由になりたいのだ。
従って、NHK連続TV小説「純と愛」は、我欲を奨励しているという事になる。

しかしこの物語は、つくりごとであり、単なるでっち上げである。
我欲の虜になった人間は本ドラマのように、我欲からも、既成概念からも
自由になる確率は非常に低いと思う。
それよりも一生、餓鬼道におちいる確率が、100%に近くなる。
なんでもありの民放では、「純と愛」という番組もあって当然だと思うが
NHK連続TV小説としては全く不似合いな番組だと以前にも書いたが、改めて痛感した。
如何なものか
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ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」(4) [物語]

1832年の6月暴動は6月5日、民衆の味方とされたラマルク将軍の葬儀をキッカケに起った。
映画では、“ABCの友”という結社が中心となった活動を主に取上げて描かれている。
中心人物は、結社リ-ダ・アンジョルラス(アーロン・ドヴェイト)とその親友マリウス(エディ・レッドメイン)だ。
その前に、マリウスとコゼット(アマンダ・セイフライド)との街中での偶然の出会いがある。
二人は一目ぼれしてしまう。結社の学生達と親しい関係に有ったエポニーヌ(サマンサ・バークス)も
また、以前からマリウスに恋していた。

雨の中で歌うエポニーヌの“On My Own”という曲が、しみじみと心に沁みた。
マリウスがコゼットに夢中なのを知り、失恋を嘆く歌だと思うが、私にはそれだけではない何か?
があると感じたのである。それは、「無償の愛」に近い純粋な愛とでも言おうか?やがて
始まる政府軍の攻撃の中、エポニーヌは、自らを楯にして愛するマリウスをかばい、神に召された。
マリウスもまた、攻防のさ中に、銃弾を受けて負傷する。気を失っているマリウスを助けたのは
バルジャン(ヒュー・ジャックマン)だった。パリの下水道を伝って逃げるが、土壇場でまたも天敵の
ジャベール(ラッセル・クロウ)が前にたちはだかる。しかしジャベールにはバルジャンに借りが出来ていた。
ジャベールが、革命軍のバリケード内に労働者に扮してスパイとして潜入していた時、ガブローシュ
少年に正体を見破られた。処刑されようとした場面で、バルジャンが命を救ったのである。
バルジャンの「しばしの猶予をくれ!」という願いを聞き入れてしまったジャベールは、信念を
曲げてしまった事に耐えかねて、高い橋の欄干からセーヌ川に身を投じてしまった。

「レ・ミゼラブル」は、フランスのロマン主義文学の代表作だという評もある。
原題は“Les Miserables”。「哀れな(惨めな、悲惨な)人々」という意味だろう。
この物語の意図を、ロマン主義の特徴(以下の「」内)に即して見て行こう。
まずファンティーヌは、若い頃の恋におぼれて結果的に悲惨な結末となったが、それは
「普遍的理性(既成の道徳)に対抗して個々人の感性の優越を主張する」生き方といえる。
またエポニーヌの恋は、「情熱的で絶望的な恋愛と自殺への志向」を表現している。
バルジャンの生き方も「古典的表現を打破して自由な表現を追求した」ということ。
そしてジャベールの敗北は、「個々人の感性の優越を主張」したバルジャンの勝利でもあった。

マリウスとコゼット、そしてエポニーヌの恋物語を見ながら、ふと数週間前に見たNHK連続テレビ小説
「おしん」における高倉浩太(渡瀬恒彦)とおしん(田中裕子)そして酒田の米問屋・
加賀屋の娘・加代(東てる美)との三角関係を思い出した。
最も似ている共通点は、マリウスも浩太も実家は裕福な学生であるが、窮民を助けたいという
革命家を目指していた事である。次は、コゼット、エポニーヌ共に、1832年当時17才に対し、
おしんも加代も、浩太との出会いのあった1917年当時、二人共、同い年の16才であった。

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ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」(3) [物語]

1823年、マドレーヌ市長ことバルジャン(ヒュー・ジャックマン)は、荷馬車の下敷きになりかけた男を救う
為に怪力を発揮した。それを目撃したジャベール(ラッセル・クロウ)が、過去の記憶から、マドレーヌを
バルジャンだと疑いだした。過去の記憶とは、囚人としての最後の務めとして、
バルジャンが国旗の回収を命じられ、重い帆柱を担いで国旗を回収した光景であった。

そして慈善の為に港湾地区に行ったバルジャンは、転落したファンティーヌ(アン・ハサウェイ)が、売春客と
イザコザを起こし、傷害罪で逮捕される所に居合わせた。ファンティーヌが自分の経営する工場を
解雇された為に悲惨な目に会っている事を知り、病(結核?)に犯されていたファンティーヌを
介抱すると共に、娘・コゼットを里親から連れ戻すことを約束する。

そんな時にバルジャンにとって試練の時がくる。バルジャンに関する冤罪事件の勃発である。自分が
名乗り出なければ、無実の人間が自分と同じ様に刑を終えても罪人の汚名を着せられ一生を
送らねばならない。しかし名乗り出れば、逃亡しながら築いてきたものを全て失ってしまう。
そういう切羽埋まった状況の時、ジャベールがバルジャン逮捕を知り、マドレーヌ市長ことバルジャンに
自分の過ちを謝罪する。最早ジャベールからの追求を心配しなくて済む。激しい葛藤に苛まれた
バルジャンの心中や如何ばかりだったか?ついにバルジャンは裁判所に出廷して正体を告白した。

その後、どうして官憲の手から逃れたのか?その経緯は、映画では余りにも芸術的表現?
(チョッと皮肉?)私には理解できなかった。兎も角、官憲の手を逃れたバルジャンは、
ファンティーヌの約束を果たす為に、有りっ丈の金をbagに詰めてファンティーヌに会いに行く。
ファンティーヌは、娘・コゼットをバルジャンに託し、彼の胸に抱かれて昇天した。
コゼットの里親・テナルディエ(サシャ・バロン・コーエン)と夫人(ヘレナ・ボナム=カーター)というのが、実に小ずるい
悪党。宿屋を経営して、宿泊客の金品を剥ぎ取る悪徳業者である。コゼットは、そんな里親に
酷い仕打ちを受けて育った。バルジャンは里親の吹っかける大金を支払い、コゼットを取り戻した。
コゼットの保護者となったバルジャンは、逃亡者として苦しい思いもしたが、コゼットに愛情を注ぎ、
愛する者のいる幸せをかみしめていた。

歳月は流れ、時は1832年。コゼット(アマンダ・セイフライド)は花も恥らう17才になった。1830年の
7月革命によってブルボン朝が倒れた後、フランスは立憲君主制に移行。中流は楽になるが、
格差拡大に労働者や学生は不満を募らせていた。テナルディエ一家も、この頃には、宿屋の経営に
行詰まり、破産してパリに出て来ていた。テナルディエの娘・エポニーヌ(サマンサ・バークス)とコゼット、
革命に憧れる大金持の息子マリウス(エディ・レッドメイン)の切ない恋物語が始まる。如何なものか
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ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」(2) [物語]

表題の映画がミュージカル映画史上で特異な物語である事は、昨日のブログでも述べた。
その為かあらぬか?制作上でも、他のミュージカル映画と異なる点が多々あるようである。
例えばヒュー・ジャックマン(バルジャン役)、ラッセル・クロウ(ジャベール役)、アン・ハサウェイ(ファンティーヌ役)
といったトップスターがオーディションを受けなければならなかった等である。また
本映画は、アフレコではなく演技と同時に録音する同録でやっている。その為に映画を
見た人ならすぐ気付く事だが、一流の歌手だろうけれど、発声に苦しい所が幾つもあった。
舞台のオペラやミュージカルは、ライブ演奏だが、それだけにまたそれなりの配慮がなされる。
そして舞台は一期一会で、反復して見たり聞いたりされることはない。 録画はある。
しかし舞台の録画中継は、撮影場所が限定されている。

映画は舞台と異なり、クローズアップなどの多用によって、舞台の演技のような形式美で
ごまかしが効かない。雨に濡れながら、或いは海中で、或いは重い物を持ち上げながら、
といったリアルな演技が要求される。俳優が過酷な条件で、劇の解釈に沿って、歌詞に
込められた意味や、役柄の人物の感情やその意図まで汲んで歌わねばならないのである。
その歌唱の同録を使うというのだから、歌い手として、まさに超人的な演技だと思う。
そういった意味からも、本映画は、ミュージカル映画史上で、特別の位置を占めるだろう。

さて物語は1815年、バルジャン(ヒュー・ジャックマン)が、仮釈放になる直前のシーンから始まる。
このシーンが圧巻だった。壊れた大きな帆船(軍艦?)を、ドックに係留する為に、
海水の中で綱を引く沢山の囚人の中に、バルジャンも居る。“下向け”と大合唱する。
これが、軍艦なら海戦があったはずだが、1815年にトゥーロン近辺で海戦はなかった?
従って商船だったのか?確かな事は分からない。原作の仮釈放の経緯とは異なるのか?
半世紀以上前の大昔に、簡略化した邦訳本しか読んでいない悲しさである。

銀の食器と燭台にまつわる司教の情けと愛に救われ、バルジャンが名前もマドレーヌと変えて
身分を隠し、真人間になろうと努力した話は、誰でも良く知っている。そして1823年へと
話は展開する。モントルイュ・スュール・メールでマドレーヌは工場を経営する成功者になり、市長にもなった。
トゥーロンはフランスの南の端、モントルイュ・スュール・メールは北の端である。こんな所まで
天敵のジャベール(ラッセル・クロウ)が赴任してくる? そこが面白いところである。
映画と原作では、時間関係が異なるようだ。ファンティーヌ(アン・ハサウェイ)の転落の経緯は、
長い期間(数年)をかけているのだと思うが、映画ではなんだか急展開に見える。
ファンティーヌも“Miserables(複数形)”の一人だが?扱いが軽い? 如何なものか
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ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」 [物語]

表題の映画は、今年見た二本目の映画である。なかなか映画を見る暇がない日常なのに、
何故見たのかというと、娘がこの映画にいたく感動している感想をメールで貰ったからである。
私の知っている或いは今まで見てきたミュージカル映画は、殆どが、アメリカ映画だった。
アメリカ映画というのは、ミュージカルに限らず、ハッピーエンドに出来ていて、話に深みはないが
音楽の美しさと楽しさがあって、昔は良く見たものである。

ある映画雑誌に、1930年代の「オズの魔法使い」から「レ・ミゼラブル」迄のミュージカル映画(110本)
の一覧表があったので、見た記憶のあるものを数え上げたら、以下の様になった。
1950年代まで:10本/32本(全てアメリカ製)、1960年代:5本/19本(アメリカ製18本)
1970年代:0本/16本(アメリカ製14本)、1980年代:1本/11本(全てアメリカ製)
1990年代:1本/10本(アメリカ製7本)、2000年代:0本/18本(アメリカ製15本)
2010年代:1本/4本(アメリカ製3本)、通算:私鑑賞=18本/全体=110本(アメリカ製100)

以上から、以下の様な事が言えるのではないか?
1.ミュージカル映画も一般映画同様、流行の浮沈みがあったが、2000年代から盛返している?
2.近年、他国の参入も多くなったとはいえ、やはりアメリカ製は強い基盤があるようだ。
3.米国製以外で私鑑賞のミュージカル映画は、「レ・ミゼラブル」、「チキチキバンバン」くらい。
  どちらもイギリス製であるのは、単なる偶然だと思う。
4.また、110本のミュージカル映画の歴史を振り返ってみると、「レ・ミゼラブル」という映画が
  ミュージカル映画の歴史の中で、相当に異色の存在であることが分かる。

「いろいろ深かった!」という娘の感想に、私も強く頷くものがあった。
映画鑑賞その他、趣味・娯楽というものは、日頃の不平不満や悩みなど、所詮“憂さ”を晴らす
「憂さ晴らし」の手段と捉えるのが普通である。合唱や運動ジム通いなども、定期的に、
心身にたまった垢を洗い落とすという事も言える。
しかし一方で、単なる憂さ晴らしではない部分もあるのではなかろうか?
幼い頃の独楽回し等の遊びも単なる楽しさだけではなく、遊びの中で何かを学び成長する。
それと同様に映画の中にも鑑賞によって、人間的な成長を促す映画もあるのではないか?
ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」は、原作を模してはいるが、明らかに独立した作品である。
日本の本歌取の手法と同様に、原作を背景にする事で、重厚な意味を持たせることができた。
しかし本映画作品は、迫力ある視覚的画面、聴覚的訴求力によって、何の予備知識もない
人間にも、「ふかぁ~い何か?」を訴えかける作品であると思った。如何なものか
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東京家族物語(4) [物語]

今日の散歩は、比較的日差しもあり、風が強かったが、それ程の寒さは感じられなかった。
今日は、『東京物語』と「東京家族」の周吉(橋爪功)の妻を中心に映画の感想を述べて見たい。
まず『東京物語』のとみ(東山千栄子)を最初に取上げたい。私から見れば、祖母に当るとみは、
『東京物語』を見た当時は、遠い存在の様に感じていた。だが、妻と同世代の「東京家族」のとみこ
(吉行和子)と並べて見た事によって、とみもまた、陰影を持った人物として浮かび上がってきた。

確か、映画制作当時〔昭和28年(1953)〕とみは68歳の役だった。という事は、明治18年
(1885)の生まれという事になる。68歳当時は尾道に住んでいた。常識的に言えば、生誕地も
その周辺と考えて良いだろう。明治18年といえば、明治憲法の発布が三年後、帝国議会最初の
召集が五年後、大津事件は6年後である。明治維新後、まだ世の中は騒然としていた? 

最近の若い人は余り知らないと思うが、当時はまだ北前船の活躍も華やかな頃で、瀬戸内海の
港は海上運輸の基地として賑わっていた。即ち現代の様に鉄道や航空のネットワークが出来る
までは、都会集中型ではなく地域分散、地方中心の経済だった。従ってとみが生まれ育った頃は
尾道も、それなりに先進的な地域だったと思われる。またこの映画制作当時は、ようやく
朝鮮戦争の休戦が成立した年。日本の国際連合加盟は三年後だった。
そういうとみの生涯を眺めると、地域の栄枯盛衰や、日清・日露戦争、そして15年戦争等、
幾多の山谷を乗り越えた多難な人生だったといえる。久し振りの上京を喜び、その慶びを
胸に永久の眠りについたとみの鷹揚で上品な人柄が、懐かしく思い出される。

一方、「東京家族」のとみこは、2012年に68歳という事は、昭和19年(1944)生まれ。
生まれ育った環境は異なるとはいえ、私の妻と同世代である。そういう観点から考えた場合、
「東京家族」のとみこは、頑固な夫に従順に従い、保守的過ぎる様に思えた。子どもや孫が
東京に住み、特に次男・昌次(妻夫木聡)は気がかりな存在である。それなのに、自分一人で
上京して子や孫の様子を見る事は無かったのだろうか?私の妻など、年に何回も、1~2週間位
上京する。とみこの住まいは、瀬戸内の小島という設定だから交通の便が、我家の倉敷よりは
悪いかも知れないが、今回が何年ぶりの上京だったのだろうか?

私は、とみこ(吉行和子)の演技を見ていて、一昨年見た「Railways2」を思い出した
(2011-12-16のブログ『続・映画「Railways2」』を参照の事)。映画「Railways2」は、
滝島徹(三浦友和)・佐和子(余貴美子)夫婦の定年離婚の物語だ。そこで吉行和子は、
看護婦佐和子の患者・信子役(恐らくとみこより年老いた現代のお婆さん)を演じた。
定年離婚を決意した佐和子の頑なな心を解きほぐす大切な味わい深い役だった。


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続々・東京家族物語 [物語]

映画「東京家族」について、今日は私と同世代の平山周吉(橋爪功)を中心に感想を書きとめて
置こうと思う。昨日一昨日のブログでも触れた様に「東京家族」が、『東京物語』をモチーフにして
複合的重層的効果を狙ったものである事を十分承知している。従って多少の齟齬がある事に
目くじらを立てる意図はない。感じた事を記述して、後からその解釈をしたい。

まず、周吉・とみこ(吉行和子)夫妻の旅行計画である。なぜ宿泊先の子ども達と周到な打合せを
しなかったか?2012年という現代の設定だから、如何に瀬戸内の小島に住んでいるとはいえ
通信手段は、『東京物語』(1953年)とは比較にならない程に進歩しているはずである。
長女金井滋子(中嶋朋子)・庫造(林家正蔵)夫婦は、寄合い等で両親の宿泊予定と重なって
いたが、祭りなどは年中あるものではない。もう少し調製可能ではなかったか?
周吉の上京の用向きは、世話になった友人のお悔やみであり、固定された予定ではなかった。

旅行計画を詰めなかった理由は、子ども達が両親の東京滞在期間や行動を細かく設定するのは両親に失礼だと考えていたからではないか?我々の様に都会に勤務し、老後も田舎とはいえ
比較的大きな町に住んでいるものと、感覚が違うのではないか?我々夫婦が上京するとき等、
子ども達からどういう予定かを聴かれ、予定が短すぎると苦情を言われたりする。
瀬戸内の小島で育った人々には、そういう奥床しさが、今も息づいているのだろうか?

そういう感覚で「東京家族」の周吉と次男昌次(妻夫木聡)の関係をみると、互いのコミュニケーションが
かみ合わず、チグハグになっている理由が分かるような気がする。周吉の昌次に対する言葉は
きつそうなのだが、本当は思いやっていることが昌次にも分かるのではないか?昌次に対する
周吉の不満は、昌次の生き方、人生観を理解できない事である。日本の様にいつも急激に変化
している社会で生きている親子は、常に、どの世代にも言える事かも知れない。昌次に対する
周吉の不満は、昌次の婚約者・間宮紀子(蒼井優)の人柄によって解消される。息子の嫁として
紀子の様な女性がなってくれるなら、理解できなかった息子にも安心できる様になるのだ。

「東京家族」の周吉のラストシーンは、『東京物語』のそれと同様に詫びしいものだった。それでも
『東京物語』には、次女・京子(香川京子)が、まだ一緒に住んでいた。しかし「東京家族」の周吉に
同居家族は居ない。周吉はゆきちゃん(荒川ちか)家族ら隣人や地域共同体と共に生きる決心を
していたが、私には、おぼつかない様に思えた。しかし最後にゆきちゃんが洗濯物を入れる籠を
持ってきて洗濯物を出す様に言うセリフを聴いて、「あ~、大丈夫なんだ!」と思った。
素晴らしい隣人と共同体がある。いやこう在って欲しいという願望では? 如何なものか
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続・東京家族物語 [物語]

今日は、朝方少し冷え込んだが、昼間は暖かで晴れ間も多く、気持のよい散歩ができた。
東京家族物語について、本歌取(昨日のブログ参照)の観点から感想を書いてみよう。
私は、50歳代~60歳代?にテレビ放送で『東京物語』を見た頃と違い、「東京家族」における
平山周吉(橋爪功)・とみこ(吉行和子)夫妻の事を大変に身近に感じた。
それは、現在(2012)という時代背景と共に、周吉(72)・とみこ(68)の年齢が、自分たち
夫婦の現在とほとんど重なり合っているからである。人間的側面から見た場合も、周吉の頑固さ、
扱いにくさと共に、とみこの優しさ、おおらかさというのが我が家と似通っている。
だからこそ、とみこの突然の死は実に切なく身につまされ、多くの事を考えさせられた。

『東京物語』の場合には、周吉(笠智衆)・とみ(東山千栄子)は、私と生きてきた時代が違う。
『東京物語』における周吉にとって私は、「東京家族」で言えば、長男幸一(西村雅彦)・文子
(夏川結衣)の子ども(実:柴田龍一郎、勇:丸山歩夢、即ち周吉達の孫)に当る。
『東京物語』では、私は周吉の孫、「東京家族」では、私は周吉自身で、実や勇は私の孫達に
ぴったり符合する。『東京物語』という映画をモチーフとした「東京家族」は、実に五世代に
渡る時代の変化を背景にした奥行きを持っているということになる。

『東京物語』の周吉が成人した1900年初頭から、現代まで約110年の年月を経ている割には、
映画として鑑賞した『東京物語』と「東京家族」の間に、大きな隔たりを感じなかった。
この感想は、私個人のものではなく、出演された俳優さんの多くも同様の感想を漏らしていた。
なぜなのだろうか?大きな原因の1つは、第二次世界大戦という未曾有の出来事で、世の中が
ガラリと変わった後だからではないか?そう考えるとき、『東京物語』における周吉・とみの
不満と喜び、幸一(山村聰)ら子どもたちの行き届かぬ心や悩み、そして次男の戦争未亡人紀子
(原節子)の優しさ、素晴らしさ、悲しさが、なおのこと鮮明になってくる。

「東京家族」はそういう風に見ると『東京物語』の引き立て役にという事になる。しかしだから
子ども達の幸一(西村雅彦)・文子(夏川結衣)、長女の夫・金井庫造(林家正蔵)などが
『東京物語』に比べて優しい事にホッとできるのである。庫造が、駅前温泉に誘う場面など
泣かせるではないか?次男昌次(妻夫木聡)は、現代的で『東京物語』的常識から外れているが、
新旧世代をつなぐ婚約者・間宮紀子(蒼井優)の出現によって家族から認められた。
「東京家族」もまた、『東京物語』によって、引き立てられているのではないか? そして
紀子は、『東京物語』「東京家族」の二つの物語のキーマンであると共に、時代を超えた日本の
変わらぬ素晴らしさの象徴として描かれているのではなかろうか?如何なものか
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東京家族物語 [物語]

先日、知人のお薦めがあったので、山田洋次監督の「東京家族」という映画をみた。
この映画は、昭和28年(1953)に制作した小津安二郎監督の映画「東京物語」をモチーフに
している。山田監督は、「『東京物語』は、世界中の人が共感を持った作品だから、
この普遍的なストーリーで日本の現代を語れるのではないか」と考えたという。

物語は、平山周吉(橋爪功)・とみこ(吉行和子)の老夫婦が、田舎(瀬戸内の小島)から上京
してくる所から始まる。長男幸一(西村雅彦)・妻文子(夏川結衣)、長女金井滋子(中嶋朋子)
夫(林家正蔵)、次男昌次(妻夫木聡)ら子ども達家族との久し振りの再会の為である。
『東京物語』と「東京家族」の登場人物は、ほぼ同じで、役名もほぼ同じである。ただ大きく
違う点が数点ある。次男昌次は、『東京物語』では戦死した良い息子だったが、「東京家族」では
出来の悪い息子で両親に心配を懸けている存在。また次女平山京子(香川京子)、
三男平山敬三(大坂志郎)は、「東京家族」では、割愛されている。
『東京物語』では中心的な存在だった紀子(原節子)は、戦争未亡人だったが、
「東京家族」では、昌次と言い交わした婚約者・間宮紀子(蒼井優)として登場する。

この大きな違いは、昭和20年代末(1950年代前半)と、2012年との時代の違いであろう。
戦争の傷跡が如何に大きかったかを、いまあらためて思い出させてくれた。感謝である。
『東京物語』で両親は、優しく思いやり深い紀子の案内による東京見物に深く感謝したが、
「東京家族」では、夜勤帰りの昌次のイヤイヤ案内で、両親は気まずそうだった。
『東京物語』での紀子は、東京見物、母平山とみ(東山千栄子)の自宅での宿泊、とみの
お葬式など、多くの活躍シーンがあった。
一方「東京家族」での間宮紀子は、とみこ(吉行和子)が昌次の部屋に泊まる夜と次の朝、
そしてとみこのお葬式と出番が少なかったが、後半にキッチリと美味しい所を持って行った。
蒼井優も随分と役得をしたものである。

紙面の都合もあるので、まとめに入りたい。日本古来の和歌の世界に、本歌取(ほんかどり)と
いうのがある。本歌取とは、複合的重層的効果を発揮する為に古歌(昔の歌=本歌)を用いた
作歌技法である。本歌を背景にすることで表現に奥行きや深みを与えるのである。
「東京家族」は、本歌取という日本の伝統技法を用い、『東京物語』を本歌として配する事に
よって、深みのある表現をしたかったのだと思う。それは成功したか?続編を書きたい!
如何なものか

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「清貧の書」と幸福 [物語]

今日、林芙美子の昭和6年(1931)の作「清貧の書」を読了した。
この著作は、確固とした作家であることを証明したという位置付けの短編である。
物語の主人公(加奈代)は二度の結婚に失敗(内縁で戸籍は汚していないらしい)。
カフェの女給をしている加奈代は、男運が悪い。DVの紐男に騙されるらしい。
それでも懲りずに三人目の男と同棲し、高い家賃の一軒家(ぼろ屋)に引越し。
第三の男(小松与一)は貧乏画家。だが暴力を振るわれた加奈代を思いやる優しさの
ある男だった。金もないのに貯金をはたいての引越しは理解できないが、与一は
自分の才能に絶望して加奈代を頼っていたようである。清貧洗うがごとき生活。
与一は金がなくなった事を知り、ペンキ屋の仕事で稼ぐ様になるが、ある日突然
刑事達から小松世市という思想犯に間違われて、危うく職を失いそうになる。

その時に「召集令状」が、身の潔白を証明してくれた。小説の中では召集期間が
21日間という短期であり、平時にはそういう召集もあったのか?よくわからない。
兎も角、誤認逮捕を免れ、ペンキ屋の仕事での稼ぎで与一の召集期間中も加奈代は
餓死せず暮らす事ができた。召集期間中の与一の稼ぎも貧乏人には豊かさをもたらす。
召集期間中、二人の手紙のやり取りを通して、二人の愛は、確実に育まれた。

この短編の記述内容からして、加奈代のモデルは林芙美子、与一は芙美子の終生の夫
・手塚緑敏である事は間違いない。勿論、実話ではないだろう。創作的記述内容も
ふんだんに盛り込まれていると思う。しかしこの短編は、芙美子の心の変化を表す。

林芙美子は、あらゆる苦労をしながら望みどおり「放浪記」でデビュしたが、
近親者等との葛藤に悩んでいた。「放浪記」第二部文末、昭和5年(1930)の
「放浪記以後の認識」では、自分が中途半端な状況にある事を認識していた。
独力で女学校を卒業し努力して、なまじ、成功したことを悔やんでいる様だった。
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」は、その当時の思いではないか?
そういった迷いが、晴れた事を「清貧の書」は語っている。
「風が吹き、雲がひかり、波間に鴎が縹渺として漂う。」
そのありふれた、あるがままの姿こそが、幸福(しあわせ)だと気付いたのでは?
家族との葛藤も、成功者として辛い過去を暴く人々も、あらゆる事をあるがままに
受け止めて、波間の鴎の様に、浮き沈みに拘らず、神韻縹渺の文章を書いたのだ。
幸福に関する芙美子の詩は、この短編を書いた以降ではないか?如何なものか
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