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散歩閑話・5 [散歩]

今日はだいぶ冷え込んだが、朝方は晴天だった。私が出かける昼前には風花が舞いだした。
風が冷たいが、それでも厳寒の頃に比べたら何でもない。合唱練習に区切りが付いた頃
倉敷川の水面を見ていたら、大きな鯉が悠然と泳いでいるのを見かけた。
美観地区には、まだ少しあるのに、はぐれ鯉か、天然の鯉か? そんな事を考えながら川を
覗き込んでいたら、昨日まで気付かなかった赤ちゃん魚がいっぱい泳いでいるではないか!
あ~!春なんだな~!と暫し感動しながら歩いていた。

 梅も咲き 幼魚も戻る 散歩道

そんな気分でなおも川を見ていて、川底にあってはならぬたくさんの廃棄物に気付いた。
心無い人のなせるワザと、心は痛むが見過ごして先に進んだ。 その後、食後の休憩のときに
携帯していた香山リカの『いまどきの「常識」』というのを読んで思い出したことがある。
あるとき、中学の近所の公園で、女子中学生の数人が、食べた後の包装紙や容器を散らかして
そのままに立ち去ろうとしたので注意したことがあった。 その時の言葉が「関係ね~よッ」
意思疎通が出来ずものわかれに終わった後味の悪い出来事で、その言葉が引っかかっていた。

『いまどきの「常識」』の第1章、人間関係、コミュニケーション編を読んで、
あの時少女が「関係ね~よッ」と言った意味が何となく分ったような気がした。
どうも、いまどきの「常識」では、自分の喜び・楽しみを最大にし、怒り・哀しみを最小に
することにしか興味がなく、他人の喜怒哀楽を思いやるなど馬鹿らしいという事のようだから
ゴミの始末をするなどという事は、常識に反している。即ち、「関係ね~よッ」となるらしい。

恐らく、この少女達は、自分の周囲の人間が、そのような自己中ばかりなのだろう。幼い頭で
一生懸命論理的に考えた末の確固たる信念のようであるが、既に論理的破綻を来たしている。
自己の喜・楽を最大に、哀・怒を最小にと思うのは人情かもしれない。 しかし、大きな喜や
楽を経験したいなら、そのための努力も必要になり、人と人との連携を図った中で達成される
ものなのだ。「関係ね~よッ」は、哀・怒 最大、喜・楽 最小の結果しか生れないだろう。
このような一見平和な地方都市にも、こんな芽が出てきているのを見過ごしにはできない。
「関係ね~よッ」的な“考え方”に対する大人たちの姿勢が問われている。 如何なものか。

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続・私的儀式 [希望]

ブログに「私的儀式」を書いてから、3週間以上経過した。
あの日の翌日から足も出して乾布摩擦をするようにした。
洗顔から乾布摩擦、その他、短パン一枚で実施するので、確実に10分以上裸になっている。 
“私の肉体、各器官(脳・臓器・筋肉・口・歯と歯ぐき・目目鼻等)、各細胞に感謝している「私」
とはいったい何者なのだろう?” と毎朝鏡の中の自分を見つめながら考えるようになった。
肉体と「私」とを、コンピュータのハードとソフトとに対比してみた。 
どうも違うように思う。 私の“活動”に、肉体(ハード)同様ソフトは確かに欠かせない。
しかし「私」は、明らかにソフトそのものではない。

得た現状での結論は、「私」は私の肉体、各器官(脳・臓器・筋肉・口・歯と歯ぐき・目鼻等)、
各細胞に遍(あまね)く在る、即ち遍在している、ということである。 
例えば“散歩”という活動は、肉体(ハード)もソフト(各種情報処理)も全てを駆使して
行うのであって、それは全体活動で、「私」と、私の肉体や私の体内で作動するソフトとは
分割することが出来ない。 分割できるときは、活動を停止したときである。
結局、こんな事を考える「私」は、私、だという平凡な結論になった。

無数の私の細胞には「私」が遍在するように、全ての生物には、私の細胞に対する「私」に
相当する「或る存在」が遍在している、即ち、全ての生物は切り離された存在ではない。
「私」は、毎日、細胞と共に死んでゆく身であり、新しい細胞の誕生と共に生れる身である。
「私」は、現在に縛られない。時間に自由に、生と死を繰り返しているのである。

この考えは、老・病・死などの不安=苦に脅かされる、愚かで弱い「私」が、孤独でない事を
気付かせてくれ、大いなる味方になってくれると思われる。
人間は苦しみ・悲しみから逃れるために、自分を強くしようと考えて様々な方法論を考えた。
宗教も、哲学も、科学も、皆そうである。 人間は、苦を厭い、苦から逃げようとする。
逃げるのではなく、共存する覚悟が必要なのだ。 苦に縛られない自由を獲得することだ。
私の私的儀式の思索から得た結論は、明治時代の文豪たちの “不機嫌” “文化の衝突” 
という苦に縛られず、共存するための“苦の構造改革” だといえば、言いすぎだろうか? 
如何なものか。

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「だんだん」と再帰性・2 [物語]

私がNHKテレビ小説「だんだん」を見る様になった理由は前にも書いた。偶然、放送直前に
京都と松江に一人旅したからだ。特に松江は始めての旅だった。 そんな物見遊山気分で見てい
たが、10月中旬頃、双子姉妹の両親、忠(吉田栄作)と真喜子(石田ひかり)の過去が明かされて
いく頃から、そんな訳にも行かなくなった。 何時もなら何となく見なくなってしまうのだが、その頃
ソロスの「再帰性」の本を買って、考え方を借用したお陰で今まで見続ける事ができたように思う。 

私の前のブログ、2008.10.18の「再帰性・4」に、次のように書いていた。
“忠と真喜子の過去の青春物語は過ちに過ちを重ね、誤解が誤解を生む二度と起きない1回きり
の過程であり、 「再帰性」 の理論に当てはまる。・・・・ 忠と真喜子たち大人は、既に
“森を見る” 事ができる様になっており、過去を客観的に受け止める事ができるだろう。”

しかしドラマの展開は遥かに私の予想を超えていた。
今やその大人たち忠と嘉子(鈴木砂羽)の離婚が具体的になってきた。また、先週2/7(土)
真喜子は、忠の前で澤田(平岳大)からプロポーズされた後、喫茶店で忠と親密に話しこむ。
花むらの女将(藤村志保)が倒れた知らせを受ける直前のことである。真喜子は忠に言う。
“今のこの気持のまま、あの頃に戻れたらうまいこといきますやろか?”と。

私は、森脇京子の脚本の示すところではなく、その志を汲み取りたいと思う。
嘉子も真喜子も、日本的伝統社会を尊重するいわば古風な女性像に近いのだけれど、かけがえ
のない“人生”を自分なりに真剣に生きているのだ。 そこに森脇の“志”ありと見た。
ソロスの「再帰性」の理論も、その示すところではなく、“志”を理解しなければならぬ。
ソロスと森脇の重なるところは、人間の限界を心得てなお、真実を追究するところである。
それは、深い意味での“グローバリゼーション” (多様性を許容した世界の秩序化)にも
つながる考え方だと思う。

日本が精神的な意味で先進国とも言いにくい最大のポイントは、不完全性を認識した謙虚さと
“多様性を許容した世界の秩序化”の視点の欠如、或いはそれが少数派ということだ。
先人の業績を無にするのではなく、大成するための知恵と努力を積み重ねることだと思う。
小泉改革を骨抜きにするのは、中国やソ連のやり方に似ている? 如何なものか。

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「だんだん」と再帰性 [物語]

先週末02/07のブログでNHKテレビ小説「だんだん」を“生き方” という視点で整理した。
相変わらず、様々な事件が起こるが、この視点は、結構使えそうである。
めぐみのバイト先の福祉介護士・高林知美(辻沢響江)とヘルン先生(曾我廼家八十吉)の
関係も7歳の娘・節(西村利久)が素直に受け入れてくれて、一件落着の様子。
また、花鶴(京野ことみ)と男衆(茂山逸平)との関係も収束に向かう。 石橋(山口翔吾)
も、医者になる決意をして、自分のことは整理されてきたようだ。 
呉服問屋“一条”も、悪友・後藤(伊武雅刀)の悪ふざけから主人・隆康(夏八木勲)が思い
付いた和装コートの洋装化で光明が見えてきたようだ。 反物による洋装化というアイデアは
康太(久保山知洋)の献策でもあった。 先回りして言ってしまうと、のぞみ(佳奈)と康太
が結婚して“一条”を継ぐというような気もしてくる。

周りが段々と片付く中、のぞみは、強い絆で結ばれている人々から心配される。
石橋からは、「歌で生きていくならなぜ舞妓の衣装が着られなかったのか? 君の大切なもの
は祇園ではないか?」と、そしてめぐみ(茉奈)からは、「祇園を捨てたというけれど捨てて
いない。プロ意識も何もかも祇園で培ったものではないか。」と言われてしまう。

嘉子(鈴木砂羽)と忠(吉田栄作)は離婚の危機、真喜子(石田ひかり)も不安定な心理状態
で澤田(平岳大)との結婚を決意しそうだ。 嘉子も真喜子も、更年期には早そうに思うが、
子供たちが自立し始めて空疎な気分に陥るのもわかる気がする。 濃厚な人間関係であるが故
の行き違い、チョッとした偶然やキッカケから、大きな人生の転機が訪れる。

ソロスの「再帰性」の理論は、このドラマの脚本家・森脇京子の追及したいことと重なる部分
が多いと思う。「再帰性」では、“誤解” が歴史を動かすといい、その様な 「歴史」 の
展開の仕方を探求する手段として解明したのが、「再帰性」の理論だという。
このドラマも様々な事例を提示して、 “偶然”や“誤解” から派生する“過ち”や“悲劇”等
から、人生をよりよい方向に導く手法を見出すことを視聴者に委ねているのだろう。
ソロスの「再帰性」の理論は、実際の人生体験の中で、或いは様々な書物や物語体験から、
自ら紡ぎだすべきものである。 人からの借り物では何の役にも立たないだろう。“偶然”や
“誤解”に勝とうとするのではない。楽しむ余裕がベターな方向を見出す? 如何なものか。

小泉発言0902 [希望]

今日は最高気温・18℃、最低気温・7℃、春一番が吹き荒れそうという予報だったが、
風は無く、曇天で薄ら寒い。 春一番は来なくて、その分、温度は低いのではないかと思う。
昨日の22時からの“報道ステーション”を途中から見ていたら、何やらものものしい雰囲気で
12日夕方行われた「郵政民営化を堅持し推進する集い」での小泉発言を取上げていた。
その内容をすぐインターネットで確認した。要約すると次のようになるだろう。

1.最近の麻生総理の発言(郵政民営化に関する発言が主だと思われる)に対する批判。
2.政策や対策に関して、与野党が調整して、国民の納得ができる案を協議して欲しい。
3.政治には信頼感が一番大切、特に総理の発言は信頼が大切という事を肝に銘じて欲しい。
私のような庶民から見たらこの発言が政局になる・ならないと騒ぎ立てる事が理解できない。
ご本人も、“政局よりも政策優先という国民の声が強い” と言っている。
「小泉劇場」は、マスコミが担いだから出来たので、マスコミが担がなければ出来なかった。

一昨日のブログでも書いたように小泉郵政民営化構造改革の狙い・本丸は、情実と談合体質の
官僚支配構造の改革であった。だからこそ、「郵政民営化を堅持し推進する集い」が必要なの
である。 郵政民営化は、その時々の部分最適であってはならない。 継続的に、全体最適、
即ち、官僚支配構造改革を推進していかなければならないからである。
鳩山総務大臣は、麻生総理の郵政民営化関連失言の後、「総理の発言は聖域なき見直しを意味
したものだ」と発言していたが、まったくフォローになっていない。

衆院議席の2/3以上を獲得し成立した法律に対して、その意義を考察し自らの信念・理想を付与
し活かしていく気概さえない。国民の意図をなんら忖度することもなく、一過性の法律として
使い捨て的な扱いである。事務・調整能力ばかりが優秀な人材が寄り集まったこんな内閣では
私利私欲の追求ばかりで、国民よりも財界・官界に寄り添うばかりだろう。
マスコミは御用商人的ではあるが、「KY」ではなさそうだ。国民の気配を察知して、あれ程
こき下ろしていた「小泉劇場」を再び期待するような素振を見せたというのが今回の騒ぎだ。
今回の事が政局になり、踊る人がいたとしても、小泉のせいにしてはならない。小泉は正論を
言った迄である。政局になるとすれば彼の「カリスマ」のなせる業としか言いようがない。
彼の「カリスマ」が健在ならば引退はやめるべきだ。 如何なものか。

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官僚構造改革 [希望]

日本の官僚支配構造とは、どのようなものか? 以下“ ”内は元○○キャリア官僚の言葉。
“自らの出世や保身のためなら驚くほどの能力を発揮する○○官僚達も、国民の生命を守るために全精力を注ぎ込もう等という気は更々ない。” ご本人の著書から引用した。
ご本人が組織から弾き飛ばされた腹いせに吐いたにせよ、組織内告発であり、間違いなし。
根本的な問題は、「対国民無責任体制集団」ということに尽きる。
「和」の精神でやっているし、うまく行っている時もあるので、簡単に騙される。 しかし、
それは「和」の “偶像崇拝”、偶像は形あるものだけではない。 
「和」の大義のもとに組織内異分子が摘発・粛清される。そのため偏った人材しか育たない。
事務・調整能力ばかりが優秀な人材しか偉くなれない。 無責任で行方定めぬことになる。

政界、財界を巻き込んだ、いわば“皆で渡れば怖くない”式の独裁であるため、
庶民は、他に頼るとすれば宗教団体か共産党位である。それぞれに存在感はあるものの
なかなか大きく育つことが難しいようだ。一般庶民は、独裁集団と様々な利害関係に縛られて
心ならずも臭い物に蓋、心に蓋をして、江戸時代さながらに耐える美徳を発揮している。
モンスターペアレントなどは、到底、市民権を得られない。

本来は、政治集団が、官僚をコントロールしなければならないが、政治集団も日本的「和」の
組織体であるため、政治的な革新を提案するような優れた人材は途中で排除されてしまう。
従って、オバマ的卓抜した企画力によって政治プログラムを提示し、庶民を背景に官僚を統制
するような人材はなかなか出てこないのである。 小泉構造改革が現在、様々な形でたたかれ
つぶされようとしているのは、庶民から見放された無能な官僚を制御できない政治家が、
官僚に擦り寄っているからである。 問題は官僚を統制する側である。

政治家が官僚集団を統制できない理由を明らかにし、官僚を統制できる政治家を輩出する事が
日本の官僚支配構造を改革する大切なポイントだと思う。 昔は、「末は博士か大臣か」、
現代は「スポーツ選手か芸能人」。 スポーツ界や芸能界も、結構古い体質のようだから、
立派な政治家を出すのは期待薄か? 革新的な政治家の人材候補はいないものか? 
政治家のイメージを向上させる工夫はないものか? 如何なものか。

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建国記念日2009 [社会]

今日は建国記念日。制定の経緯については釈然としない。戦後の民主主義の世の中で、
今更、天皇の国でもなかろうにと思う。大人達は、次の世代に意義を説明できるのか?
ともあれ、我々は、日々、人民の人民による人民のための建国を心がけようではないか!

今朝の新聞で中谷巌(経済学者)の「構造改革路線の罪」という記事があった。
「自由放任競争主義」が、今回の金融危機を引き起こしたというのは認めるとしても、
自分が「自由放任競争主義」に心酔して旗を振ったから、小泉構造改革=自由放任競争主義と
決め付けるとは、学者にもあるまじき単純思考と言わざるを得ない。
その時、その時の権力に擦り寄る御用商人さながらの態度にはあきれてしまう。
しかもこのような提灯記事を晒して、時の権力者と結託して世論操作し庶民を惑わす手法は、
第二次世界大戦時に軍と結託してニセの情報を流して恥じなかった大衆新聞と同体質だ。
社会の公器を預かる身であるならば、贋物を識別できる鑑定眼が必須である。
分らなかった、知らなかったでは済まされないのである。

グローバル化=自由放任競争主義=規制緩和=構造改革=非正規社員=貧困層の拡大という
筋で構造改革路線を非難しているが、お粗末極まりない。グローバリゼーションには、様々な考え方や説があるが、それは人類の歴史を紐解く重要な視点であり、深い意味が宿されている。
R.ロバートソン著「グローバリゼーション」によると、グローバリゼーションとは、長い歴史の中で
育まれてきた「世界の秩序化」の概念であり、しかもそれは、同質性を強要するものではなく
多様性を推進するものなのである。

小泉郵政民営化構造改革の狙いは、情実と談合体質、官僚支配構造の改革であった。
日本の官僚支配構造がいかに不味いかは、第二次世界大戦前の軍隊組織や江戸時代末期の
藩幕体制を見れば分るであろう。そのお粗末さ加減は、様々な文献で明らかだ。複雑な利権が
絡み合って、身動きが取れなくなって、無能な上司、機能しない組織になってしまう。
小泉の構造改革は、そういう問題を解決するための手段に「規制緩和」を利用したのだ。
人間は不完全だから、小泉構造改革にも欠点はあるだろう。しかしその欠点をあげつらうだけでは、人民の人民による人民のための建国という本当の改革につながらない。小泉構造改革の
志を、人民の人民による人民のための建国に受け継ぐべきではなかろうか? 如何なものか。

浅見光彦誕生日 [物語]

今日は、浅見光彦の誕生日だそうだ。年齢は “33歳” 不変らしい。
私は、ミステリー小説は余り読まないが、ミステリーテレビドラマはよく見る。
といっても、引退してからのことであり、特に数年前から本格的に見るようになった。
コマーシャルを早送りして見られるから、ビデオ(最近はディジタルHDD)に収録してみると
いうことが多い。浅見光彦シリーズも、最新放送だけでなく、再放送で見るものが多い。

昔の再放送が、毎日、ほぼ2本ずつあるから、全てを収録していると、HDDが満杯になる。
従って、一寸みて余り面白くなさそうなものは、どんどん消去する。
再放送ものは、むかし見た事を忘れている場合も多い。同じ話を異なる俳優で演じている場合
もあり、そんな時にも、話が相当進むまで気付かないことが多い。 余り熱心に見ていないか
偏った見方をしているためで、ボケのせいではないだろうと勝手に解釈している。

さて、浅見光彦シリーズだが、
国広富之:TBS ザ・サスペンス「後鳥羽伝説殺人事件」(1982年8月21日)
篠田三郎:テレビ朝日 土曜ワイド劇場「小樽殺人事件」(1986年10月11日)
水谷豊 : 日本テレビ 火曜サスペンス浅見光彦ミステリー(1987年9月8日 - 1990年7月3日)
榎木孝明:フジテレビ 金曜エンタテイメント版浅見光彦シリーズ
___初代・全14作(1991年3月16日 - 2002年4月12日)
辰巳琢郎:TBS 月曜ドラマスペシャル版浅見光彦シリーズ
___初代・全13作(1994年4月25日~2000年3月27日)
沢村一樹:TBS 月曜ドラマスペシャル⇒月曜ゴールデン版浅見光彦シリーズ
___2代目・現在10作(2000年9月4日~)
高嶋政伸:日本テレビ 火曜サスペンス劇場「貴賓室の怪人」(2002年2月5日)
中村俊介:フジテレビ 金曜エンタテイメント版浅見光彦シリーズ
___2代目・現在12作(2003年2月28日 - )

こうしてみると、私の知らない俳優と物語は沢山ありそうだ。
2月10日の検索から知った浅見光彦の誕生日は デビュー作「後鳥羽伝説殺人事件」の
初版発行日だそうである。

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体験活用・2 [社会]

20090208鬼1.jpg2月4日のブログ・節分豆まきの写真で、鬼のお面が良く写っていなかったと書いたが、お面の写真を送ってくれた(左の写真)。写真で見る鬼は手も足もあってにこやかに踊っている様にみえる。最近は鬼に対しても優しい寛容の精神とは素晴らしい。お互い友好的で結構々々。 この写真はKotoが撮ったらしい。写真の才能があるように思う。将来は「写真家」?なんて親バカならぬ爺バカか?

さて体験活用であるが、その前に体験学習について触れたい。
最近、企業や学校で体験学習というのが広く行われているが、
注意すべき事は、先生や指導者が介在していることである。
先生などがいないと、学習者は勝手な解釈をしてしまうからだ。
例えば、体験学習よりももっと易しく思われる会話でさえ、相手の言う事を正しく理解するためには
相手の話す“言葉”だけでなく、言葉のつながりによって表現される“叙述内容”とその背景となる
“場面(コンテクスト)”を掌握しなければならない。

麻生総理の郵政民営化に関する発言と、その非難に対する応酬を例に引くまでも無い。
世の中の大部分の会話は、まともな理解の応酬ではなく、恣意的解釈の応酬である。
簡単に言ってしまえば、会話も体験も、いくらでも恣意的に解釈する事が可能である。
しかし、例えば安全のための体験学習で、体験を恣意的に解釈して正しい学習をしなければ、
いざという時に事故を防止できない。

現代の日本では、現職総理の公的発言さえ、“あーじゃ、こーじゃ”の恣意的言抜けが可能な
社会のようだから、現代の若者達が、日々の体験から、「まともなこと」を学びとろうとしなくなった
ということなのだろう。 要は、日々の体験から、「まともなこと」を学ぶための教師として、
誰を、何を信頼していいかわからず、日々流されているのだろう。
しかし、そのような若者を是認したのではどうにもならない。周りの人間全てが“あーじゃ、
こーじゃ”の人間になっても、“我一人正しき道を行く”というのが、本当の「自由」だ。
そのために、古今東西の万巻の書物がある。 如何なものか。

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体験活用 [大家族]

今日も暖かで散歩には絶好の天気。仕事が途切れているので十分歩ける。
先週同様に、週初日だからと、2万歩を目標に出かけた。
ちなみに、先週は、初日、2万歩超が利いたのか、久しぶりに週間・10万歩超を達成した。
最初は快調だったのだが、昼食で食べ過ぎたせいか途中からおかしくなり、2万歩の目標には
何とかとどいたものの、何だか口も利けないほど疲れてしまった。

昔書いたメモ帳をパラパラとめくっていたら、丁度19年前に息子(当時17歳)と議論した後らしい
内容のメモを見出した。リアルな「直接体験」と間接的な「伝聞」との問題の様だった。
内容は、“百聞は一見にしかず”(百回の伝聞よりも一回の実体験の方が優れている)という
ことわざは真実である。しかしそれだけで十分か? 実体験をロジカルに受け止めるために
言語情報(書物など)による経験も必要だ。 といったものだった。

何かの話から、息子は私がやたら本を買って何の役にも立っていないのではないか?
という日頃の不満をぶつけたのだろう。思春期真っ只中、親に対する反発もあったろう。
それに対する私の苦しい応戦だったようである。 書物の力、先人の力を借りずに直接体験を
自力で論理化できる人には、書物は不要だろう。私には残念ながらそれだけの力は無い。

こんな昔話を取り上げた理由は、一昨日話題にした、香山リカ著「私は若者が嫌いだ!」を
読んで、気分が滅入っていたからである。この書物に登場する現代の“著者が嫌う若者像”が
私にはまったく理解できなかったからである。 話題に上った若者達の体験は、どんな体験を
積み重ねてそうなったのか? 想像できないのである。 出来るとすれば、彼らは夢遊病者の
ように人生を生きているとしか言いようが無い。 その傾向は、家庭事情で多少前後するが
高度成長期前後からはじまり、世の中の風潮として定着しだしたのが、1980年頃からではなかろうか? 正に香山リカ登場の時代からである。

自己の体験をリアルな体験として定着させるためには、「言語化」が不可欠なのだ。
体験の「言語化」とは、頭の中で弄ぶことではない。 直接体験を、生きることに役立つ体験
として活かすためには、体験の「言語化」の積み重ねが必要だ。少なくとも凡人には。
如何なものか。

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