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写メール・2 [大家族]

20090227キッザニア1.jpg20090227キッザニア2.jpg長女から小学生のNatuとコウタロを連れて、
ご近所の親子と一緒に“キッザニア”に
遊びに行った時の写メールを送ってくれた。
そういえば去年の2月27日も“キッザニア”
に行った写メールを貰ってブログに書いた。
もう1年経ったのかと思う。早いものだ。
昨夜は、合唱練習日だったから早めにブログを書いてしまったので
写メールの記事は今日になってしまった。以下は去年のブログURL

http://blog.livedoor.jp/isimoto_3902/archives/2008-02.html#20080227

左側の写真がコウタロのクライミングしている所、右側がNatuとお友達がカメラマンとして
撮った写真を編集している所。中央がNatu、その右がお友達だ。他にニチレイ冷凍食品作り、
印刷、ピザ作りも経験したそうだ。 コウタロは消防士、額縁作り、ハンバーガー作りもやった。
写真の上でクリックすると写真は拡大されて表示される。

2月27日は小学校が創立記念日だったのに忘れていた。平日に休ませて行くのも何だかなぁ! 
“キッザニア”は、総合教育という見地からは価値があるかもしれないが等と
見当はずれの事を思ったりした。 メールの件名に「創立記念日」と書いてあるのに、
娘の勤めている所のかと勘違いしたのだ。 ボケが始まっているのである。

総合教育で思い出したが、最近は“ゆとり教育”は良くないということで見直されているとか。
総合教育等といってもなかなか成果が上がらない。だから個別教育をみっちりやった方がいい
という事になったらしい。 我が家の孫達は運動に、音楽に、塾にと急がしそうだから、学校
が面倒見てくれたら少しは家計の軽減になるかもしれないので、それも良いかも。 などと
気楽な事を言っていられるのは、孫の教育は、じじ・ばばには責任のない気楽な身分だからこそ。
しかし、次代を担う人々の育成という観点からはそんなことも言っていられないが。
ともかく、子供や孫達が元気な平々凡々こそ何よりの贈物! いかがなものか。

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おくりびと・終章 [物語]

“死”が、人生の終着駅か、新たな門出の“門”なのか? いずれにしても、
一人の“死”は普通多くの人々にとって衝撃的な出来事である。 それを映画「おくりびと」は
納棺師という立場から、様々な死者との個の関係という視点で捉えた所が新鮮だった。 
一人の死者と、一人の納棺師との束の間の出会いを、まさに“一期一会”ともいうべき
奥床しさで描くところにポイントがある。

今日の「だんだん」で石橋(山口翔吾)が、「開業医のように総合的な医者になるか、専門の
病気だけを治す医者になるか迷っている」 と話すのに対して、忠(吉田栄作)は漁師として
の体験を踏まえ、「医者も患者に育てられるということもあるのではないか」と言っていた。
専門医でも総合的判断をしなければならぬ開業医でも、患者を人間として扱わねばならない。
専門医といっても人間としてではなく、ただ単に病人として扱ったのでは患者を傷つける。
例えば、高齢者の痴呆性を調べるためにお決まりの質問だけして、相手に対するきめ細かな
配慮をしないため患者を怒らせ、結果は正常なのに、高度の痴呆症と診断してしまう。
そういう専門医の多くは、患者を傷つけている事への医者としての反省がないという。
規則ずくめ、効率優先、コスト削減などで、人間性はどんどん失われてゆく。

映画「おくりびと」フィーバーの不可思議さを自らに問い続けている内に、小さい頃に聞いた
遠い昔の記憶が呼び覚まされた。 我が祖母・キセは、“泣ける芝居しか見に行かない”
という話だ。 人生の荒波を生きた小柄で腰も曲がった祖母が、お笑いや喜劇でなく
泣ける芝居を見たいということに奇異な感じをもったためだと思う。 
祖母の気持を推し量ると老後のぬるま湯のような生活に飽き足りなさを感じていたのだろう。
年老いて生身で厳しい現実に立ち向かう気力はなくなったが、せめて芝居で若かりし頃の
修羅場をなぞることの方が、生きる力になったのではなかろうか?

現代の青壮年は、日常的な場面だけでなく、修羅場も仮面舞踏会や狐と狸の化かし合いで、
人間的交わり、一期一会を得ることが難しい? だから映画「おくりびと」のような物語に
“人間的交わり”を味わい慰めにしているのだろう。 人間的交わり等「永遠の課題」として
映画で気分を切り替える。 それが現代的な生きる知恵か? 如何なものか。

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映画「おくりびと」・3 [物語]

09408284おくりびと文庫.jpg私が映画「おくりびと」を見た直後の感覚は、一般的な日本人にはピンと
来ないというものだった。こんなに騒がれるのは私が間違っているのか?
と心配になって少しインターネットを調べてみた。 そしたら私の感覚は
それ程間違っていないことが分ったのである。 当初、この映画のロケは
富山県の予定だったが、県はそれを断り、今になって悔やんでいるとか。
また滝田監督の両親もこんなに有名になるとは予想していなかったようだ。

私の推論ではこの映画の評価を決定付けたのは海外の映画祭での受賞の
お陰だったように思う。 昨年9月の第32回モントリオール世界映画祭グランプリ、
その直後の第17回金鶏百花映画祭 国際映画部門 作品賞・監督賞・主演男優賞、その後の
昨年10月第28回ルイ・ヴィトン・ハワイ国際映画祭 観客賞等で注目を浴びたことが大きい。
勿論、この作品の素晴らしさを見抜く日本の具眼の士は大勢いたと思うが、私のような者迄
映画館に呼び込まれたのは、米アカデミー賞受賞が大きな動因である。

諸外国の人々が、納棺の儀式にまつわるこの映画の物語をどのように受け止めたのか?
そのことは良くわからない。 しかしこの映画はあらゆる日本人に素晴らしい贈物だと思う。
この映画を見て改めて思うことは、“死”の問題を再認識する新しい視点を、納棺という儀式
を通じて提供するという素晴らしい問題提起をしてくれたことである。
“死”というものを、生命を失った遺体が火葬される迄の時間、どのように社会と関わって
いるのか? という非常に具体的な形で考えさせられる。

生命を失うまでの闘病や失う瞬間の“死”や、物理的にこの世から消えた後の“死後”は
考えても、遺体でいる間の死後を深く考えることは余りないのではないか。
映画「おくりびと」を見て、納棺師がご遺体を生ける人間のごとく尊厳をもって遇してくれて
いる事に、大きな安堵を感じるのは私だけでないと思う。 湯灌を親族の前で行うという事は
それを、心を込めて行っているということなのである。 美しい所作も、形ではないのだ。
心から、死者に対する深い敬意、美しいこころがあるからできることなのだと思う。
遺体に接することを「けがれ」と思うのは、けがれた心で接すると思うからだ。 
美香は大悟が行うツヤ子の納棺の儀式を見て、全てを悟るのである。 如何なものか。

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映画「おくりびと」・2 [物語]

「おくりびと」の印象的な場面を、1,2 書きとめておきたい。或る時、子供の頃に父親の奨め
でチェロを習っていた頃使ってたチェロのケースから新聞紙に包んだ石ころが出てくる。それを
追憶する場面で石ころ(石文)を河原で交換する父親の顔が思い出せない。この事の背景を
教えてくれるのが、銭湯のおばちゃん(吉行和子)が、大悟の妻(広末涼子)に告げる話だ。
「あんたの旦那はねえ、何でも一人で背負い込んで一人で悩むタイプだからね。小さい頃
 お父さんが出て行った後も、お母さんの前では涙一つ見せなかったんだよ。銭湯で一人に
  なった時にだけ、肩を震わせて泣いていたんだからね。可愛そうに!気をつけてあげて。」

大悟少年が、どんなにか深く父親を大切に思っていた事か! その思いが深ければ深いほど
胸も張り裂ける切ない気持を処理するために、恨む事も出来ず記憶を消すしかなかった。
そのような大悟の身を引き裂かれるような悲しみをおばちゃんはチャンと知っていてくれた。
どんな国や地域でもこのような地域社会の人々の優しい眼差しが人々の生きる支えなのだ。

もう1つの印象的場面は、銭湯のおばちゃんの火葬場での執行人・笹野高史の述懐場面だ。
「ここで何十年も御見送りしていると、“死”とは“門”だとつくづく思う。
 終わりではなく、また始まるのだと。」 という意味合いのことを言った。
これは古くからいわれている「輪廻転生」のことを言っていると解釈できるが、
大切なことは、決して理性的な悟りではなく、長い経験に裏打ちされた実践的な悟りなのだ。

この物語の主人公の名前は “大悟”、大悟こそは、人間の究極の境地だろう。
小林大悟(本木雅弘)は、平凡なチェロ奏者だったかもしれない。
しかし納棺師になって、腐乱死体の処置等、様々な経験、実践を通して、その境地を深めた。
大自然の中でチェロを演奏する姿は、堂々たる風格を備えていくのである。

そして最後には何十年も会わなかった父親の死を知り、納棺師として父親を丁重に納棺する。
そのさ中に、父親(峰岸徹)の亡骸の掌から大悟が手渡した“石文”が転がり落ちる。
大悟の父親に対する切ない心理は氷解すると同時に、記憶の中の石文を交換した時の父親
の顔と遺体の顔とが一致するのである。 心を自由にする悟りこそ何ものにも代えがたい。
だが生きるとは何かにこだわるということでもある。 なかなか難しい。 如何なものか。

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映画「おくりびと」 [物語]

DSC090224おくり.JPG今日は、我が家から片道、歩いて小一時間、車なら5分か10分、
イオンの中にある映画館で、「おくりびと」を見てきた。
此処では、続・三丁目の夕日、明日への遺言などを見たが
さすがアカデミー賞受賞作品、今までで一番観客が多かった。

納棺のお身ぬぐいは、私の若い頃迄は近親の女性がするものだった。
この世とあの世の境をどこに置くか、いろいろな境があるだろうが
棺おけに入るのは、間違いなくこの世との一つの区切りである。
故人のこの世での最後のスキンシップだったんだな~と改めて感じた。
生きて行く上で人間の絆が大切だった古きよき時代のことである。

昔の事を思い出しながら見ているとどうしても理屈っぽく見てしまう。そうだ。この映画は
理屈っぽく見てはいけない。感性で映画を作った大勢の人々の思いを受け取らねばならない。
この映画もまた、古きよき時代の人間同士の営み、美しい自然を描き、心にとどめたいのだ。
私のようにその前を知っている人間の視点ではなく、今の視点で見なければならない。

小林大悟(本木雅弘)の納棺師の所作は見事で美しかった。
しかし社長役の山崎務の所作には更に味わい深いものがあった。枯淡の境地とでも云おうか。
山形の自然の描き方も素晴らしいものがある。開始早々の吹雪のシーンは迫力満点だった。
鮭の遡上の場面も印象的だった。大悟が通りかかった鶴の湯の常連・正吉(笹野高史)に
「なぜ死ぬだけなのにあんなに苦労して上ってくるのでしょうね?」と問いかけた場面だ。
それに対し、「きっと自分の生れたふるさとに帰りたいんでしょうよ」といって通り過ぎた。

草野心平の詩集「絶景」のBering-Fantasyという詩の中に
“死への道連れであることに華やぎながら それぞれ先を争いながら”という一節があるが
この現代の様々な出来事、良いことも悪いこともまた、共に同じ時代を生きる人々の華やぎ、
死への道連れであることに華やいでいる結果なのだと、この映画を見ながら私は思った。
鮭も苦しんでいるのではない。故郷への旅に華やいでいるのだ。 先を争って死に急いでいる
ように見えるが、それは理屈っぽいのだ。生死は理屈ではない。 如何なものか。

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官僚天下反対 [社会]

tnr0902231401020-p2.jpg映画「おくりびと」が日本アカデミー賞10冠達成に次ぎ
第81回米アカデミー賞の外国語映画賞を受賞した。
写真は(左から)滝田洋二郎監督と本木雅弘、余貴美子、
広末涼子=ロサンゼルス(AP)
堅い話の前に、少し華やいだ話題を添えた次第である。
明日には、再上映しているのを見に行くつもりだ。

さて、今朝の新聞一面のコラムに「優秀な人材が公務員にならず、官僚が生甲斐をなくしたら
困るのは国民である」と出ていた。 そうだ!そうだ!と諸手を打って賛成だろうか?
確かに官僚が優秀である事を否定はしない。しかし明治時代ではあるまいし、いつまでも
“官尊民卑”でもあるまいに。 立派な官僚が居た時代にどれだけいかがわしい官有地の
払い下げをした事か! 「かんぽの宿」売却問題でもめているが、それを小泉改革の問題と
するのは、なんとも解せない。 議論のすり替えではないか?

そこで、「かんぽの宿」売却問題が、官僚体制派による巻き返しと解釈すれば分りやすい。
竹中平蔵元総務相は、「売却問題は日本郵政の西川善文社長の責任問題に発展する可能性が
ある。・・・郵政は“伏魔殿”だ。西川氏が辞任したら、総務省の官僚OBが社長になり その途端
4分社化は見直され、郵政民営化は終わる。」と発言している。

100年に一度とかの金融危機を千載一遇のチャンスとして、官僚天下復活の兆しは濃厚だ。
多様性の問題は自己の心の奥深くに仕舞い込み、「多様性を認めた世界の秩序化」の問題は、
お上に棚上げして、既得権維持のために官僚体制に擦寄るやから達が、官僚天下を何とか復活
させようと足掻いているように見える。官僚天下を望んでいるのは、官僚だけではない。
多くの既得権者がその影には居る。官僚と、既得権者とは一体である。

官僚天下反対の理由は、官僚と既得権者との癒着による高度なテクニックを駆使した税金の
私物化が、暴かれることなく存続し続けるからである。私物化された税金の再配分は、官僚と
既得権者によって恣意的に行われる。税金の再配分を適正に行うためには、官僚と既得権者と
の癒着体質を改善する事が大事なのだ。 如何なものか。

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オレオレ詐欺防止 [希望]

2/18放送「ためしてガッテン」“オレオレ詐欺最新対策”は何かスッキリ納得いかなかった。
色々考えた末、放送内容に次のような問題点があることに気付いた。
問題点) “理性”と“感性”を混同している。それがスッキリした理解を妨げた。
 a 理性がお休みするのは、
   1. 思い込みへの誘導や、有りもしない問題で幻惑し、チェックミスを誘う。
   2. 一種の“パニック状態”に陥れ、振り込まないと居られなくする。
 b 嘘と分っていても、オレオレ詐欺の電話で手に汗してしまうのは、「借金の保証人」
   「泣き声」「交通事故」「死」などのショッキングな言葉による感性のなせる技だ。
詐欺は、a-1.とa-2.との相乗効果で完成するのであり、一方の氷解から理性は戻る。

振り込め詐欺とオレオレ詐欺の違いは、近親者の緊急事態について話をする相手が第三者か
本人かという違いである。 本人との対話は前述 bの感性強度が高く、a-1.とa-2.との
相乗効果を起こしやすく、 思い込みと“パニック状況”が強く結合してしまう。
振り込め詐欺は、感性強度が低くa-1.とa-2.との結合度が弱く、「第三者=偽」という
助言はa-1. の思い込みなどを氷解する。 従って、“パニック状態”の氷解につながる。
オレオレ詐欺は、a-1.とa-2.との結合度が強く、「オレ=偽」という助言は、a‐1.と
a-2.とを切り離すことが出来にくい。そこの所に注目した対策が重要だと考える。

私の考えた「オレオレ詐欺防止に有効な対策」
対策 日頃からの“チェックミス” “パニック状態”防止訓練
 例えば、映画館で誰かが“火事だ!” と騒いで大惨事になったという話があるが、その様な
 事態に備えて、映画館に入った時に、まず非常口や避難経路を確認する。 或いはそういう
 場合に、条件反射的にわれ先に逃げるのではなく皆に理性を取り戻すように呼びかける。
 このように、オレオレ詐欺に対しても、あらゆる可能性のシミュレーションをしておく。
* 例えば、“電話番号変更連絡”などは、細心の注意をする様に日頃から気をつけておく。
* 大切な人とは、なるべく密なコミュニケーションをする。
* 自己を過信せず、緊急事態に備えて、相談できる人を作っておく。
如何なものか。

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「だんだん」第20週 [大家族]

昨日はKotoの“ランドセル贈呈式”だった。
午後、妻がKotoを会社に送っていき、娘に引き渡した後、式典が2時間、数百人の児童に
社長自ら一人一人に手渡ししたとの事。両親は後部保護者席で、子供たちとは離れていた。
最近の子供は自立していると感心! 環境問題なども織り込んだプロジェクターによる
社長の講演に、児童たちは機敏に反応したという。社員家族の知的レベルの高さを感じた。

式の後は、親の同僚がKotoに会いたいというので職場に連れて行った。
いろんな大人との対話を楽しむと共に、親の職場を物珍しそうに色々チェックしたらしい。
児童のご両親達にとって素晴らしい記念日だったことは間違いないが、児童たちにもまた
素晴らしい思い出になったことと思う。是非そうあって欲しいものである。

さてNHKテレビ小説「だんだん」も、今週で80%を消化、やっと収束局面になってきた。
忠(吉田栄作)と嘉子(鈴木砂羽)、真喜子(石田ひかり)の三角関係の縺れも、やっと
解けてきたようである。 忠が嘉子に「何でもさらけだしゃいいもんじゃねえが!」という
場面があったが、嘉子は常に耐えていたのであり、何でもさらけ出したのではない。
のぞみ(三倉佳奈)は、夢花として“花むら”に戻り、京地唄舞い「黒髪」を舞う。
病院から戻ってきた久乃(藤村志保)の枯れた芝居が光っていた。

久乃は、「あんたも苦労しはったんやろな!舞は心の鏡やと思います。どんな迷いも哀しみも
芸の肥やしにしてはる。あんたの舞には、それがよう見えましたえ。夢花 お帰り。」 と、
夢花が祇園を出て行ってから2年半の月日を越え、恩讐を超えて、夢花を迎えた。

夢花の挑戦も、忠、嘉子、真喜子の問題も、事なかれで生きていくやりかたもあるが、
それは多様な生き方を認めない考え方である。 夢花の妹分の花香も不器用な生き方だ。 
夢花が芸妓になることに挫折したことが障害になっている。要領よく器用にまとめない。
この物語の作者・森脇京子は、要領の悪い不器用な生き方にも、輝くスポットライトを
当てたいのだと思う。 そう、多様な生き方を認めたいということだ。
多様な社会の秩序化は、皆が多様性を認める事から創めなければならない。 如何なものか。

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裁判員制度 [社会]

裁判員制度が後3ヶ月で始まる。技術系の私は、正直言って、法律のど素人。
裁判員制度の事は、賛否両論、何か憲法論議のようで、今まで余り寄り付かなかったが、
三権のひとつ司法も少しは勉強してみようと思った。 以下に、ど素人の感想を書き留めた。

戦前の日本にあった陪審員制度の事を、今回の裁判員制度と関連して調べたが、お粗末!
導入背景は大正デモクラシーの流れで作ったらしい。お座成りもいいところ。
様々な骨抜きの仕掛けがあったことも問題であるが、それ以上の問題は、“陪審裁判を
請求すると裁判官に挑戦と受け取られるから辞退する” という庶民の側の態度である。
勿論、基本的には裁判官が良くないのだが、陪審員制度は淡白で諦めのいい国民性を見越した
相も変らぬ一時凌ぎの不満のガス抜きに使われたようだ。

大正ロマン時代のデモクラシーというものが、如何にはかないものであったか!
一部の開明派が、どんなに切歯扼腕しようとも、庶民が付いてこなければどうしようもない。
此処で司法権は国家権力だから裁判官に逆らっても益にならないと、被告がお情けに縋るのを
“民度が低い” などと思ってはいけない。 昔は、無理矢理、単一の価値観に統一されて
いた。 だから日本の庶民は、多様な価値観を培ってきたが、それは内奥に秘めていた。
「多様性を認め合った上での集団の秩序化」 の難しさを心得て、なるべく耐えていたのだ。

現代は、価値観の多様化も認められ、昔の公序良俗の美風が廃れてきた。
昔の陪審員制度から60有余年、裁判員制度の法律の出来の問題以前の問題をどうするのか?
「多様性を認め合った上での集団の秩序化」という難題をお上に棚上げし続ける庶民、
それは、言い方を変えれば従順な庶民、耐えるべきは耐え、忍ぶべきは忍ぶ善良な庶民だ。

価値観の多様化しつつある現代、「多様性を認め合った上での集団の秩序化」は必須だ。
日本の善良な庶民も、この問題に主体性をもって立ち上がらねばならない時は何時か来る。
今回の裁判員制度がそのときであるかどうかは、歴史が明らかにするだろう。
いずれにしても、平和的に立ち上がってもらいたい。 如何なものか。

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孫の便り [大家族]

20090215_1koto.jpgこのところ妻が子供たちの所に出かけているので
普段より電話をかける回数が多い。Kotoとの会話が多い。
卒園式が近づいて、いろんな話に花が咲く。
この前は、式での挨拶文を電話で全文教えてもらった。
年長組2クラス全員と、クラス毎の分担が複雑そうだ。
全て暗記して言わなければならないので大変そうだった。
20090215_2ryu1.jpg
写メールを送ってもらった。
最初はKotoがはじめて二輪車に乗れるようになった時の写真。
誇らし気にしている瞬間である。堂々たる乗りっぷりだ。
もう一枚は、Ryuが室内で野球のヘルメットを被っているもの。
Ryuは少年野球のメンバーだ。写真のmyヘルメットは、
1年越しでやっと6年生からのお下がりで回ってきた。
嬉しさのあまりに、それ以来、家の中でもかぶり続けているそうだ。
夜の勉強中まで、被っているというのだから可愛いではないか!
野球少年の憧れる人たちの名は、時代と共に変わっても、誰でもRyuと同じような思い出があるのではなかろうか。 私にも似たような思い出が幾つもあった。

Roko宅の孫とは今のところ交信がないが、いろいろと聞いている。
中学のHarukaは部活(バレーボール)で痛めた足を治して復帰、厳しいシゴキに耐えている。
Natumiは、いよいよ最上級生になる前のバレーボール新人戦で5位入賞だった。
背丈も姉を抜く勢いでチームのエースアタッカー。 32チーム中の5位だからたいしたもの。
コウタロは、全国児童画コンクールで銀賞を受賞した。(妻が写メールで表彰状を送ってきた)

私たちの孫は出来すぎである。 私自身は、幼少時虚弱体質で、いわばいじめられッ子。
少年時代、運動にも、絵や音楽にも何のとりえもなく、平々凡々の目立たぬ人間だった。
それもまた良かった。 孫達には、ご先祖のいいところが顕在化したのだろう。それも良い。
驕らず、恐れず、思いやりの心、感謝の心を忘れずに、伸びやかに成長して欲しい。
如何なものか。

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