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裁判員制度 [社会]

裁判員制度が後3ヶ月で始まる。技術系の私は、正直言って、法律のど素人。
裁判員制度の事は、賛否両論、何か憲法論議のようで、今まで余り寄り付かなかったが、
三権のひとつ司法も少しは勉強してみようと思った。 以下に、ど素人の感想を書き留めた。

戦前の日本にあった陪審員制度の事を、今回の裁判員制度と関連して調べたが、お粗末!
導入背景は大正デモクラシーの流れで作ったらしい。お座成りもいいところ。
様々な骨抜きの仕掛けがあったことも問題であるが、それ以上の問題は、“陪審裁判を
請求すると裁判官に挑戦と受け取られるから辞退する” という庶民の側の態度である。
勿論、基本的には裁判官が良くないのだが、陪審員制度は淡白で諦めのいい国民性を見越した
相も変らぬ一時凌ぎの不満のガス抜きに使われたようだ。

大正ロマン時代のデモクラシーというものが、如何にはかないものであったか!
一部の開明派が、どんなに切歯扼腕しようとも、庶民が付いてこなければどうしようもない。
此処で司法権は国家権力だから裁判官に逆らっても益にならないと、被告がお情けに縋るのを
“民度が低い” などと思ってはいけない。 昔は、無理矢理、単一の価値観に統一されて
いた。 だから日本の庶民は、多様な価値観を培ってきたが、それは内奥に秘めていた。
「多様性を認め合った上での集団の秩序化」 の難しさを心得て、なるべく耐えていたのだ。

現代は、価値観の多様化も認められ、昔の公序良俗の美風が廃れてきた。
昔の陪審員制度から60有余年、裁判員制度の法律の出来の問題以前の問題をどうするのか?
「多様性を認め合った上での集団の秩序化」という難題をお上に棚上げし続ける庶民、
それは、言い方を変えれば従順な庶民、耐えるべきは耐え、忍ぶべきは忍ぶ善良な庶民だ。

価値観の多様化しつつある現代、「多様性を認め合った上での集団の秩序化」は必須だ。
日本の善良な庶民も、この問題に主体性をもって立ち上がらねばならない時は何時か来る。
今回の裁判員制度がそのときであるかどうかは、歴史が明らかにするだろう。
いずれにしても、平和的に立ち上がってもらいたい。 如何なものか。

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