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映画「おくりびと」 [物語]

DSC090224おくり.JPG今日は、我が家から片道、歩いて小一時間、車なら5分か10分、
イオンの中にある映画館で、「おくりびと」を見てきた。
此処では、続・三丁目の夕日、明日への遺言などを見たが
さすがアカデミー賞受賞作品、今までで一番観客が多かった。

納棺のお身ぬぐいは、私の若い頃迄は近親の女性がするものだった。
この世とあの世の境をどこに置くか、いろいろな境があるだろうが
棺おけに入るのは、間違いなくこの世との一つの区切りである。
故人のこの世での最後のスキンシップだったんだな~と改めて感じた。
生きて行く上で人間の絆が大切だった古きよき時代のことである。

昔の事を思い出しながら見ているとどうしても理屈っぽく見てしまう。そうだ。この映画は
理屈っぽく見てはいけない。感性で映画を作った大勢の人々の思いを受け取らねばならない。
この映画もまた、古きよき時代の人間同士の営み、美しい自然を描き、心にとどめたいのだ。
私のようにその前を知っている人間の視点ではなく、今の視点で見なければならない。

小林大悟(本木雅弘)の納棺師の所作は見事で美しかった。
しかし社長役の山崎務の所作には更に味わい深いものがあった。枯淡の境地とでも云おうか。
山形の自然の描き方も素晴らしいものがある。開始早々の吹雪のシーンは迫力満点だった。
鮭の遡上の場面も印象的だった。大悟が通りかかった鶴の湯の常連・正吉(笹野高史)に
「なぜ死ぬだけなのにあんなに苦労して上ってくるのでしょうね?」と問いかけた場面だ。
それに対し、「きっと自分の生れたふるさとに帰りたいんでしょうよ」といって通り過ぎた。

草野心平の詩集「絶景」のBering-Fantasyという詩の中に
“死への道連れであることに華やぎながら それぞれ先を争いながら”という一節があるが
この現代の様々な出来事、良いことも悪いこともまた、共に同じ時代を生きる人々の華やぎ、
死への道連れであることに華やいでいる結果なのだと、この映画を見ながら私は思った。
鮭も苦しんでいるのではない。故郷への旅に華やいでいるのだ。 先を争って死に急いでいる
ように見えるが、それは理屈っぽいのだ。生死は理屈ではない。 如何なものか。

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