体験活用・2 [社会]
2月4日のブログ・節分豆まきの写真で、鬼のお面が良く写っていなかったと書いたが、お面の写真を送ってくれた(左の写真)。写真で見る鬼は手も足もあってにこやかに踊っている様にみえる。最近は鬼に対しても優しい寛容の精神とは素晴らしい。お互い友好的で結構々々。 この写真はKotoが撮ったらしい。写真の才能があるように思う。将来は「写真家」?なんて親バカならぬ爺バカか?
さて体験活用であるが、その前に体験学習について触れたい。
最近、企業や学校で体験学習というのが広く行われているが、
注意すべき事は、先生や指導者が介在していることである。
先生などがいないと、学習者は勝手な解釈をしてしまうからだ。
例えば、体験学習よりももっと易しく思われる会話でさえ、相手の言う事を正しく理解するためには
相手の話す“言葉”だけでなく、言葉のつながりによって表現される“叙述内容”とその背景となる
“場面(コンテクスト)”を掌握しなければならない。
麻生総理の郵政民営化に関する発言と、その非難に対する応酬を例に引くまでも無い。
世の中の大部分の会話は、まともな理解の応酬ではなく、恣意的解釈の応酬である。
簡単に言ってしまえば、会話も体験も、いくらでも恣意的に解釈する事が可能である。
しかし、例えば安全のための体験学習で、体験を恣意的に解釈して正しい学習をしなければ、
いざという時に事故を防止できない。
現代の日本では、現職総理の公的発言さえ、“あーじゃ、こーじゃ”の恣意的言抜けが可能な
社会のようだから、現代の若者達が、日々の体験から、「まともなこと」を学びとろうとしなくなった
ということなのだろう。 要は、日々の体験から、「まともなこと」を学ぶための教師として、
誰を、何を信頼していいかわからず、日々流されているのだろう。
しかし、そのような若者を是認したのではどうにもならない。周りの人間全てが“あーじゃ、
こーじゃ”の人間になっても、“我一人正しき道を行く”というのが、本当の「自由」だ。
そのために、古今東西の万巻の書物がある。 如何なものか。
さて体験活用であるが、その前に体験学習について触れたい。
最近、企業や学校で体験学習というのが広く行われているが、
注意すべき事は、先生や指導者が介在していることである。
先生などがいないと、学習者は勝手な解釈をしてしまうからだ。
例えば、体験学習よりももっと易しく思われる会話でさえ、相手の言う事を正しく理解するためには
相手の話す“言葉”だけでなく、言葉のつながりによって表現される“叙述内容”とその背景となる
“場面(コンテクスト)”を掌握しなければならない。
麻生総理の郵政民営化に関する発言と、その非難に対する応酬を例に引くまでも無い。
世の中の大部分の会話は、まともな理解の応酬ではなく、恣意的解釈の応酬である。
簡単に言ってしまえば、会話も体験も、いくらでも恣意的に解釈する事が可能である。
しかし、例えば安全のための体験学習で、体験を恣意的に解釈して正しい学習をしなければ、
いざという時に事故を防止できない。
現代の日本では、現職総理の公的発言さえ、“あーじゃ、こーじゃ”の恣意的言抜けが可能な
社会のようだから、現代の若者達が、日々の体験から、「まともなこと」を学びとろうとしなくなった
ということなのだろう。 要は、日々の体験から、「まともなこと」を学ぶための教師として、
誰を、何を信頼していいかわからず、日々流されているのだろう。
しかし、そのような若者を是認したのではどうにもならない。周りの人間全てが“あーじゃ、
こーじゃ”の人間になっても、“我一人正しき道を行く”というのが、本当の「自由」だ。
そのために、古今東西の万巻の書物がある。 如何なものか。