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「だんだん」と再帰性・2 [物語]

私がNHKテレビ小説「だんだん」を見る様になった理由は前にも書いた。偶然、放送直前に
京都と松江に一人旅したからだ。特に松江は始めての旅だった。 そんな物見遊山気分で見てい
たが、10月中旬頃、双子姉妹の両親、忠(吉田栄作)と真喜子(石田ひかり)の過去が明かされて
いく頃から、そんな訳にも行かなくなった。 何時もなら何となく見なくなってしまうのだが、その頃
ソロスの「再帰性」の本を買って、考え方を借用したお陰で今まで見続ける事ができたように思う。 

私の前のブログ、2008.10.18の「再帰性・4」に、次のように書いていた。
“忠と真喜子の過去の青春物語は過ちに過ちを重ね、誤解が誤解を生む二度と起きない1回きり
の過程であり、 「再帰性」 の理論に当てはまる。・・・・ 忠と真喜子たち大人は、既に
“森を見る” 事ができる様になっており、過去を客観的に受け止める事ができるだろう。”

しかしドラマの展開は遥かに私の予想を超えていた。
今やその大人たち忠と嘉子(鈴木砂羽)の離婚が具体的になってきた。また、先週2/7(土)
真喜子は、忠の前で澤田(平岳大)からプロポーズされた後、喫茶店で忠と親密に話しこむ。
花むらの女将(藤村志保)が倒れた知らせを受ける直前のことである。真喜子は忠に言う。
“今のこの気持のまま、あの頃に戻れたらうまいこといきますやろか?”と。

私は、森脇京子の脚本の示すところではなく、その志を汲み取りたいと思う。
嘉子も真喜子も、日本的伝統社会を尊重するいわば古風な女性像に近いのだけれど、かけがえ
のない“人生”を自分なりに真剣に生きているのだ。 そこに森脇の“志”ありと見た。
ソロスの「再帰性」の理論も、その示すところではなく、“志”を理解しなければならぬ。
ソロスと森脇の重なるところは、人間の限界を心得てなお、真実を追究するところである。
それは、深い意味での“グローバリゼーション” (多様性を許容した世界の秩序化)にも
つながる考え方だと思う。

日本が精神的な意味で先進国とも言いにくい最大のポイントは、不完全性を認識した謙虚さと
“多様性を許容した世界の秩序化”の視点の欠如、或いはそれが少数派ということだ。
先人の業績を無にするのではなく、大成するための知恵と努力を積み重ねることだと思う。
小泉改革を骨抜きにするのは、中国やソ連のやり方に似ている? 如何なものか。

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