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映画「おくりびと」・2 [物語]

「おくりびと」の印象的な場面を、1,2 書きとめておきたい。或る時、子供の頃に父親の奨め
でチェロを習っていた頃使ってたチェロのケースから新聞紙に包んだ石ころが出てくる。それを
追憶する場面で石ころ(石文)を河原で交換する父親の顔が思い出せない。この事の背景を
教えてくれるのが、銭湯のおばちゃん(吉行和子)が、大悟の妻(広末涼子)に告げる話だ。
「あんたの旦那はねえ、何でも一人で背負い込んで一人で悩むタイプだからね。小さい頃
 お父さんが出て行った後も、お母さんの前では涙一つ見せなかったんだよ。銭湯で一人に
  なった時にだけ、肩を震わせて泣いていたんだからね。可愛そうに!気をつけてあげて。」

大悟少年が、どんなにか深く父親を大切に思っていた事か! その思いが深ければ深いほど
胸も張り裂ける切ない気持を処理するために、恨む事も出来ず記憶を消すしかなかった。
そのような大悟の身を引き裂かれるような悲しみをおばちゃんはチャンと知っていてくれた。
どんな国や地域でもこのような地域社会の人々の優しい眼差しが人々の生きる支えなのだ。

もう1つの印象的場面は、銭湯のおばちゃんの火葬場での執行人・笹野高史の述懐場面だ。
「ここで何十年も御見送りしていると、“死”とは“門”だとつくづく思う。
 終わりではなく、また始まるのだと。」 という意味合いのことを言った。
これは古くからいわれている「輪廻転生」のことを言っていると解釈できるが、
大切なことは、決して理性的な悟りではなく、長い経験に裏打ちされた実践的な悟りなのだ。

この物語の主人公の名前は “大悟”、大悟こそは、人間の究極の境地だろう。
小林大悟(本木雅弘)は、平凡なチェロ奏者だったかもしれない。
しかし納棺師になって、腐乱死体の処置等、様々な経験、実践を通して、その境地を深めた。
大自然の中でチェロを演奏する姿は、堂々たる風格を備えていくのである。

そして最後には何十年も会わなかった父親の死を知り、納棺師として父親を丁重に納棺する。
そのさ中に、父親(峰岸徹)の亡骸の掌から大悟が手渡した“石文”が転がり落ちる。
大悟の父親に対する切ない心理は氷解すると同時に、記憶の中の石文を交換した時の父親
の顔と遺体の顔とが一致するのである。 心を自由にする悟りこそ何ものにも代えがたい。
だが生きるとは何かにこだわるということでもある。 なかなか難しい。 如何なものか。

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