続・私的儀式 [希望]
ブログに「私的儀式」を書いてから、3週間以上経過した。
あの日の翌日から足も出して乾布摩擦をするようにした。
洗顔から乾布摩擦、その他、短パン一枚で実施するので、確実に10分以上裸になっている。
“私の肉体、各器官(脳・臓器・筋肉・口・歯と歯ぐき・目目鼻等)、各細胞に感謝している「私」
とはいったい何者なのだろう?” と毎朝鏡の中の自分を見つめながら考えるようになった。
肉体と「私」とを、コンピュータのハードとソフトとに対比してみた。
どうも違うように思う。 私の“活動”に、肉体(ハード)同様ソフトは確かに欠かせない。
しかし「私」は、明らかにソフトそのものではない。
得た現状での結論は、「私」は私の肉体、各器官(脳・臓器・筋肉・口・歯と歯ぐき・目鼻等)、
各細胞に遍(あまね)く在る、即ち遍在している、ということである。
例えば“散歩”という活動は、肉体(ハード)もソフト(各種情報処理)も全てを駆使して
行うのであって、それは全体活動で、「私」と、私の肉体や私の体内で作動するソフトとは
分割することが出来ない。 分割できるときは、活動を停止したときである。
結局、こんな事を考える「私」は、私、だという平凡な結論になった。
無数の私の細胞には「私」が遍在するように、全ての生物には、私の細胞に対する「私」に
相当する「或る存在」が遍在している、即ち、全ての生物は切り離された存在ではない。
「私」は、毎日、細胞と共に死んでゆく身であり、新しい細胞の誕生と共に生れる身である。
「私」は、現在に縛られない。時間に自由に、生と死を繰り返しているのである。
この考えは、老・病・死などの不安=苦に脅かされる、愚かで弱い「私」が、孤独でない事を
気付かせてくれ、大いなる味方になってくれると思われる。
人間は苦しみ・悲しみから逃れるために、自分を強くしようと考えて様々な方法論を考えた。
宗教も、哲学も、科学も、皆そうである。 人間は、苦を厭い、苦から逃げようとする。
逃げるのではなく、共存する覚悟が必要なのだ。 苦に縛られない自由を獲得することだ。
私の私的儀式の思索から得た結論は、明治時代の文豪たちの “不機嫌” “文化の衝突”
という苦に縛られず、共存するための“苦の構造改革” だといえば、言いすぎだろうか?
如何なものか。
あの日の翌日から足も出して乾布摩擦をするようにした。
洗顔から乾布摩擦、その他、短パン一枚で実施するので、確実に10分以上裸になっている。
“私の肉体、各器官(脳・臓器・筋肉・口・歯と歯ぐき・目目鼻等)、各細胞に感謝している「私」
とはいったい何者なのだろう?” と毎朝鏡の中の自分を見つめながら考えるようになった。
肉体と「私」とを、コンピュータのハードとソフトとに対比してみた。
どうも違うように思う。 私の“活動”に、肉体(ハード)同様ソフトは確かに欠かせない。
しかし「私」は、明らかにソフトそのものではない。
得た現状での結論は、「私」は私の肉体、各器官(脳・臓器・筋肉・口・歯と歯ぐき・目鼻等)、
各細胞に遍(あまね)く在る、即ち遍在している、ということである。
例えば“散歩”という活動は、肉体(ハード)もソフト(各種情報処理)も全てを駆使して
行うのであって、それは全体活動で、「私」と、私の肉体や私の体内で作動するソフトとは
分割することが出来ない。 分割できるときは、活動を停止したときである。
結局、こんな事を考える「私」は、私、だという平凡な結論になった。
無数の私の細胞には「私」が遍在するように、全ての生物には、私の細胞に対する「私」に
相当する「或る存在」が遍在している、即ち、全ての生物は切り離された存在ではない。
「私」は、毎日、細胞と共に死んでゆく身であり、新しい細胞の誕生と共に生れる身である。
「私」は、現在に縛られない。時間に自由に、生と死を繰り返しているのである。
この考えは、老・病・死などの不安=苦に脅かされる、愚かで弱い「私」が、孤独でない事を
気付かせてくれ、大いなる味方になってくれると思われる。
人間は苦しみ・悲しみから逃れるために、自分を強くしようと考えて様々な方法論を考えた。
宗教も、哲学も、科学も、皆そうである。 人間は、苦を厭い、苦から逃げようとする。
逃げるのではなく、共存する覚悟が必要なのだ。 苦に縛られない自由を獲得することだ。
私の私的儀式の思索から得た結論は、明治時代の文豪たちの “不機嫌” “文化の衝突”
という苦に縛られず、共存するための“苦の構造改革” だといえば、言いすぎだろうか?
如何なものか。
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