SSブログ

映画「おくりびと」・3 [物語]

09408284おくりびと文庫.jpg私が映画「おくりびと」を見た直後の感覚は、一般的な日本人にはピンと
来ないというものだった。こんなに騒がれるのは私が間違っているのか?
と心配になって少しインターネットを調べてみた。 そしたら私の感覚は
それ程間違っていないことが分ったのである。 当初、この映画のロケは
富山県の予定だったが、県はそれを断り、今になって悔やんでいるとか。
また滝田監督の両親もこんなに有名になるとは予想していなかったようだ。

私の推論ではこの映画の評価を決定付けたのは海外の映画祭での受賞の
お陰だったように思う。 昨年9月の第32回モントリオール世界映画祭グランプリ、
その直後の第17回金鶏百花映画祭 国際映画部門 作品賞・監督賞・主演男優賞、その後の
昨年10月第28回ルイ・ヴィトン・ハワイ国際映画祭 観客賞等で注目を浴びたことが大きい。
勿論、この作品の素晴らしさを見抜く日本の具眼の士は大勢いたと思うが、私のような者迄
映画館に呼び込まれたのは、米アカデミー賞受賞が大きな動因である。

諸外国の人々が、納棺の儀式にまつわるこの映画の物語をどのように受け止めたのか?
そのことは良くわからない。 しかしこの映画はあらゆる日本人に素晴らしい贈物だと思う。
この映画を見て改めて思うことは、“死”の問題を再認識する新しい視点を、納棺という儀式
を通じて提供するという素晴らしい問題提起をしてくれたことである。
“死”というものを、生命を失った遺体が火葬される迄の時間、どのように社会と関わって
いるのか? という非常に具体的な形で考えさせられる。

生命を失うまでの闘病や失う瞬間の“死”や、物理的にこの世から消えた後の“死後”は
考えても、遺体でいる間の死後を深く考えることは余りないのではないか。
映画「おくりびと」を見て、納棺師がご遺体を生ける人間のごとく尊厳をもって遇してくれて
いる事に、大きな安堵を感じるのは私だけでないと思う。 湯灌を親族の前で行うという事は
それを、心を込めて行っているということなのである。 美しい所作も、形ではないのだ。
心から、死者に対する深い敬意、美しいこころがあるからできることなのだと思う。
遺体に接することを「けがれ」と思うのは、けがれた心で接すると思うからだ。 
美香は大悟が行うツヤ子の納棺の儀式を見て、全てを悟るのである。 如何なものか。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。