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2009世界保健デー [歴史]

今日は 「世界保健デー」。世界保健デーは世界保健機関(WHO)が提唱して定められている。
花祭りの前日、新学期・年度始めに当たる世界保健デーを、命を守り、健康を改善するという
意識の向上を図る良い機会と捉えるのも悪くはないと思う。 健康な隠居の身なら、花見でも
しながら健康増進の策を練り、優れない隠居なら健康回復策を一考してみるのも悪くない。

私は今シーズンはじめてのゴルフ練習に行ってきた。私ほどズボラゴルファも居ないだろう。
コースと練習場に通うのを合わせて、年間20日位である。(庭先でクラブを振るのは別)
それでも、曲りなりに人様とやっていけているのは、若い頃やっていたお陰である。
久しぶりだったが、冬場にはじめた我流筋トレの効果で、飛距離は数年前に戻ったようだ。
ドライバーならキャリーで200ヤードいく場合もある。 問題は、精度が悪くなったこと。
我流筋トレは、ゴルフ用ではないから、余計な筋力が働いてしまうのかもしれない。
私は元々、飛ばすことに快感がある方だが、練習の終盤では筋トレ効果など気にせず軽く振る
ことを思い出した。だいぶ精度も向上し、飛距離もあまり落ちない結果を確認できた。

今日の天気は素晴らしかった。
さまざまな雑用をこなし、散歩は1万歩を超えたが、残念ながら花見はできなかった。
そこで最近勉強した芭蕉の桜にちなんだ俳句を披露する。
◎ 姥桜 咲くや老後の 思い出(いで)  寛文4年(1664) 芭蕉 21歳
うば桜が見事に咲いている。老女が華やいでいるようなものか? という位の意味。

しかしこの句の裏には、並々ならぬ教養が隠されている。 まず第一は、源頼政の
◎ 深山木(みやまぎ)の その梢とも見えざりし 桜は花に あらはれにけり
という、『平家物語』『源平盛衰記』などにも引用された名高い歌を下敷きにしている。
深山では、どれが桜の木か見分けられないが、花が咲くとすぐ分る、という意味である。

この和歌を転用した謡曲「実盛」の一節 “深山木(みやまぎ)の その梢とも見えざりし、
老い木をそれとご覧ぜよ” を思い出させ、姥桜を、白髪を染め上げ若武者振って死出の旅を
飾った73歳の実盛に見立てた句なのだ。 盛りの姥桜の散り際、その美しさ、もの悲しさを
実盛に例えることで、一層の奥行きがでる伝統芸である。 如何なものか。

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ミサイル・散歩・孫 [散歩]

北朝鮮の長距離弾道ミサイルが発射され、推進ロケットの1段目は日本海に、2段目以降は
太平洋上に落下したという。日本は勿論のこと、米国にまで脅威は及ぶことになった。
ベルリンの壁崩壊後、東の“義”は地に落ちソ連邦は瓦解した。とはいえ、ロシアも中国も
瓦解の火種を抱えた広大な国家。貧富拡大、伝統や規範、風紀の乱れ、地域自治等、問題
山積みである。自国内秩序維持のために国民の目を外に逸らせる等、四苦八苦である。

ベルリンの壁崩壊後、冷戦は隠蔽されていたが、此処に来て明らかに変化が生じたと見る。
東西対決における東側のゲリラ戦法も、西側の海外派兵も共に、経済的負担が大きい。
最近の金融恐慌は、米国にも深刻だが、中国やロシアにとっても相当の痛手だろう。
そこで一時休戦ということになるが、大人しくしていると甘く見られるので、衣の下の鎧を
ちらつかせるという訳だ。日本が騒ぎ立てるのはスピッツが吠える程度にしか感じていない?
これからは、開発途上国の陣取り合戦よりも、核兵器による威嚇外交に切り替えるのか。
オバマ大統領が核拡散防止、核軍縮を盛んに主張しているのは、そういう背景があるようだ。
DSC090406吉岡川南桜1.JPG
今日の散歩ではいつものコースを反対まわりで歩いた。そのお陰で
随分と新発見があった。写真は吉岡川南に咲いていた桜である。
大きな桜が数本、若木が十数本程度の何処にでもある規模だが
遠くから結構目立つ存在だった。いつもは東に向いて歩いていると
桜の咲いている時でも死角になって見えない。
◎ 遠くから 見つけてうれし 花の雲
20090406koto入学式re1.JPG
今日はkotoの入学式、写真は同級生と先生である。1クラス32人
Kotoの同級生が随分大人びてみえた。昨日、運動公園で県内の
大学生・記録会を散歩の途中で見かけたが、高校生くらいにしか
見えなかった。これはどういう事か?
kotoたちと電話で話していたらryuの情報もゲットした。
新4年が最上級生の新チームでryuはキャプテンになったが、その重圧をものともせず、
デビュ戦でツーランホームランをかっ飛ばし、初戦勝利を飾ったらしい。
孫達はそれぞれどんどん成長する。私も孫孫していられないと思う。 如何なものか。

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清明と花見 [散歩]

090405_桜_M.jpg今日は二十四節気(立春、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬、冬至等)
の1つ清明。春を迎えて郊外を散策する日で今年は4/5~穀雨4/20まで
の期間を指すという。今朝は薄曇でいまいちの天気だったが、徐々に晴れ
てきた。昼前から散歩に出たが午後にはほぼ快晴になった。
清明の日だという訳でもないがイオンで弁当を買って、酒津貯水池に花見
に行った。公園の駐車場は満杯で、整理の人が拡声器で叫んでいるのが
普段と違っていた。私は用水路横の車の通らない道を歩いていった。
遠くから眺めた感じではまだまだ蕾がありそうだったが、近づいてみると
満開に近い木もあり、花が散り始めていた。(上の写真は結構満開に近い木である。)
090405_桜1_M.jpg
全体として見れば、7,8分咲きというところか?酒津貯水池の桜は、
街中のものより少し遅めだと思う。酒津貯水池としては去年と良い勝負
だろうか? この当たりの花見は老人には良いことばかりである。
まず人が少ない。今年の日曜日では今日がベストと思われるのに、
左の写真のような状況である。ベンチを独り占めして弁当を食べた。
また見物の皆さんが大人しい。高歌放吟、大音響カラオケ等は全くない。
地方の人にはあまりストレスがないのか?禁止されているのか?
それとも、休日の昼間は家族連れの前で、猫をかぶっているのだろうか? 

◎ 花見とて はしゃぎもせずに 帰りけり

それにしても食事しているときには結構冷えた。歩いていると感じないがやはり花冷えか。

今日は、また新しい道を見つけて歩いた。道は無限にあるように見える。フラクタル構造だ。
散歩をするのは、本を読むのに似ている。
巨匠の本、著名な本を読むのは、有名な場所に行って歩くのに似ており、普通の本を読むのは
普通の場所を歩くのに似ている。私の散歩のように馴染み深い場所を繰り返し歩くのは
愛読書を繰り返し読むのに似ている。読むたびに新しい発見がある。 如何なものか。

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利と義と・5 [希望]

今夜9時過ぎから、NHKの“プロジェクトJAPAN プロローグ 戦争と平和の150年”を見た。
この放送では開国以来の150年を振り返り、日本が世界平和の構築にどのような貢献ができる
のか歴史から教訓を探るというものだ。この放送を見て5たび 「利と義と」を 書きたくなった。

「天地人」における“義”とは、正義を見失った戦国末期の社会秩序の再構築ということだ。
しかしこれを巨視的に見れば内乱であり、それぞれの陣営の“利”の争奪戦とも受け取れる。
現代におけるアジア、アフリカ、中東などの難民問題も、内紛が原因のものも多い。
そのように対比してみると、歴史的に日本が自らの“利”を追求し、その利潤によって施した
産業と教育の成果が、現代の日本国内における社会秩序を作り出していることが納得できる。

さて目を国内から、国と国との“利”または“義”の対立に向けて見ると、国際社会的秩序は
必ずしも整っているとはいえない。 何故なら国家を跨った国際社会の“義”即ち秩序とは
何か?ということが明確でないからだ。国連改革に熱心だった第6代国連事務総長の放送での
話では、国家主権、文化的ナショナリズムが今なお健在であるためだと仰っていた。同感だ。
私は以前、長い歴史の中で育まれてきた多様性を推進し、決して同質性を強要することのない
「世界の秩序化」としてグローバリゼーションという概念を2009-02-11建国記念日のブログ
紹介したことがある。我々は、この150年の歴史から、いや上杉謙信や直江兼続からの400年の
歴史から、 “多様性を推進する世界の秩序化” を “義” として学びとる必要がある。

利と義の問題で避けて通れないものとして、「武力」 「暴力」 がある。
降りかかる火の粉は払わねばならない。そこにどうしても活動「力」が必要になる。
アメリカにおける銃器所持の自由に関しては、こういう観点から認められている。
国内の社会秩序を守る場合でさえ、人を信用できるか、できないか?で違いが出てくる。
増してや、国家単位となれば、無法者国家もあることだし、丸腰というわけにもいかない。
しかし放送内で、“国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決
する手段としては、永久にこれを放棄する。” という憲法9条が世界で意外と評価されている
という扱いがなされていた。 巨大なエネルギーを簡単に扱えるようになった現代、核爆弾は
正に武力による威嚇以外の何ものでもない。 全ての国が核爆弾を放棄し、国際司法裁判所と
国際警察によって “世界の多様性推進の秩序化” を達成できないものか? 如何なものか。

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食の嗜好 [思い出]

今日は早めの夕食を近くのイタリアンで摂った。スープ、スパゲッティにチーズフォンデュ、
野菜サラダ。少し量が多かったかもしれないがまだ少し余裕があった。 食後の腹ごなしに
ブラブラ散歩しながら、最近、食の嗜好が少し変わってきたことを何となく考えていた。
私は生れて物心ついた頃は、第二次世界大戦、そして戦後でもののない貧しい生活を余儀なく
されて粗食が当り前だったから、料理に関してあれこれ注文できるような能力も経験もない。
乾パンや脱脂粉乳などの貧しい食品で、味覚もおかしくなっていたのではなかろうか。

そんなことを思い出していると、突然、高校生の頃に、将来は板前になろうかと思ったことを
思い出した。この計画は、家族の一笑に付され敢え無く諦めてしまったが、今思い返すと、
いったい何を根拠にそのようなことを思いついたのか、本人自身が良く思い出せない。
その頃は、現天皇皇后両陛下のご成婚のあった時代、三丁目の夕日の時代で、戦後も一段落、
新しい社会の夢をみて、華やいだ気分だったから、そんな素っ頓狂なことを考えたか?
思春期は、実に不可思議なことを考えるものである。

♪包丁一本 晒しに巻いて、板場の修業をしていたら、どんな人生だったのだろうか?
それでまた、中学生の頃の事を思い出した。入学祝いに万年筆を贈ってくれた新婚ホヤホヤの
知人に、「将来は何になりたい?」と聴かれて、「外交官」 と答えた。 あの頃の万年筆は
中学生にとって貴重品だった。それに釣られて、ろくに知りもしないことが閃いたのだろう。
数年の間に、外交官から板前とは随分 飛躍したものだ。いや堕落か? 思春期は不可思議?
DSC090403桃.JPG
板前を志した私の食の嗜好は、京風懐石料理(といっても本格的な
ものは食したことなし)、勿論、うどんは関西風の塩薄味、ラーメンも
塩、煮干・鶏肉系統ダシ、スパゲティ今一・・・・ 要は、薄味、サッパリ
系統だった。 肉より魚貝・甲殻類、どちらかというと草食動物だ。
処が最近、肉やてんぷら、マヨネーズ、チーズなどが食べたくなって
きた。年取って油っ濃いものを食べるのはよくないといわれるのにどうしたことなのか?
いよいよ年貢の納め時?原因はどうも、20081218散歩と体力[散歩]のブログで紹介した
我流トレーニングを続けた結果らしい。(写真は夕闇迫る頃に出会った満開の桃の花)
◎  夕されば ほのかに浮き出る 桃の花

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北朝鮮 ロケット [歴史]

北朝鮮が主張する「人工衛星打ち上げのロケット」の発射まで最短であと2日となった。
ロケットかミサイルかは搭載物が分かるまで判然としないという。政府は着弾の可能性に備え
迎撃態勢を取っているようだ。 このような状況をただ呆然と見守るしかない。それにつけて
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件のことを思い出す。
あの時(夜遅く) 私はテレビを見ていて急に画面が切り替わってビルに飛行機が吸い込まれて
いくのを見ながら、何か夢を見ているようで、現実感が伴わなかった。

その後、ジャンボジェットの衝突を受けても何事もなかった様に建っていたビルが、
突然崩壊していく有様に、二度びっくりだった。 建築家の友人に崩壊の理由を聞いたら
巨大な衝突物による振動が原因で、すべての接続部、継ぎ手が溶解して建物の重量を支えられ
なくなったのだということだった。 我々は、日夜、巨大なエネルギーを使っているのだ。
日本は、広島と長崎における原爆の被害で、世界初の被爆国になったが、この問題にしても
理性では理解しているつもりでも、実感として、現実の問題として受け止められていない。

人間は、錬金術から発展した科学技術によって、産業革命を起こし、人々の連携によって
科学技術= “金の牛” を発展させ、途方もないエネルギーを手に入れてしまった。
神が禁じ、モーゼが幾度も崇拝してはならないと説いた“金の牛”を。
鉛から金を作り出すことを夢見た錬金術師達が手がけた技術から進歩した科学技術によって
厄介ものだった黒い石や臭い水から、今やいくらでも金を生み出すようになった。
富(利)を生み出す “金の牛” =科学技術を、人々は崇拝して止まない。

“義” と “富(利)” が、相補うものである以上、科学技術もまた “義” を担っている。
“義” が、社会秩序を維持する手段であるのと同様に、科学技術もまた “義” を盛りたてる
手段であるに過ぎない。 然るに、科学技術を生きる拠り所としているのが問題なのだ。
現代のような巨大な科学技術、エネルギーを扱うにしては、そこに生きている人間があまりに
幼いというか、時代の進歩に対応していないというか、そぐわないというか。
現在のようなお粗末な感覚器官や思考器官では、利と義を通り越し、再帰性を通り越し
単なる偶発性の社会、カオスの社会に突入するのではないかという危惧を感じるが、
如何なものか。

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利と義と・4 [物語]

今日はどんよりとした曇り空で、午前中は雨もぱらつき花冷えもここまで寒くなるか?と思う
様な一日だった。 午後は遅くに晴れ渡ったが、かえって冷えて風も強まり花が風邪を引く?

さて、NHK大河ドラマ 「天地人」 も、上杉謙信が死んで丁度一ヶ月、後継者の跡目争いが
続いている。とても “義” を云々する状況ではなさそうである。
後継者候補の影虎も景勝も本心はどうか分らないが、当初表面上は “義” を建前としていた
ようだが、家臣団の利権争いが、跡目争いの導火線になってしまった。
両陣営の組織として、“利権” 争奪になったら、力(武力や金力)による解決しかない。

“義” というのは、社会秩序を維持する1つの手段であり、主君のためとか領民のためという
錦の御旗などと同様の概念である。“利” を求める人間の欲望を、秩序が乱れない範囲内に
治めるために必要な考え方だが、分ったようで分らない。まるで玉ねぎの皮剥きのようだ。
その謎は、江戸時代の 「士農工商」 という階級社会を考えてみると意外と良くわかる。
江戸時代の武士は、父祖伝来の知行や俸禄という収入が保証されていたから、基本は、“利”
を追求しなくて良かった。収入の心配をしないで社会秩序の維持に専念することを “義” と
考えればいいわけである。 残念ながら、構造欠陥のために、その通りに運用できなかった。

明治維新後に、武士だった人が商売に手を出し、「武士の商法」 と笑われた。
昔の日本、特に武士階級では、“利” は悪と考えられていたから武士には商売は無理だった。
商人は、そういう卑しい行いである “利” を追求する人間と見られ、階級が低かった。
松下幸之助の “営利と社会正義の調和” といった考え方は、江戸時代の商人たちが創造した
“商人道” を受け継いだものである。世の中の変革は、社会の中心部からではなく、周辺部
から起こると言うが、まさにその通りだった。 江戸時代の構造的欠陥をついて、着実に力を
つけた商人の天下が到来すれば幸いだったが、黒船の来航の方が早かった。

様々な紆余曲折があったが、日本的民主主義の社会においては、
2009-03-10のブログ、「利と義と・3」で取上げた松下幸之助の“営利と社会正義の調和”の
言葉があらわすように、“利” と “義” とは相反する概念ではなく、相補う概念となった。
グローバルな時代の “義” とは何か?具体的な “利” との相補関係は? 如何なものか。

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