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文化資本 [希望]

昨日はチョッと大河ドラマや似たようなTV時代劇を批判的に分析することを試みた。
娯楽TV番組を楽しんでいる人を、文化貧民と呼んでいるような誤解を与えたかもしれない。
私もご承知の様に娯楽ドラマを楽しんでいる一人であり、そういう風にとられたとしたら、
私自身も文化貧民の一員である。
私が昨日言いたかった事は、国策的ドラマ(例えば大河ドラマや朝の連続テレビ小説)は、
ある種の文化資本(家庭や社会がもつ文化的能力や文化財)を、画一的に、個人や家庭に
蓄積する活動ともいえるのではないかということだった。

文化資本の画一的刷り込みは社会統制上便利なのかもしれない。だがやりすぎると身についた
文化資本を持たない人々があふれて経済的格差以上に深刻な社会問題に発展すると思われる。
現代の日本は個々の文化資本に注意を払っていないと思う。 西欧近代思想の残渣で、
何らかの正しい文化資本というものがあり、間違った文化資本は不要という考え方が強い?
現代の人間は皆、一度も絶やすことなく文化資本蓄積を継続してきているはずである。
文化資本は一朝一夕に生み出したり、変化させたりできるものではない。
そのような視点に立って、多様な文化資本を許容する施策が必要である。

小泉改革が格差社会を生み出したという話があるが、経済的格差よりも、文化資本格差の方が
深刻なのではなかろうか。文化資本が、画一的に上流指向になり、本来的に各家庭に存在して
いた文化資本が、資本としての用を為さなくなり、文化資本という精神的拠り所を失っている
のではなかろうか。
青木新門著「納棺夫日記」を読むと、旧家に生れた日記の主人公は、戦後の農地改革等で没落
しながら納棺夫として生きる誇りを見出していく。彼には、世間的な目を跳ね返して、周囲の
人々との文化的軋轢を克服していく文化資本(身体化された)があったのだ。

自己の文化資本が否定されるのは、大きな精神的暴力であると思う。そのような暴力に負け
自己の文化資本を否定した人々が、貧しい文化資本の再生産をしているといわれている。
しかもそのことが、本人や子供たちにとってはほとんど意識されることもなくなっている。
そういった文化資本の側面について、社会的に十分考慮されていないがための様々な誤解や
間違い、失敗による悲喜劇があるのではなかろうか? 如何なものか。

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