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天地人15 [物語]

kanetugu_ph0'3.jpgNHK大河ドラマ「天地人」も昨日で15回を終え、約1/3を経過したことに
なる。9回(3/1)の放送で謙信が死去して以来、長々と続いた景勝(北村
一輝)と景虎(玉山鉄二)との跡目争いもようやく決着がついた。
「NHK大河ドラマ歴史ハンドブック」に掲載されている同時代年表による
と、天正6年(1578)から翌年にかけて、兼続19~20歳(妻夫木聡)の
出来事ということである。年表その他の様式を実しやかに備えると
いかにも歴史的な事実のように見えるが、それらの真偽も含めて、
飽くまでも物語である。しかし、それを承知の上で、大河ドラマは
ある種の共同幻想を刷り込んでいる。

今まで、様々な大河ドラマで、歴史上の人物を取上げてそれぞれの物語が語られてきた。
それらは当然史実ではない。ある種の人々が作為を持ったか、持たなかったか分らないが、
ある種の情熱を傾けて描いてきた。それ以外にも民放テレビ、映画などでも時代劇などが
製作され観客を動員した。“信長”“秀吉”“家康”“宮本武蔵”“明治の元勲”をはじめ、
「水戸黄門」「大岡越前」のようなものまで含めるとキリがない。こういった情報が繰り返し
て流され、それらをある種の娯楽として受け止めている我々のような人間は、知らず知らずの
うちにそれが一種の常識となる。実に恐ろしいことである。

例えば「天地人」では、景勝と景虎のどちらに“義”が有るのかは明らかでないが、跡目争い
の泥沼の戦いを、兼続を通してみていると、何となく景勝に“義”があるように思えてくる。
日本人は“判官びいき”というが、それは義経の側から描いた物語だからである。
簡単に言ってしまうと、NHKという国営テレビは、兼続という人間の価値観を正しいものと
して視聴者に刷り込みたいわけだ。兼続と彼を取り巻く人間模様をベースにした全く夢空間・
現実離れした状況で、現実離れした価値観を創造し、故意か過失か、刷り込んでいる。

大河ドラマ等が相対的に小さな存在となり、庶民の判断を狂わせる低劣な番組を含めて、
種類が豊富になり選択範囲が広がったのは、現代思想の影響かもしれない。
さてそれで低劣なテレビ番組等をみている人間は文化資本蓄積がない文化貧民という事に
なるだろう。日本は文化貧民を慰安する優しい社会?  如何なものか。

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