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文化資本・2 [希望]

NHKの大河ドラマや朝のテレビ小説を日本人のマインドコントロールのためのもののように
書いたのは言い過ぎかもしれない。人それぞれの感性があり、それぞれ異なった受け取り方を
するのだから、一様な文化資本蓄積にはならないだろう。知恵深い穏健な国民を育成するため
の様々な情報提供は、ある種の偏向があるといっても、権力のために必要な施策で、必ずしも
否定すべき問題ではない。それを即、文化資本の多様性を尊重していないというのは的外れ?
であり、現代の政治的世界ではいまだ近代思想で運営していかざるを得ない状況なのだろう。
しかし現代思想で明らかにした事も見据えた文化資本政策を考えなければならないと思う。

“文化資本”という用語はピエール・ブルデュー(1930-2002)の造語で、支配階層の文化資本
(支配階層の中での派閥闘争のための差別化)を主体的に論じている。しかし私は日本には、
階級闘争とは関係なく庶民にも庶民の文化資本があるし、諸外国にも同様の文化資本はあると
思っている。度々引用させてもらうが「納棺夫日記」の著者・青木新門が周囲の文化的軋轢を
乗り越え、納棺夫文化を創造したのは、決して支配階層的文化資本ではないだろう。
その社会の支配階層の文化だけが、その社会の文化でない事は明らかであり、多様な文化を
許容する社会が求められている。

私はレヴィ・ストロースが日本に来た時の講演集「構造・神話・労働」で、彼が
「欧州では近代化の時に過去との断絶をしたが、日本が他のどの国よりも自らの過去の文化を
破壊することなく近代化を達成したのを自分の目で見ることができた」というのを読んで、
意外な感を受けたが、もしもそうだとしたら、日本では、中流やそれ以下の庶民階層では、
支配階層と異なる文化資本を引き継いでいるからだと納得したのである。

現代思想は、文化資本問題の本質に迫ったところに意義があると思う。人間の長い歴史の中で
西欧自らが自分達の文化資本のからくりを暴露した事は、他の文化圏が西欧一辺倒の考え方で
はなく、独自の文化資本に自信を持つ大きな動機になると思う。勿論、だからと言って、即、
民族主義になるということではない。独自の文化資本に自信を持った協調外交や内政が必要な
のだ。いつまでも欧米思想を振りかざして未だに社会闘争にお熱を上げているのは時代錯誤も
甚だしいと言わざるを得ない。やるなら日本的文化資本を駆使すべきだ。 如何なものか。

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