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雨の東京 [散歩]

DSC090529阿修羅.JPG昨日は雨の中を東京国立博物館に「阿修羅展」を見に行った。
雨の日、しかも平日なのに、やけに傘の波が多いなぁ~
ムム!これはみんな「阿修羅展」へ行くのか?悪い予感は的中
何と雨の中、60分待ち。そこで、昼食抜きで見物すると覚悟。
雨の中で1時間待つ間、傘を差しながら本を読んで紛らした。
黒木瞳の音声ガイドを借りていよいよ鑑賞である。

第1章:興福寺創造と中金堂鎮壇具の部屋
ガラス張り陳列棚の前に見物人が張り付き、最初からストップしてしまった。
仕方がないから陳列棚から2~3列離れて人の間から見物した。
以前に同じような経験をしたのを思い出した。兵庫県立美術館での「ゴッホ展」だった。
皆さんがこの満員電車状況における鑑賞会を好む気持ちもわからないではなかった。
満員鑑賞の良さは、時間をかけて鑑賞せざるを得ないという状況に陥いることにある。
説明書きも何度も読み返し、音声ガイドなら何度も聞き返し、暗記できる位になる。
対象を細部まで鑑賞して独自の発見があるのも楽しい。

第2章が国宝・阿修羅とその世界。
この部屋に入ると、なんとなく人影が少なくなっている。最初の展示物、「阿弥陀三尊像」や
「金鼓(きんく)」は素晴らしい青銅細工、西暦700年当初に日本で制作したものとも
思えない精巧な細工である。実際、日本製かどうかは怪しいと思う。
さらにまた阿修羅を除く八部衆や十大弟子も存分に鑑賞できた。興福寺で鑑賞したときには
壁沿いにガラスケースに収められており、斜め後ろからのお姿を拝むことはできなかった。
今回はガラスケースもなく塑像の質感や八部衆の鎧、着物の文様なども詳細に鑑賞できた。

最大の山場、阿修羅の展示室は入口からすでに満員電車状態。阿修羅に近づくに従い、
すし詰め状態、そしておしくらまんじゅう状態へと突入した。興福寺とは違う状況で鑑賞する
ためか、阿修羅はゆっくりとまわりを回る観客に対して多くのことを発信してくる。
刻々と変る表情、着物の文様などから、様々な想念が浮かんでは消えてゆく。
阿修羅の余韻嫋々とした状況を思い浮かべながら第3章、第4章は省略。如何なものか。

忙中閑散歩 [散歩]

土曜、日曜は、合唱演奏会リハーサル、本番などで忙しかった。
我が団は、合唱組曲「北斗の海」を歌った。
この組曲をいつか遠くない日に、一度、物語風に解釈して見たいと思っている。
DSC090526日月光.jpg土曜日には、早めに会場近くまで行き、リハーサルと練習の前に
旅程変更の手続きをするため、開店までの時間を散歩した。
左の写真はそのときに撮ったものである。
何十度となく通っている道なのに気付かなかった。
上の写真が「月光」、下が「日光」と名づけた鬼瓦である。
鬼の眉間に“月”と“日”が形どられている。
交通手段の都合で、ポッカリ空いたわずかな時間だったが
そういう時には、かえって心が澄んでいるのかもしれない。
DSC090526紅葉の花.JPG
(左の写真は近水園で撮ったものである。紅葉の実のようだ)
月曜日は友人を空港まで見送りがてら備中国分寺、宝福寺を見物
昼食は宝福寺で美味しい豆腐料理を食べようという計画だったが
残念ながらお休み。それで空港途中にある足守に行った。
しかし、足守プラザは月曜日お休みであった。それで
侍屋敷に近い駐車場にあるうどん屋でうどんを食べた。
曲折あって、やっとありついた昼食がうどん。

◎ めぐり会う うどん涼しや 五月晴れ
DSC090526宇治金.JPG
今日は、再度の旅程変更をかねて何日ぶりかに妻と散歩に出た。
左の写真は、ジョイフルの宇治ミルク金時とマンゴー氷。
どちらも299円也、イオンよりも9円高い。
しかし、ジョイフルの氷の方が、きめが細かい。
お好み次第だが、私はやはりきめの細かい方が好みである。
結構楽しめる。 如何なものか。

イオンへ散歩 [散歩]

DSC090521宇治金.JPG今日は日照りも少なく、少し汗ばむ程度で済む散歩日和だった。
今週前半頑張ったお陰で、やっと今日は散歩に出ることができた。
写真は今年最初の宇治ミルク金時である。
ボリュームも結構あって格安の290円。気軽に食べられて、
今年は、一段と散歩中の宇治ミル金が増えそうだ。ただしこの
宇治ミル金は倉敷イオン店の商品。イオンまで行く必要がある。
インフルエンザ用のマスクもイオンでやっと入手できた。
なかなかイオンは頑張っていると感じる。イオンで思い出した。
民主党の岡田新幹事長は、イオン創業家の出身である。

インターネットで岡田新幹事長の事を調べた。1953年(昭和28年)7月14日、三重県四日市
生まれ。血液型:O。イオングループとの関係には神経質で、事業と距離を置いている。
本人曰く「5歳頃、父の会社は1店舗。学生時代は普通の生活。お客さんは一般庶民だから
庶民の生活からかけ離れてはいけないと教えられた。」という。
こういうものの言い方からして、すでに我々庶民とは異なると思われる。

外交、経済、行政改革などの意見に目を通した。外交関連以外はそれ程の違和感はない。
面白いのは、最近自民党が選挙区の世襲制廃止などを突如言い出したが、
岡田氏は、強力な地盤をもちながら、子供など血縁者に継がせない方針という。
本当なら見上げた心がけである。

ただ、岡田氏の考え方で「政治は真面目なものであるべき」と主張するのは良いとして
小泉内閣における「劇場型民主主義」に批判的であるというのは、残念である。
岡田氏は、自身が有能でしかも努力家で、人より優れたスーパーマンだからお分かりでない。
岡田氏が理想とするようなそんなスーパーマンなどこの世にいない。人間は不完全動物。
記憶している全てのことを一度に思い出すことはできない。完全なコミュニケーションなど
ありえない。小泉劇場と揶揄している人たちには、永遠に分らない真実がある。
岡田氏が本気で日本の総理を目指すのなら、そこをよく考えて国民に向かってほしい。
清廉潔白、真面目、有能、人柄だけでなく、本当の哲学が必須。如何なものか。

民主党の今後・2 [社会]

私は、民主党の今後に大きな期待を持っていない。自民党にも失望した。
マスコミのアンケート結果等から推定すると二大政党に大きい期待を寄せている人は精々、
全有権者の10%~20%程度だと思う。政治に関心のある全国民5~6割の2~3割だろう。
その程度の間で揺れ動いている。小沢前代表に支持者が5百万人居ると言うが信じがたい。
本当なら、余程甘い汁が吸えるに違いない。秘密主義の方がキッと信者が増えるのだろう。

私が、岡田新幹事長や、鳩山新代表の代表選挙演説を聞いて、期待したい事は、
政治を難解なものとする古い政治文化を変革してもらいたいということである。
それは間近に迫っている衆院選で勝った・負けたに関係ない。継続して対応して欲しい。
鳩山新代表は、代表選挙当日の演説で“友愛社会”の実現を訴えた。“友愛社会”という
キャッチフレーズに感激した一般庶民も多かったのではなかろうか。岡田新幹事長も
“自民党のしがらみ政治からの脱却”を訴えて、一般庶民に受けたのではなかろうか。
小泉と同じ“ワンフレーズ・ポリティクス”と言われようと、庶民の心に声が届いてこその
政治家である。

既に、民主党は衆院選挙を政権交代の場と位置づけて雰囲気を盛り上げると共に、選挙に
強い小沢前代表を選挙対策本部長に選任した。小沢の選挙の強さが、秘密主義闇金ベースに
基づくものだとすれば、企業献金疑惑との関連もますます深まるだろう。それでも参院選の
実績もあり、民主党勝利の可能性はあろう。しかし勝たない方がいいのではなかろうか?
1つは、自民党と同じような体質に堕落するという展開が予想される。
民主党が勝って明るい未来を拓くとすれば、民主党が、小沢的、自民党的手法を捨てること
ができたときである。それでこそ正々堂々の二大政党政治を開くことができる。

最後に、今度の衆院選で負けた(小差も含む)後。政界再編論が台頭するだろうが、二大政党
政治を拓くなら、そんなものに浮かれてはいけない。あくまで民主党中心に、有能で心ある
若き同志を受入れ育て、岡田などを中心に正々堂々の論陣を張って、自民党との政権交代を
あくまでも狙うことである。政治は結局人材の勝負。自民党は“絆”を活かして優秀な人材を
集め育てる力がある。民主党も優秀な人材と開かれた議論で様々な素晴らしい政策を打ち出せ
れば、小沢的豪腕がなくても、選挙に勝てる。如何なものか。

民主党の今後 [社会]

代表選挙が行われて、小沢代表から鳩山代表に交代し、麻生人気が低下した。
それが鳩山代表の人気かと思ったら、鳩山代表よりも岡田さんの方が更に人気が高いという。
それでも麻生首相より鳩山代表を、次期首相にと思っている国民の思惑は、自民党のあり方、
麻生首相の金融危機を理由にした既得権者へのバラマキに飽き足りないということだろう。

岡田氏が、鳩山代表よりも党員や国民に人気がある理由はなんだろうか?
単純化すれば、小沢前代表の政治献金に絡む問題に対して、妥協的な鳩山と冷静な岡田
という構図がその理由だ。すなわち、国民は小沢の豪腕を毛嫌いしているということになる。
この岡田の態度を、ある人が、そんな事では政治闘争を勝ち抜けないから、リーダとしての
資質に欠けると非難している。日本の検察が、後進国に多いこの種の「政治謀略」を仕組んだ
かも知れないとして、民主党が検察と戦うべし、という意見は、尤も!と思うかもしれない。
しかしチョッと待て!日本はこの種の「政治謀略」を仕組む後進国並みの国なのか?

既に主張しているごとく、私は岡田氏に賛成である。すなわち、党員や国民の意見と同じ。
この程度の献金疑惑をいちいち民主主義の根幹に遡って疑わなければならないというなら
確かに後進国並みである。しかし多くの国民や民主党員は、そうなって欲しくないのである。
説明責任を果たしもしないで、検察を疑う小沢前代表の態度に、後進国並みの権力者の姿を
見たのである。小沢前代表は、政治資金規正法の基本理念の第二条2に、“政治団体は
その責任を自覚しその政治資金の収受に当たっては卑しくも国民の疑惑を招く事のない様に
この法律に基づいて公明正大に行わなければならない。”というくだりを単なる美辞麗句と
思っているのだろうか?後進国の権力者ならその通りだろう。しかし日本に相応しいか?

現代の国民やそして心ある党員は、謀略に明け暮れる権力闘争を望んでいない。
民主主義の根幹を守り、長期的なビジョンをもって、政党内や政党間でよく議論して
より多くの国民の幸せを後押しする政治を期待しているのだ。
現実というのが、ドロドロしている事など、まともな日本人ならば誰でも弁えている。
政治家も人間である以上、思い違い、勘違い、ドロドロや失敗もあるだろう。完璧な人間等
ありえない。だが国民は、政治家に一般人よりも少しだけ“志”が高いことを期待している。
それが衣食足って礼節を知る先進国の政治家が忘れてならない事ではないか?如何なものか。

感冒と散歩 [散歩]

090518神戸高校.jpg県立神戸高校(写真:私の母校)の生徒の感染で新型インフルエンザ
が他国との水際対策の壁を乗り越えた事が明らかとなった。お陰で
テレビで度々、懐かしい母校の校舎を見ることができた。
水際対策に限界がある事は分っていたが、いよいよやって来た!
という感じである。新型ウイルスは、現在「弱毒性」との事。
しかし安心は禁物である。
私は2009.04.28~05.02,04の“流行性感冒”関連のブログでタミフル等が新型でも有効な
理由、抗生物質の使用は危険である事、そして昔猛威を振るった悪性インフルエンザ
(スペイン風邪)におけるインフルエンザの恐ろしさと対策等をまとめた。

忙しい人のために、最重要の注意点をまとめておく。
1.「弱毒性」に安心してはいけない。
  感染を繰り返す中で死亡に至る「強毒性」“悪性”に転化する可能性がある。
2.「弱毒性」の内に、早めに感染して抗体を作ったほうが安全かもわからない。
  夏場には、一旦流行は治まると予想される。しかし秋口からの再発が恐ろしい。
  秋口には、新型用のワクチンができるだろうから早めに接種すること。
3.感染を早期(36~48時間以内)に発見し、抗ウイルス薬:タミフル、リレンザ等を服用。
  日頃、体力に自信があっても細心の注意を払って、窓口に相談し早期治療。これが大切。
  体力に自身があるから少しの風邪位と甘く見てこじらせると大変なことになる。

DSC090518鯛焼.jpgこのところ合唱で忙しい。昨日も演奏会があり、3日間連続での練習、
リハーサル、本番と続いた。今週もまた、金・土・日と練習、リハーサル、
本番、その上に、5/25の週は上京。家に戻るのは月末になる。
こんなにスケジュールが込み合うのは滅多にない。そんなこんなで、
先週の万歩記録も低空飛行、週間目標をギリギリクリアという状況だ。
昨日から始まった今週も厳しい。今日は、上天気という環境と
上京の切符購入などの用件もあって張り切って散歩した。
写真は、倉敷名物の餅入り鯛焼とクリーム入り鯛焼。美観地区近くの
日航ホテルの裏手にある。観光地区ではないが知る人ぞ知る穴場である。如何なものか。

近況・’09/5 [大家族]

Ryuは野球の新チームで最上級生になりキャプテンになった。守備はキャッチャーだが、
最近はピッチャーもやって、打者でも決勝打を放って大活躍だそうだ。200905140コウタロgolf1.JPG

コウタロウは、つい最近、ゴルフ道具を購入した。(左の写真)
写真は逆光になって写りが悪いが、ブログ掲載用ということらしい。
孫とラウンドできる望みが出てきた。
しかしそう云ってやったら、娘から「ゴルフはパパと交流のため。
ラウンドできるのは先の事だから元気で頑張って!」との事。
こちらは体力も技術の下降一方。コウタロが上達してしまったら惨め。
石川遼のようにうまくならない内に回りたいものである。
20090508花.jpg20090516万歩計.jpg
母の日からだいぶ経過したが以下の写真は子供たちからのプレゼント。まずは花。
毎年、贈ってくれるが、妻だけではなく、祖母にまで贈ってくれている。
次は、万歩計。父の日を先取りして妻と私とペアである。3軸(3D)加速度センサーなるものを使って取り付け方に関係なく計測してくれるという。その他、様々な機能を備えた優れものである。妻は、取付け方にうるさい従来品を使っていなかったが、3D仕様というので張り切って持ち歩いている。ストラップ付というのも気に入ったらしい。私も愛用品と並列使用して、使い勝手を確認しているところである。4129_bhitachisir250_1.jpg

最後は、常陸牛。茨城県の指定された生産者が飼育した但馬牛を素牛とする肉専用種の黒毛和牛。その黒毛和種の牛のうち、食肉取引規格において歩留等級AまたはB、肉質等級4以上に格付けされた牛肉の銘柄、という何やら厳しそうな規格に合格したものらしい。能書きが立派なだけあってなかなかの味であった。如何なものか。

米国留学少女物語・E [物語]

捨松は、大正8年(1919)、当時大流行の悪性インフルエンザに感染。2月に逝去。
日露戦争の少し前に日本を訪れ、2,3週間東京に滞在した大学時代の友人が書いた捨松への
追悼文には、“来日中の忌憚のない意見交換における捨松の見方・考え方を賞賛し、社会を
良くする為に公の指導者となるべきだった。”と書いていたという。
捨松は、政府高官の妻として、日本社会における地位を確立したが、日本的な因習に縛られて
米国留学の成果を活かした彼女本来の能力を発揮できなかった。

捨松を中心に米国留学少女の生き様を追いながら、文明の衝突について考えた。
明治(1868)から第二次世界大戦終戦(1945)までの約80年間を1つの文明衝突の物語とし、
その起承転結を大雑把に考えると、起:明治維新(1868)~大日本帝国憲法発布(1889)、
承:~日露戦争講和(1904)、転:~金融恐慌(1927)、結:~第二次世界大戦終戦(1945)、

こういう流れの中で、捨松の生き様、漱石の講演での言葉を思い出すときに、文明の衝突が
人間の心の中に深く沈潜し、一般には最早、問題は解決されたかに見えたときこそ深刻なこと
がわかる。捨松は米国流の科学的・合理的な、そして助け合い分かち合う社会へと日本を導き
たかった。だが欲望のタガを緩められた人々は更なる豊かさに向かう。
そして日清・日露戦争で勝取った一等国によって満足することもなかった。
大正ロマン時代もまた大部分は偽りの開化であって漱石のいう内発的開化ではなかった。

余談になるが、第二次世界大戦終戦後の経過が、明治から大戦までと非常に似ていると思う。
それを起承転結であらわすと、起:日本国憲法発布(1946)~東京オリンピック開催(1964)、
承:~日本株価最高準バブル全盛(1985)、転:~世界金融恐慌(2008)、結:?
東京オリンピック開催は、日本の一等国復帰に等しい慶事として国民が熱狂した。
いわゆる「三丁目の夕日」時代の終焉である。近代的な電化製品や文化住宅が大量生産され
その後、世は総中流社会と勘違いするほどに未曾有の繁栄を誇った。
我々は、承:の段階でまたしても内発的開化を忘れて、ブレーキを踏まない電車に飛び乗った?
そして、転:の段階、すなわち“バブル全盛”を受けて、それを赤信号と受取っただろうか。
小泉改革で転進できるかと思ったが金融危機で消えかかっている。今こそ、さまざまな雑音に
惑わされないでうわ滑りではない内発的開化をすべき時だと思う。如何なものか <完>

米国留学少女物語・6 [物語]

20世紀初頭、捨松は大山巌(天保13年(1842)-大正5年(1916))と結婚して約20年。
夫・巌は、近代兵器開発・製造の国産化を目的に明治4年から10年間のつもりでスイス留学。
国内政情不安のために実際は3年間。その後、西南戦争などを経て順調に昇進。
明治13年(1880)~明治24年(1891)大山巌は陸軍大臣。その翌年には、また復帰。
日清戦争では陸軍大将として活躍。明治32年(1899)勅命で陸軍参謀総長(巌58歳、捨松40)
捨松は様々な文明の衝突で苦しんだが、政府高官・巌の妻として日本の近代化に尽くした。

明治35年(1902)1月 日英同盟協約締結 ロシアとの関係悪化
明治37年(1904)2月~明治38年(1905)9月 日露戦争 明治37年・巌63歳
日露戦争において大山巌は勅命で陸軍元帥として満州軍総司令官に就任。日本の勝利に貢献。
大山捨松も、銃後の守りにおいて獅子奮迅の活躍をした。大山夫妻は明治時代の日本の発展に
大きく貢献した。その事は大いに評価されてしかるべきだと思う。拙速すぎたことによって
後に、大きな文明の衝突を起こしたことに幾許かの責任はあったとしても、人間というものが
不完全なものである以上仕方がない。大山巌は、軍人として政治への関与を極力避けた。

明治41年(1908)4月 巌・捨松夫妻の長男高は軍艦「松島」の事故によって艦長以下数百名
と共に海の藻屑となった。その中には捨松らと一緒に米国留学した繁子の長男武男も居た。
大正4年(1915)4月 巌・捨松夫妻の次男柏の結婚式、花嫁は近衛篤麿公爵長女・武子
 武子が大山柏との結婚を決意した時に、周囲から、小説「不如帰」を持ち出された。
 姑の嫁いびりの心配をされたというのである。後に大山家の人となった武子は、捨松の事を
 小説とは全く違った暖かい包容力のある人で、自分は本当に幸せものだ、といっている。

時あたかも大正浪漫時代、庶民が欧米的風物に親しみだした事もあると思うが、帰国後20年余
の年月が、捨松を西欧的なマナーと日本的な作法を兼ね備えた才媛に成熟させたのだと思う。
1917(大正6年)に書いたアリスベーコンへの手紙で、“近頃の若い娘達は欧米の教育の
良い所を学ばないまま、日本女性の最も良い所を失って残念に思う。”と書いている。
何時の時代にもある老人の繰言か?福沢諭吉の「文明論の概略」に、“国内の兵乱は治まったが
日本人の心の騒動は治まらず、今後ますます持続する勢い”と書いてある。福沢先生や捨松の
恐れは“心の騒動”を騒動とも思わず日本人の良い所を失っていく事だろう。如何なものか。

米国留学少女物語・5 [物語]

前回の年譜はアリスベーコンの第一回目の日本滞在:明治21年6月~明治22年(1889)8月
までであったが、先走って「不如帰」の話まで入ってしまった。少し年譜の順序を追う。
明治26年(1893)4月 先妻の長女・信子(「不如帰」ヒロイン・浪子のモデル)三島家と結婚
 風邪をこじらせて起き上がれなくなった信子を、三島家では療養のために里帰りさせた。
 結核の疑いもあるとのことで里帰りは長引く。翌年になって、三島家から離縁話。
明治27年~28年 日清戦争 大山巌、信子の夫、共に戦争に行った。
明治28年(1895)9月 信子・正式離婚成立 その前、大山夫妻・信子は揃って関西方面に旅行。
明治29年(1896) 5月 信子は20歳の若さでこの世を去った。
明治31年暮~明治32年(1899)5月 徳富蘆花「不如帰」 国民新聞に連載

信子の悲劇は、やはり文明の衝突という側面があると思う。伝染予防のための捨松の行為が
多くの使用人や周囲の人々、そして信子自身にも冷たい仕打ちと写ったかも分らない。
そして昨日も書いたが、信子の離婚には、信子自身というよりも、捨松仕込みの合理思考が
災いした可能性がある。信子の結婚観も捨松の影響がうかがえる。当時の慣習からいえば
結婚3ヵ月で長期里帰りするとなれば、実家の方から一旦破談を申し入れる位の気配りが要る。
それを当然の事の様に長引かせたことが、家風に合わないと判断された気配がなくもない。
捨松の後半生を見るときに、「不如帰」によって、世間の冷たい視線を浴びたことが、彼女の
人生観を修正したというか、日本社会の習慣に自分を合わせて行ったように思われる。

明治33年(1900)4月 アリスベーコン、日本の女子高等教育向上のために再来日
明治33年(1900)9月 塾長・津田梅子の女子英学塾開設、捨松は顧問になった。
明治35年(1902)4月 アリスは塾が軌道に乗ったのを見届けて日本を去った。
明治36年(1903)4月 女子英学塾 新校舎において第一回卒業式 梅子・40歳、捨松・44歳

津田梅子の女子英学塾は、経済的に苦しい中で寄付に頼って新校舎建設に至ったという。
3年間で集まった寄付金総額、1万1千円の90%がアメリカからのものであったという。
ともあれ、明治4年に幼い少女達が米国に長期留学し、米国で育んだ人脈から多大な支援を
受けながらも、古い体質を乗り越えて、日本女性の高等教育を自力で進めた事は
文明の衝突を活かした大変な功績であり、日本人の誇りである。 如何なものか。

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