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雨にも負けず [希望]

私の日常の一端を描写した雑文を書いた。このところ好天続きで、相応しくないが、
宮沢賢治の有名な詩からヒントを得て作ったものである。

“雨にも負けず毎日 散歩をし 風邪にも負けず毎週 合唱練習をし
寒さに弱いが 夏の暑さには負けぬあまり病気をしない体を持ち
ゴルフに欲はなく たまに練習に行く程度で 同伴プレーヤーからは嫌がられるが
気にもせず そしてもの忘れが多く認知症の疑いがある”

ここまで書いて、宮沢賢治大先生とあまりに大きな違いがあることに気付いた。
私は自分の心配はしても東西南北、あまり人のことを心配していないのである。周囲の人々に
関心を向けていないという表現でも良いだろう。それに対して、賢治大先生は自分のことは
粗衣粗食で勘定に入れず、生病老死などに苦しむ人々を東奔西走して助け、旱魃や冷害の
心配をして対策を練る。それでも、褒められなくとも、苦にされないという感謝の気持で、
そういう者になりたいと言い切っている。無償の愛である。

私のような凡人にはそんな立派な事はできないが、そこから学ぶべき事は何か?
それは、無関心は “愛” の反対語であることを思い出して、自らの身辺を省みること。
人は不完全だから、反省のない人間は、どんどん偏った考え方に固まってしまう。
様々な事象から学ぶべきことを抽出して、わが身を省みることが大切だと思う。
この場合でいえば、何も遠くの人や、関係の薄い人に関心を寄せる必要はない。
身近な人、親や兄弟、子供や親戚など、また友人、知人も、意外と自分中心的関心のみで
相手の立場に立った関心を払っていることは少ない。

相手の立場で考えている配慮も、往々にして自分勝手な当て推量や決め付けで、
本当の相手の気持に沿った配慮でない場合も多い。
勿論、自分がそのような経験を持った場合には、相手の勘違いを責めるのではなく、
感謝することが大切である。 人への関心・配慮は難しく、賢治もデクノボウといわれ
褒められもせず、と言っている。 人への関心・配慮は欲得だけではできない?
如何なものか。

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イチローに思う [社会]

PN2009041601イチロー.jpg写真は米国時間15日(日本時間16日)、エンゼルス戦の7回右越え
に日米通算3085安打となる満塁本塁打を放った時のマリナーズ
イチロー外野手のもの。張本勲氏の日本プロ野球記録に並んだ。
数々の快記録を更新しているイチローに今更付け加える事等ないが
この機会に書きとめておきたいことが1つだけある。

それは、MBL移籍のシーズンオフ、野球評論家がイチローの
移籍に対して婉曲な言い回しであったが否定的な見方をしていたことである。
大リーガー達からみて細身のイチローに、野手としてシーズン中に連続出場できるかどうか
さえ危ぶまれていたのである。私もその予想にはなるほどと頷いた記憶がある。
その予想をはるかに上回ってイチローがMBLに移籍した2001年から200本以上の安打を量産
し続け、張本の最多安打記録に並んだのである。しかも満塁ホームランで決めたという。
もはや、イチローは “神格化” されつつあるだろう。そうされて当然なのかもしれない。

年々歳歳、能力を更に引出し、さらに野球が好きになり、自分の全生活を野球にかけること等
人にはなかなかできない。だから民衆が勝手に神格化するのだが、そういった流れに関しては
あまり望ましいこととも思われない。
私は、王やイチローをはじめ、古今東西の偉人、達人、賢人の偉業に魅せられ憧れる
のではなく、彼らの “志” から何を学びとるかが大切だと、いつも思っている。

そんなことを思っていた矢先、十勝で牧場をしてチーズや生ミルクキャラメルで成功した、
タレントでもある田中義剛が “徹子の部屋” という番組にでていて十数年前の録画を振返り
自分の半生を物語っていた。なかなか良い話に感心した。 それで彼のことをネットで検索
してみたら、結構、悪口を書かれていた。誰にでも欠点はある。こういうのを読んでいると
思い過ごしかも知れないが、“出る杭を打つ” 日本的な狭量さを見る思いがする。
それで、イチローの悪口もあるのだろうかとネットで検索したら結構でてきた。
但し、内容に具体的なものはあまり見当たらず、実態の明らかではない“イチローの悪口”を
弁護しているのが多かった。神格化対象に格上げされると、“出る杭” ではなくなるようだ。
一般成功者とイチローとの間には、「神格」 という大きな溝がありそうだ。 如何なものか。

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文化資本・3 [希望]

090416中孝介.jpg今朝のTVを見ていたら中 孝介(あたり こうすけ)という奄美大島
出身の男性歌手が出演していた。琉球大学社会人類学コース卒業
奄美民謡大賞新人賞、日本民謡協会奄美連合大会・総合優勝等
の実績もあり、かつポピューラーソングでも大ヒットしてメジャーに
なっているらしい。8年位前、妻のコーラスの先生がまだ無名時代の
あたり君と競演したことがあるという。
今も奄美大島在住で、島お越しにも力を入れている。

あたり君もまた、文化資本を活かした生き方をしている人だと思う。有名になった多くの人が
中央に進出して地方文化から抜けてしまうが、本当の地方分権、地方中心の多様な社会を築く
ためには、あたり君のような人がどんどん出てこないとだめだと思う。
東国原知事や橋下知事がどこまで地方文化に理解と関心があるかはよく分らないが、
文化資本を活かし、素晴らしい方向に蓄積するように努力してもらいたいと思う。

日本において「文化」というものが、特に庶民的な階層でなおざりにされてきた傾向があるが
それは “資本” あるいは “資源” といった役に立つものというよりは、「抑圧」 と受け取って
いたためである。「抑圧」 と受け取っていたのは、アメリカ人に対して日本人についての偏見
を取り除くために書かれたというルースベネディクトの 「菊と刀」 という本が、著者自身の
予想をはるかに超えて、今もなお読み継がれていることでもわかる。

「文化」を抑圧や束縛と受け取るのは、文化資本が知的資本と同様に、権力闘争や経済競争の
道具として、組織の決めた通りに遂行することを強制されるという側面があるからだ。
職業に自由業もあれば、組織に属さなければならぬ職業もある。自由業でも、例えば芸能人等
は、下世話では学校のクラブ活動の体育会系よりも酷い厳しい規律があるとも言われている。
弁護士には弁護士会、医師には医師会、何処に行っても組織はついて回る。

どんな社会になってもどんな組織でも、文化は存在し続ける。自分達の文化がごろつき文化、
テロ組織文化になるか現在よりも更に素晴らしい文化になるかは、一人一人が文化から逃げず
文化に関心を寄せ、批判的に学び、文化を分かち合う心だと思う。 如何なものか。

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文化資本・2 [希望]

NHKの大河ドラマや朝のテレビ小説を日本人のマインドコントロールのためのもののように
書いたのは言い過ぎかもしれない。人それぞれの感性があり、それぞれ異なった受け取り方を
するのだから、一様な文化資本蓄積にはならないだろう。知恵深い穏健な国民を育成するため
の様々な情報提供は、ある種の偏向があるといっても、権力のために必要な施策で、必ずしも
否定すべき問題ではない。それを即、文化資本の多様性を尊重していないというのは的外れ?
であり、現代の政治的世界ではいまだ近代思想で運営していかざるを得ない状況なのだろう。
しかし現代思想で明らかにした事も見据えた文化資本政策を考えなければならないと思う。

“文化資本”という用語はピエール・ブルデュー(1930-2002)の造語で、支配階層の文化資本
(支配階層の中での派閥闘争のための差別化)を主体的に論じている。しかし私は日本には、
階級闘争とは関係なく庶民にも庶民の文化資本があるし、諸外国にも同様の文化資本はあると
思っている。度々引用させてもらうが「納棺夫日記」の著者・青木新門が周囲の文化的軋轢を
乗り越え、納棺夫文化を創造したのは、決して支配階層的文化資本ではないだろう。
その社会の支配階層の文化だけが、その社会の文化でない事は明らかであり、多様な文化を
許容する社会が求められている。

私はレヴィ・ストロースが日本に来た時の講演集「構造・神話・労働」で、彼が
「欧州では近代化の時に過去との断絶をしたが、日本が他のどの国よりも自らの過去の文化を
破壊することなく近代化を達成したのを自分の目で見ることができた」というのを読んで、
意外な感を受けたが、もしもそうだとしたら、日本では、中流やそれ以下の庶民階層では、
支配階層と異なる文化資本を引き継いでいるからだと納得したのである。

現代思想は、文化資本問題の本質に迫ったところに意義があると思う。人間の長い歴史の中で
西欧自らが自分達の文化資本のからくりを暴露した事は、他の文化圏が西欧一辺倒の考え方で
はなく、独自の文化資本に自信を持つ大きな動機になると思う。勿論、だからと言って、即、
民族主義になるということではない。独自の文化資本に自信を持った協調外交や内政が必要な
のだ。いつまでも欧米思想を振りかざして未だに社会闘争にお熱を上げているのは時代錯誤も
甚だしいと言わざるを得ない。やるなら日本的文化資本を駆使すべきだ。 如何なものか。

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文化資本 [希望]

昨日はチョッと大河ドラマや似たようなTV時代劇を批判的に分析することを試みた。
娯楽TV番組を楽しんでいる人を、文化貧民と呼んでいるような誤解を与えたかもしれない。
私もご承知の様に娯楽ドラマを楽しんでいる一人であり、そういう風にとられたとしたら、
私自身も文化貧民の一員である。
私が昨日言いたかった事は、国策的ドラマ(例えば大河ドラマや朝の連続テレビ小説)は、
ある種の文化資本(家庭や社会がもつ文化的能力や文化財)を、画一的に、個人や家庭に
蓄積する活動ともいえるのではないかということだった。

文化資本の画一的刷り込みは社会統制上便利なのかもしれない。だがやりすぎると身についた
文化資本を持たない人々があふれて経済的格差以上に深刻な社会問題に発展すると思われる。
現代の日本は個々の文化資本に注意を払っていないと思う。 西欧近代思想の残渣で、
何らかの正しい文化資本というものがあり、間違った文化資本は不要という考え方が強い?
現代の人間は皆、一度も絶やすことなく文化資本蓄積を継続してきているはずである。
文化資本は一朝一夕に生み出したり、変化させたりできるものではない。
そのような視点に立って、多様な文化資本を許容する施策が必要である。

小泉改革が格差社会を生み出したという話があるが、経済的格差よりも、文化資本格差の方が
深刻なのではなかろうか。文化資本が、画一的に上流指向になり、本来的に各家庭に存在して
いた文化資本が、資本としての用を為さなくなり、文化資本という精神的拠り所を失っている
のではなかろうか。
青木新門著「納棺夫日記」を読むと、旧家に生れた日記の主人公は、戦後の農地改革等で没落
しながら納棺夫として生きる誇りを見出していく。彼には、世間的な目を跳ね返して、周囲の
人々との文化的軋轢を克服していく文化資本(身体化された)があったのだ。

自己の文化資本が否定されるのは、大きな精神的暴力であると思う。そのような暴力に負け
自己の文化資本を否定した人々が、貧しい文化資本の再生産をしているといわれている。
しかもそのことが、本人や子供たちにとってはほとんど意識されることもなくなっている。
そういった文化資本の側面について、社会的に十分考慮されていないがための様々な誤解や
間違い、失敗による悲喜劇があるのではなかろうか? 如何なものか。

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天地人15 [物語]

kanetugu_ph0'3.jpgNHK大河ドラマ「天地人」も昨日で15回を終え、約1/3を経過したことに
なる。9回(3/1)の放送で謙信が死去して以来、長々と続いた景勝(北村
一輝)と景虎(玉山鉄二)との跡目争いもようやく決着がついた。
「NHK大河ドラマ歴史ハンドブック」に掲載されている同時代年表による
と、天正6年(1578)から翌年にかけて、兼続19~20歳(妻夫木聡)の
出来事ということである。年表その他の様式を実しやかに備えると
いかにも歴史的な事実のように見えるが、それらの真偽も含めて、
飽くまでも物語である。しかし、それを承知の上で、大河ドラマは
ある種の共同幻想を刷り込んでいる。

今まで、様々な大河ドラマで、歴史上の人物を取上げてそれぞれの物語が語られてきた。
それらは当然史実ではない。ある種の人々が作為を持ったか、持たなかったか分らないが、
ある種の情熱を傾けて描いてきた。それ以外にも民放テレビ、映画などでも時代劇などが
製作され観客を動員した。“信長”“秀吉”“家康”“宮本武蔵”“明治の元勲”をはじめ、
「水戸黄門」「大岡越前」のようなものまで含めるとキリがない。こういった情報が繰り返し
て流され、それらをある種の娯楽として受け止めている我々のような人間は、知らず知らずの
うちにそれが一種の常識となる。実に恐ろしいことである。

例えば「天地人」では、景勝と景虎のどちらに“義”が有るのかは明らかでないが、跡目争い
の泥沼の戦いを、兼続を通してみていると、何となく景勝に“義”があるように思えてくる。
日本人は“判官びいき”というが、それは義経の側から描いた物語だからである。
簡単に言ってしまうと、NHKという国営テレビは、兼続という人間の価値観を正しいものと
して視聴者に刷り込みたいわけだ。兼続と彼を取り巻く人間模様をベースにした全く夢空間・
現実離れした状況で、現実離れした価値観を創造し、故意か過失か、刷り込んでいる。

大河ドラマ等が相対的に小さな存在となり、庶民の判断を狂わせる低劣な番組を含めて、
種類が豊富になり選択範囲が広がったのは、現代思想の影響かもしれない。
さてそれで低劣なテレビ番組等をみている人間は文化資本蓄積がない文化貧民という事に
なるだろう。日本は文化貧民を慰安する優しい社会?  如何なものか。

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日本の現代思想_2 [希望]

午後の合唱練習の往復を散歩に当て新ルートを開発した。今日も好天で散歩も真夏と変わらぬ
服装なのに汗をかいた。合唱仲間との雑談でも、寒さから暑さへと急変して夏が来たようだ
という話になった。 年々歳々、春や秋の期間が短くなっているような気がする。
今日はキリスト教徒の最大の祝日 “復活祭”。キリスト教に縁のない人は関心もないか?
祝日を決める手続きで大昔もめて、年によって日付が変わるらしい。そのせいか、それとも
キリスト教徒に失礼だということなのか、バレンタインデーのような騒ぎにはならない。

さて、昨日仲正昌樹の「日本の現代思想」を読んで褒めちぎったが、現代思想とは何かという
事は、良くわからないのである。色々な解釈があるという形で納得するのが現代思想?
それは兎も角、内容から受けた感じは、現代思想が、現代の混沌とした世相を読み解いたかの
ように見えるのだが、それは、著者の主観に過ぎないような気もするのである。
「歴史の終焉」という見方もあって、大きな物語はもうできないかのような書き振りであるが
それは、現代思想が、混沌とした状況の説明迄しかできない程度の未熟な段階ないのでは?と
疑いたくなる。 流行受けする、金儲け主義的な領域に群がっているだけの話ではないのか?

構造主義と呼ばれる人々の一連の仕事によって、西欧的な思想が、汎世界的なモノではなく、
西欧的共同幻想であり、いわゆる民族主義的な産物に過ぎないと言うことを明らかにした事は
素晴らしい業績であった。そしてマルクス主義から発展した共産主義国家も汎世界的な存在
ではなく、単なる国家的幻想に過ぎない事が証明された。そして同様に資本主義国家も、
単なる国家的幻想に過ぎないのである。 ただ、資本主義の方が、包容力があって、
日本などを含め民族的あるいは国家的共同幻想の異なる多くの国家を内包している。

私は、個人レベル、地域共同体レベル、行政自治体レベル、国家レベル、国家間レベルなど
様々な共同幻想があってよいし、政治形態があってよいと思う。 いわばアメリカ連邦形式で
ある。アメリカ連邦の州毎の政治形態はかなりと異なる。全組織で共有するような共同幻想も
あれば下部組織に特有の共同幻想もあるだろう。そのような異なる共同幻想を纏め上げるのが
なるべく力の介入なく秩序維持ができる政治、経済、社会システムである。
各レベルの共同幻想が、その上位レベルの秩序維持を可能にするものであれば、上位レベルは
直下レベルの異なる共同幻想を受入れ可能なはずである。従って大きな物語は可能だと思う。
多様性を許容するグローバリゼーションという大きな物語というのは、 如何なものか。

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日本の現代思想 [物語]

DSC090411.jpg仲正昌樹著 「日本の現代思想」 という結構硬い本を久しぶりに短時日で
読み通した。良かったのは、日本や欧米の著名な人物の思想を、著作を
引用して、要領よく記述していることである。日本人一人で、これだけ
広範囲の現代思想を分りやすく解説した本を寡聞にも私は知らなかった。
解説内容にどれ程の妥当性があるかはおいて、少なくとも私の知る範囲
では、目くじら立てるような問題はあまりなかった。
おかげで大変勉強になった。勿論、郵便的不安はあるかもしれないが。

ただ気になることがある。それは博学多才な著者があとがきに書いてある
私的見解の独善性である。アラフォーからは抜け出した程度の若さの故か、ポストモダン思想
のなせる業なのか知らない。私は読み終え、結局、知の系譜というのは、ものごとを理解する
助けにはなるが、その成果に対しては何の保証もないということを再確認した。
人間は不完全な動物である。人間は一度にすべてのことを感受しえない。五感はすべて生体的
な制約がある。無念無想の無意識層に降り立ったからと言ってすべてがわかるわけでもない。
どれ程知能程度が高くとも所詮パンツをはいたサルである。一種の幻想に生きざるを得ない。

我々人間は、すべてを理解しているつもりにならなければ承知できない。だから郵便的不安の
ような誤配送、誤伝達問題が起こる。そういう未熟な人間がここまで繁栄してきた事に対して
まず感謝することから始めようではないか。保守だ革新だと争うのも、さらに素晴らしい社会
にすることであり、素晴らしい人間になることが目的なのだろう。日本人が仲正昌樹のような
知的レベルに達した事に私は感謝の気持ちでいっぱいだ。知的レベルを生かすも殺すも日本人
のありようであり、個々の人間のありようである。

我々人間は、何の教育も受けないで必要な知識や言語能力や運動能力が授かるわけではない。
人間は地球上に人間の子として生まれ、社会の中で育てられ生きていくのである。その社会に
は共同主観性や共同幻想が介在しなければやっていけないのだ。そういった共同性を歴史的な
個性と共同体の幸福とを勘案しながら、広がる世界との共同性ネットワークの樹立なくしては
安定的社会は築けない。その過程で様々な離合集散、戦いがあろうとも、独善的暴走は許され
ない。小さな物語を集積した大きな物語を語るためには地道な活動が大切だ。如何なものか。

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公論への道 [社会]

今日発売の “文芸春秋” ①「総理の座を目前になぜだ? 検察がつかんだ疑惑の核心とは
司法の正義か、政権交代か 小沢一郎の罪と罰」 という立花 隆/村山 治の対談記事と
②「子供の政治が国を滅ぼす 検事達のあの傲然たる表情は何を物語るのか」 中西輝政の記事
を読み、それぞれのご意見をご尤もと感じながら2つの記事の元になる思考構造を分析した。

どちらの記事も小沢一郎問題を題材にしている。①の記事(以下、「罪と罰」)”では、政治家、
検察、世間の三者におけるズレを検証しながら司法制度改革、政治資金改革そして政治家
自身の自己改革という観点から問題に迫ろうとしている。必ずしも成功してはいないが。
②の記事(以下、「子供の政治」)では、日本の民主政治に関する国民の「公論」という立場
で小沢問題を論じた。これは、著者自身が感じている日本(日本人)の民主政治というものが
西欧諸国等に比べて幼稚だという事を、事例を挙げて解説し、現代日本人の共同幻想の危険性
を警告している。

2つの記事には、重要な相違点がある。「罪と罰」では、現状の日本には個々の問題は有るが
それらの問題に取組みながら対応していくしかないという立場に立っている。     
一方「子供の政治」では、精神的な安全装置を回復させない限り第二次世界大戦的悲劇に襲わ
れる。精神的な安全装置を回復させるためには政治家、マスコミ、国民が精神、価値観の面で
深く成熟する必要があるという。 どちらが本当なのか? それを見分ける方法はあるのか?

私は、ここでボードリヤールの「消費社会の神話と構造」という本を思い出す。
消費社会を真正面に非難する事が世間の反感を買い陳腐なパロディとなって結局、消費社会は
更に強力になるという。 世間の求めているもの或いは考え(共同幻想)を、否定するような
言説は、結局、受け入れられず、それが本当でも、狼少年になってしまうと言うことだ。
今の若者達にどれほど、「文芸春秋」が読まれているかも問題である。 このような記事や
それにまつわる意見なども、すでに化石化した神話になっているかも知れない。

そのような観点からすると、「子供の政治」議論は、一部の悲観論者の賛同は得ることができ
ても、世間を巻き込むことは難しいように思う。まだ「罪と罰」の議論の方が入り込みやすい
のではないだろうか。 大衆受けを狙うのではなく、正に「公論(社会全体の議論)」へと
発展させられるような問題提起が必要なのではなかろうか。 如何なものか。

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花祭り散歩 [散歩]

DSC090408桜.JPG今日は花祭り。御釈迦さんの誕生日だそうだ。
さて今日は十日ぶりに妻がご帰館。駅までお出迎えの後、
酒津貯水池へ花見に行った。もう夕方の4時頃だったが、
快晴で柔らかい日差しに照り映える桜が美しかった。
上の写真は、池の対岸から東に向かって撮ったもの。
下の写真は、満開の桜を背負って立つ年齢不詳の美女。
西日に映えて輝く桜を背景に土手の中腹から撮影している。
DSC090408桜m.jpg
いろいろと、子供や孫の近況を聞けた。
その中で最も興味を引いたのが、娘の物忘れの出来事だ。
いつも朝は忙しいからか、何か忘れ物をして引き返すらしい。
最後の今日も直前に上着を取り替えたために、定期と財布
両方とも忘れて、駅まで行って気付いたとのことである。

それを聞いて、何か少しホッとした。なぜかというと、
一人暮らしが三日以上 長引くとボケてくるような気がする。
あまり人と話をする機会がないためか、物忘れがひどくなる。私もそろそろヤバイのではと
心配していたが、娘がそうなら、私がボケても当り前だと、変な所で自信がついた。

忘れ物をする理由をこう考えたからだ。
娘が忘れ物をするのは、認知症ではなく、何かに心が囚われているからだろうと。
私の場合も、一人暮らしだと、何かと気を配らなければならない。
従って、何かに心が囚われているからではないかと。

私が忘れ物をしてもっともガッカリしたのは、散歩携帯のカメラのメモリ入れ忘れである。
いざカメラを構えて撮ろうとしたら警告が示される。それを今回は一度ならず2度もやって
いささか、自信をなくしていたのである。認知症を疑った根拠はある。最近の我流筋トレだ。
やりすぎて脳血管性認知症 になりそうなのではないか?  如何なものか。

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