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利と義と・5 [希望]

今夜9時過ぎから、NHKの“プロジェクトJAPAN プロローグ 戦争と平和の150年”を見た。
この放送では開国以来の150年を振り返り、日本が世界平和の構築にどのような貢献ができる
のか歴史から教訓を探るというものだ。この放送を見て5たび 「利と義と」を 書きたくなった。

「天地人」における“義”とは、正義を見失った戦国末期の社会秩序の再構築ということだ。
しかしこれを巨視的に見れば内乱であり、それぞれの陣営の“利”の争奪戦とも受け取れる。
現代におけるアジア、アフリカ、中東などの難民問題も、内紛が原因のものも多い。
そのように対比してみると、歴史的に日本が自らの“利”を追求し、その利潤によって施した
産業と教育の成果が、現代の日本国内における社会秩序を作り出していることが納得できる。

さて目を国内から、国と国との“利”または“義”の対立に向けて見ると、国際社会的秩序は
必ずしも整っているとはいえない。 何故なら国家を跨った国際社会の“義”即ち秩序とは
何か?ということが明確でないからだ。国連改革に熱心だった第6代国連事務総長の放送での
話では、国家主権、文化的ナショナリズムが今なお健在であるためだと仰っていた。同感だ。
私は以前、長い歴史の中で育まれてきた多様性を推進し、決して同質性を強要することのない
「世界の秩序化」としてグローバリゼーションという概念を2009-02-11建国記念日のブログ
紹介したことがある。我々は、この150年の歴史から、いや上杉謙信や直江兼続からの400年の
歴史から、 “多様性を推進する世界の秩序化” を “義” として学びとる必要がある。

利と義の問題で避けて通れないものとして、「武力」 「暴力」 がある。
降りかかる火の粉は払わねばならない。そこにどうしても活動「力」が必要になる。
アメリカにおける銃器所持の自由に関しては、こういう観点から認められている。
国内の社会秩序を守る場合でさえ、人を信用できるか、できないか?で違いが出てくる。
増してや、国家単位となれば、無法者国家もあることだし、丸腰というわけにもいかない。
しかし放送内で、“国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決
する手段としては、永久にこれを放棄する。” という憲法9条が世界で意外と評価されている
という扱いがなされていた。 巨大なエネルギーを簡単に扱えるようになった現代、核爆弾は
正に武力による威嚇以外の何ものでもない。 全ての国が核爆弾を放棄し、国際司法裁判所と
国際警察によって “世界の多様性推進の秩序化” を達成できないものか? 如何なものか。

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