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日米PGA余談 [歴史]

昨日の記事を書くに当って、ネットで知った興味ある事柄を書きとめておく。
◎ 全米プロゴルフ協会(PGA)の創立は、1916年(大正5年)である。
  年表によると、この年、アインシュタインが「一般相対性原理」を発表した年である。
  この年の4年前に、サム・スニードとベン・ホーガンが生まれた。
  時代が人を創るのか?人が時代を創るのか?いずれにしても
  この二人の巨人が、アメリカのゴルフ隆盛の基礎を築いた事だけは間違いない。

◎ 日本プロゴルフ協会(JPGA)の創立は、1957年(昭和32年)である。
  年表によると、この年、日本に初めて原子炉の火がともされたという。
  それまでは、日本ゴルフ協会(JGA=1924年創立)がプロゴルファーの指導、管理を行い、
  関東と関西に地区プロ協会を組織させている状態だった。
 * 青木 功 (1942年 - :日本ゴルフツアー通算勝利数51勝は歴代2位)は、奇しくも
   1957年、中学卒業と同時に東京都民ゴルフ場にキャディとして就職したという。
   通算優勝回数は84勝 <国内57勝・海外7勝・国内シニア8勝・海外シニア9勝・
   海外グランドシニア3勝>
 * 尾崎将司(1947年 - )は、プロ野球から転向。1970年にゴルフプロテスト合格。
   日本ゴルフツアー通算94勝は歴代1位。通算優勝回数は113回
 注)日本ゴルフツアー制度は、1973年から施行された。
 * 中嶋常幸(1954年- :日本ゴルフツアー通算48勝は歴代3位)は、
   JPGA創立の3年前に生まれ、また日本ゴルフツアー制度発足の年・1973年に
   日本アマで優勝。1975年12月にプロ入りというから、JPGAや日本ゴルフツアー
   制度と共に歩んできた事になる。
 米国と同様に日本もまた、AONが、日本のゴルフ隆盛の基礎を築いた事は間違いない。

こうして日米のPGA創立の事と日本のAONを掻い摘んで並べてみると、プロゴルフの歴史が
米国で三年後に百周年、日本では6年前に50周年と、思ったよりも短く感じた。
米国でPGA創立の1916年、アメリカはやっと債務国から債権国になったという。
JPGAの創立は、日本が国際連合に加盟した翌年であり、内実は伴っていなかった?
日本プロゴルフの本格的な隆盛は、日本ゴルフツアー制度発足の1973年頃ではないか?
この年に、オイルショックが始まり、狂乱物価・異常インフレが進行した。
今年はあれから丁度、40年目、また4年先にはPGA創立から60年目の節目に当る。
さて現在の日本の男子或いは女子プロゴルフ界は、前途洋々だろうか?如何なものか
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日本人の道徳の基 [歴史]

気象台のデータを調べると正月の4・5日も低気温だったが、ここ数日、当地の冷え込みは、
今シーズン一番と感じた。温度的には変わらないのだが、風の強さが違っていた。
4・5日頃は最大風速:2.7~3.2m。それに対して24~27日の最大風速:6.0~7.9m。
やはり気温が5.0℃を切ると、風によって体感気温が、大きく変わると思った。

標記の件であるが、西欧人と日本人の道徳に関する対比の文章から始めたい。
以下は、ルース・ベネディクト著「日本人の行動パターン」からの引用である。
1,日本は身分社会。西欧人からは、欲求不満のたまる社会制度と思える。
2.西欧社会では、人々の行動を公共の利益と一致する様に制限できない。
  (注釈:これはトックヴィルの個人主義への批判をルースが引用した。)
3.身分社会でも、他の条件が望ましければ、自尊心と独創性のある人が育つ。

私は個人主義と言うのは、地球が無限に広がっていると考えていた大航海時代の夢物語
から育った間違った思想であると思う。人間が性善説なら良いのかも知れないが。
ルース・ベネディクトは「日本人の行動パターン」の中で、日本人の自己鍛錬や責務体系を
細かに分析している。それが、ストレスとなり、戦争につながったとも読み取れる。

ルースの「文化の型」という著書に、資源の乏しい「ドブ島民」の研究がある。
その最後の文章を以下に抜書きする。
1.ドブ島民は宇宙の悪意という最も悪い悪夢を抑制することなく生きている。
2.全ての闘争は殺人的闘争に見える。疑惑と残酷が闘争における武器である。
3.かれは誰にも憐れみをかけないし、だれにも、憐れみを請わない。

島国という制約のある社会では、自然や人間の猛威を和らげるバッファが少ない。
日本も江戸時代の二百数十年は、ゼロサム社会であった。従って日本人は
欧米人の様に、海外に進出し、教化するという美名のもとに略奪し、自国では
慈悲深い社会を育ててきたのではなく、乏しい資源の中で頑張ってきたのである。
日本の社会は、確かに自己鍛錬や責務体系という形で、窮屈な思いをさせて来た?
しかしそのお陰で、素晴らしい人間的自信と独創性も、慈悲も豊かになった。

マーガレット・ミードは「文化の型」の新しい序(1958年10月)において、「文化の型」が
生き続けるのは「文化の作用についての知識が、かつて知られていなかった程大きい力
によって人間の未来を制御できるという彼女(ルース)の健全な信念」だと書いている。

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日本人とは? [歴史]

戦前の日本は敵国に対して「鬼畜米英」という侮蔑的な呼称を使っていたが、それは
日本人が、第二次大戦の連合国側も、日本を侮辱したと感じていたからだと思う。
その日本の感覚は正しかった。なぜならルース・ベネディクト著「日本人の行動パターン」は、
“西欧の倫理では、過失を犯したものの自尊心を傷つける事は望ましいとされる。
 それによって、罪を受入れる事を学べるからである。”と書いてあるからだ。

「侮辱する事は、反省に気付く機会になる」という理屈だろう。処が日本人は、
「侮辱を晴らすことは悪と見做されず、借りを返す」という道徳規準があるのだと
本書で述べられている。真珠湾以降の日米決戦は、侮辱の借りを返すために行った
止むに止まれぬ戦争だったと言う解釈なのだろう。

本書の最終章は、この西欧の倫理を引っ込め、敗戦における日本の屈辱を和らげ
如何に、日本人の自尊心を守るべきか、という事を熱心に説いている。
この説得に当って、日本人とは、斯く斯く然々の人間集団だから、復讐の鬼にしても
何の得にもならない。また日本人には然々の良い所があるから、これから開発途上国に
対する指針になるだろう、と述べている。

本書が書かれて70年弱を経過し、現代の日本人は、本書を読んでも通じない?
(私の様な化石人間でないと)なぜなら、大きく変わっている様に思えるからである。
しかし、眼光紙背に徹して読むならば、日本人とは?の問いに対する答えも見える?
例えば次の様な記述は、大変興味深いものである。
1.日本の道徳規準は形式的だから、明治政府による方向転換が可能だった。
2.このような状況次第の規準に沿って暮らす人間は、様々な習慣を身につける。
3.もっと絶対的な規準で育った人間(西欧)から見ると、矛盾している様に見える。
4.日本は何処の国よりも生活様式を放棄する必要が少なく、従来の精神と義務を
  ベースに力を尽くし、様々な状況下でも機能する事を証明してきた。
5.日本では、行動の影響について事前に想定し、自覚している為に、責任の所在は
  欧米より徹底している。これは国際関係では短所ではなく長所である。
私は、2012-12-27のブログ「ゆとり教育再考」の中で、道徳や宗教の教育問題を
考え直すべきだと主張した。第二次世界大戦の悲劇を無にしない為に、また校内暴力、
いじめ、登校拒否、落ちこぼれ等の対策の為に、道徳や宗教の問題は大切だ。
独善的でも絶対的でもない道徳や宗教を考える過程、それこそ教育?如何なものか
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誠実と本音の間? [歴史]

昨日に続いて、ルース・ベネディクト著「日本人の行動パターン」の部分的解釈である。
今日は、米国的誠実(sincerity)と日本の誠実「誠」との違いからの感想である。
◎米国的誠実(sincerity)とは、辞書等で引くと、性格の様な一定の状態ではなく
 その時々に変わりうる心の状態を指すらしい。しかしその心の状態が、率直であれば
 即ち嘘偽りがなければ、その人間は、誠実(sincerity)であると言うのだろう。
それに対して、本書では、日本的誠実は、どの様に解釈されているか?
◎日本的誠実の反対の不誠実は、どんなに偽りが無くとも自分本位は、不誠実となる?
 日本的誠実は相手に対する敬意が必要と言う。敬意無く本音を吐くのは不誠実となる?
 日本が、欧米諸国の不誠実を責めるのは、本音と異なる行動を責めているのではなく
 また偽善だと言っているのでもない。敬意のなさ、利害対立を責めているという?

以上を簡単にまとめると、「日本外交は、欧米諸国に対して、感情的な文句を
言っている」という上から目線の大人の態度をとっている、という事だろう。

本書を読んでいると、異文化交流の難しさと共に、その勘所も分かってくる。
簡単にいうと、ある文化が大切にしている概念=プライド(優越感、自負、自慢)を
見抜いて、その根拠となっているモノゴトを明らかにする事である。
この「誠実」に関しては、欧米側が、「誠実」に文句を付けられたと思った訳だ。
一貫性はないかも知れないが、嘘偽りのない対応をしているのに、まるで嘘つき
呼ばわりされていると感じたのではなかろうか?本書では、その誤解を解いた。
欧米側は本音を出した?日本側は敬意を払ったかも知れないが建て前が多かった?
外交上の敬意等は外交辞令?大切なのは、本音による相互理解ではないのか?

本書を読んでいると、70年近く前なのにルース達、研究者一人一人の専門性の高さと、
考察の深さ、そして協働作業の素晴らしさが伺える。
1945年時点では敗戦国と戦勝国だから、上から目線の態度は仕方がなかろう。しかし
第二次大戦敗戦を良い教訓に、異文化交流の勘所を押さえ、大人の国になるべきだ。
それで、現代の日本政府は、欧米始め、中国、アジア、中近東、アフリカなどとの
異文化交流の勘所を押さえ、適切な対処をしているのだろうか?マスコミなどの
解説等を聞いていると、今だ「井ノ中の蛙」、スタンドプレーの専門家は居る?が
組織的チームとして、広く深く研究されているとも思えない。日本は、所詮、
合理的な活動には不向きかも知れない。それなら直感勝負? 如何なものか
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日本のルーツ? [歴史]

ルース・ベネディクト著「日本人の行動パターン」の前半で気付いた事を書く。その前に
本書の背景をまとめておく。本書は日本文化の報告書として1945年に書かれた。
本書は、欧米人の理解しがたい日本人を戦後の復興に向けて指導していく為に、
欧米人に必要な日本文化に関する知識をまとめた入門書という位置付。日本人の行動の
不可解さは、倫理基準がないのではなく、欧米と異なる為だという事を明示した。

「日本人の行動パターン」の前半で気付いた事とは、
日本と太平洋諸島との文化パターンの類似性という事である。
1)“侮辱”に対する「復讐」、「報復」の根強い執着と実行の文化は
  太平洋諸島に共通して見られる文化パターンだという。
2)「聖なる首長」と「もの言う首長」
  日本独特の権力の二重構造は、太平洋諸島で一般的な「聖なる首長」と
  「もの言う首長」の間の役割分担と同じ考え方。
以上の様な日本文化に関する見方は、日本文化が大陸(特に中国)文化からの影響
一辺倒という従来の見方・考え方を、大きく覆すものである。
本書における日本人の倫理体系を解明している内容を吟味していると、
恩と義理、義理と人情、義務と責任等々の倫理的な言葉が、中国の儒教や
キリスト教的倫理とも異なる、日本独自のものであることがよくわかる。

以上の様な情報を考察する事によって、私の心には様々な仮説が湧き出してくるが、
此処では紙数の関係もあるから、ホンの少しだけ書き留めておこうと思う。
1.現代は民主化で心も自由になっているか?
  日本人の多くは、自己の潜在意識に蓋をしている為、無意識の暗躍によって
  増々、束縛される面を持っている。事例・自殺の美化、復讐劇の繁盛etc.
2.国家神道を作った薩摩藩下士出身者の明治政府要人は、無意識の暗躍で遠い
  祖先の文化パターンを国家経営に援用した?(薩摩は太平洋諸島の影響大?)
無意識というのは様々な形で意識の中に浮かんでくる。その時に、それがどんな
ルーツを持つのか?確認できなければ用心する。例えば
自殺を思いついたり、復讐を思いついたりするのも無意識の暗躍である。

日本人は、明治以来、「和魂洋才」と言ってきたが、その前は「和魂漢才」?
日本のルーツは謎だが、縄文・弥生時代の日本列島で発酵した日本人とは、
東洋も西洋も飲み込んで「才」としてしまう様な「魂」を持っているのか?
無意識の暗躍に惑わされず、世界に理解される「生き方」はあるか?如何なものか
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三人の女性の接点 [歴史]

今日は、1995年に起こった「阪神・淡路大震災」の日である。
私の生まれ育った地域を含むものであり、友人・知人の多くがご苦労された。
「東日本大震災」に比べて被災地域が狭かった割りに、死者が多かったのは火災だ。
地震に対する火の元の用心は、関東大震災で学んでいたが、個人レベルでは難しい。
「東日本大震災」で防災意識が高まる中、火元と延焼のシステム的対策が望まれる。

三人の女性とは、ルース・ベネディクト、山川(大山)捨松、山本(新島)八重である。
◎ ルース・ベネディクトは「菊と刀」で有名な米国の文化人類学者。
 1887年生れ - 1948年没
◎ 山川捨松は、1871(明治4年)欧米使節団(岩倉具視団長)と共に渡米。
 1882年にヴァッサーカレッジを卒業。日本女性の学士第一号
 1860(万延1年)生れ - 1919(大正8年)没
◎ 山本八重(綾瀬はるか)は、今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン。
 1845(弘化2年)生れ - 1932年(昭和7年)没

これら女性三人の接点だが、
山川捨松は、ルース・ベネディクトのヴァッサー大学における27年前の先輩。
山川捨松に関しては、2009-05-08から05-14まで「米国留学少女物語」と題し
7回にわたってブログに掲載した。
山本八重は、会津藩出身者だが、捨松も会津藩の出身である。
八重が15才年上だが、捨松が13年早く亡くなった。捨松の早世は惜しかった。

八重と捨松には、二人を悪く言った兄弟がいる。徳富蘇峰・蘆花である。
徳富蘆花は、ご存知「不如帰」で、浪子の継母のモデル・捨松を悪く書いている。
5才年長の兄・蘇峰(1863生)は八重を「頭と足は西洋、胴体は日本の鵺(ぬえ)」と
罵倒した。明治時代は、欧化に対する一般民衆の反感は相当強かったのではないか?
八重は、日清・日露戦争の篤志看護婦として、天皇に褒められている。
捨松は、様々な福祉活動などで懸命に周囲の人々を支えたが、出る杭は打たれる?
世間になかなか通用しなかった? 従って、大河ドラマにも縁がないのでは?
私は改めて八重と捨松が生きた時代を振り返ると共に、ベネディクトの著書や
ヘレン・ミアーズの「アメリカの鏡・日本」を読み返し、文明の衝突と、その後の問題を
じっくりと考えたいと思っている。如何なものか
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悲しからずや阪神ファン [歴史]

今年のプロ野球も、日本シリーズで11/3に、日本一が決まって幕を閉じた。
「東日本大震災」以来、派手な優勝セールもなく、淡々とした閉幕に思えた。
新聞で巨人の優勝の様子・写真等を見読。日本シリーズの各年度の成績が掲載されていた。
それを見ていて、「隠れ阪神ファン」の私は、大変な事を発見した。
なんと球界第二の歴史を誇る阪神が、たった一回しか日本一になっていない事である。
60数年、ファンでありながら、こんな事に気付かなかった?だから隠れ阪神ファン?
 
そこで1950年以来、今年まで63回あった日本シリーズ日本一の球団毎の回数を数えた。
 巨人:22回、 西武:10回、 ヤクルト:5回、 西鉄:3回、 阪急:3回
 広島:3回、 ロッテ:3回、 南海:2回、 ダイエー:2回、 中日:2回
 毎日:1回、 大洋:1回、 東映:1回、 阪神:1回、 オリックス:1回
 横浜:1回、 日ハム:1回、 ソフトバンク:1回

これを、現在の球団として整理すると
セ・リーグ(35回)
―― 巨人:22回、 ヤクルト:5回、 広島:3回、 中日:2回 
   DeNA(大洋・横浜):2回、 阪神:1回
パ・リーグ(28回)
―― 西武(西鉄):13回、 ソフトバンク(南海・ダイエー):5回
   ロッテ(毎日):4回、 オリックス(阪急):4回、  
   日本ハム(東映):2回、 楽天:0回
   
何と、阪神は巨人に次ぐ古い歴史を持ちながら、歴史のない楽天を除くと
球界最下位という体たらく?私の様な「隠れ阪神ファン」が増えるのもむべなるかな!
それでも阪神タイガースは不滅?これは、どういうことなのか?
日本人の「判官びいき」という、弱者を応援する優しい国民性のなせるわざ?
如何なものか
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京都歴史散歩2012_9(4) [歴史]

DSC09421離宮図.JPG今回、最後の歴史散歩は、院政時代の鳥羽離宮とその周辺である。例によって計画性もなく京セラ美術館を目指して地下鉄竹田駅に下りて歩く計画だったが、何時もの習慣である駅周辺の地図を駅員さんから入手して眺めて見た。すると途中に、鳥羽天皇、近衛天皇、白河天皇、西行遺跡などがあるではないか!この辺一帯は、鳥羽離宮があったらしい。広大な領域で、東は近鉄京都線西は鴨川、南北は、阪神高速8号京都線の城南宮出入口の北と南で画する位に広かった?最初の写真は、鳥羽離宮図である。鳥羽とは、当時(院政期の頃)の地形が、桂川と鴨川との合流点であった港の地名である。当時の地図を見ると、鴨川と桂川が鳥の羽ばたく両翼の如く見える。それが地名の由来ではないか?(これは私の思い付きだが、新説ではないか?)
DSC09416近衛天皇陵.JPGDSC09426鳥羽天皇陵.JPGDSC09425院政の地.JPG





次の写真は、近衛天皇陵(多宝塔)、鳥羽天皇の安楽寿院陵、石碑(白河法皇、鳥羽法皇の院政の地)などである。白河天皇陵には時間がなくて行けなかった。多宝塔を本陵とする陵は他に例を見ないそうである(宮内庁・陵墓の栞を参照)。西行遺跡として西行寺跡がある。西行は1140年、23才で出家。鳥羽上皇に仕えていた縁で寺ができたのか?江戸時代の「都名所図絵」に描かれている。

院政というものが始まったのは1086年。白河上皇が始められた。鳥羽御殿の造営もこの年からだという。院政時代というのは、我々の学生時代では平安時代に分類されていたが、近年になって、中世の初期に位置づけられる様になったと言う。院政時代の終末は、平家滅亡の1185年か?承久の乱(後鳥羽上皇が北条追討の院宣を出すも負けて隠岐に流された)の1221年か?だそうである。

院政というのは、平安時代の摂関政治の行き詰まりからの維新ではなかったか?天皇親政から上皇(法皇)親政を企図したが、結局この時期に武士の身分が定まり、武家政治へと転換された。明治維新も、天皇親政という美名の基に、薩長藩閥政治が行われた。現代もその延長線上か?如何なものか
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京都歴史散歩2012_9(3) [歴史]

Winterhalter_Elisabeth_2.jpg今日の京都歴史散歩は、昨日までの和ものと異なり、洋ものである。
和ものは、平安時代の平康頼、安土・桃山時代の細川幽斎だったが、
洋ものは19世紀(近代)、オーストリア=ハンガリー二重帝国史終末期の
皇妃エリザベート(1837年12月24日~1898年9月10日)という女性だ。
美術館「えき」KYOTOで9/7~10/28まで開催されている「輝ける皇妃 
エリザベート展」を観覧したが、それは、全く奇縁によって導かれた。
予定していなかったことである。

さて、エリザベート展の感想を書こうとする時に、その時代背景の複雑さに困惑する。
オーストリアは、神聖ローマ帝国の正統を継ぐ存在だったが、17世紀のマリア・テレジア時代
までで、その後衰退していく。フランス革命、ナポレオン戦争、産業革命等の波、そして
エリザベート時代には、共産主義も台頭してくる。列強と言われるイギリス、フランス、
ロシア等も、それぞれ事情を抱えていたから、すぐどうこういう事はなかったが
大変な激動の時代だった?時代考察は置き、エリザベート展の略歴と感想に入ろう。

誕生は1837年で、今年生誕175周年。キリストと同じ誕生日だった。誕生の時、既に歯が
二本生えていたという。これは幸運の印とされた。(私の感想:強健な体質では?)
老境になったエリザベートが幼い頃の思い出を語った内容は、「私は疲れるという事が
ありません。父親のお陰です」。彼女は「蝶のように、地面に足を触れないように」
エレガントに歩いたが、父親譲りで決して静かに座っていられなかったという。

結婚は1854年、満17才になる前の春。結婚や結婚後の生活については他の資料も多い
から省略する。此処では私が感心した彼女のトレーニングの事を書いておこう。
美貌の探求の為?平行棒、吊り輪、鉄アレイを使った体操、重量挙げを毎日欠かさずに
実行していた?激しい馬術やフェンシングの訓練、それに長距離の速歩もしたという。
速歩に同行する女官達は、皇妃についてこられる事が条件だったらしい。乗馬技術も
超一流、オリンピックで優勝する程の腕前だったと言う。 展覧会でエリザベートの
装身具などを見ると、我々庶民と比べれば贅沢だが、列国の王妃などの装飾品と比べ
れば、どちらかと言えば質素な位では?と、私は思った。1898年、エリザベートは
無政府主義者の凶刃に倒れ、この世を去った。彼女の生涯は、後世、毀誉褒貶様々だが
それは彼女が、余りに絶世の美女であり続けた為の僻み根性があった?と、私は思う。
劇的な結末によって、当時の世の人々から満腔の同情をかい、世紀のヒロインとなった!
美貌と共に健康を追求をする人に、悪い人は居ない? 如何なものか
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京都歴史散歩2012・9月(2) [歴史]

前回に続いて、雨模様で大谷大博物館を訪問した「物語の世界」の続きを書いておく。
<その2>
「伊勢物語闕疑抄(けつぎしょう)」細川幽斎著。文禄五年(1596:幽斎63才)成立
展示品の古書は、江戸時代・寛永19年(1642)出版。本書物は、有名な「伊勢物語」の
注釈本である。何故、私の心に留まったのか?
それは、幽斎が武将だと説明書きに書いていたからである。
文化人で且つ大名だった織田信秀の十一男・有楽斎如庵は知っていたが、
幽斎に関して、文武に秀でた武将かつ国文学者だったとは知らなかった。

“闕疑”とは、論語から採った言葉で、原本の、「多くを聞き、疑わしきを闕き
(削り)、慎重にその残りを言えば、即ち、咎め少なし」という意をあらわす。
幽斎の学問的な慎重さがうかがわれるのである。

しかし、幽斎は文弱ではなく、文武両道の武将で、室町末期の将軍、信長、秀吉、
家康に仕え、最終的には、息子が小倉藩主、孫が熊本藩主となり現代にまで栄えた。
剣術は塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘・吉田雪荷から弓術の印可を受け、弓馬故実
(武田流)を武田信豊から相伝されるなど武芸も一流だったという。
武功には(武器を持って戦う)個人的戦功、将としての戦功、軍略的功績等がある。
ある本によると、幽斎の生涯を眺めると、これら全てに優れていたと言うのである。

幽斎の特徴を最もよく現している事件が、慶長5年(1600年)7月、石田三成らが
家康討伐の兵を挙げた時の、田辺城攻防戦の話である。当時、大坂にあった忠興夫人・
ガラシャは人質になるのを拒んで屋敷に火を放って自害。幽斎の隠居城・田辺城は
5百人程度しか居なかったのに対して、石田三成側は、1万5千人が攻め寄せた。
決死の覚悟で、約二ヶ月の籠城を持ちこたえた。この様な窮地に陥ったのは、家康の
上杉討伐に、息子・忠興と共に多くの兵士が従軍した為であった。

幽斎は、討死覚悟で和睦の調停を断り続けたが、和睦奔走の立役者八条宮がついに
兄・後陽成天皇に奏請した。これにより、勅使が田辺城に下され、9月13日、
勅命による講和が結ばれ、二ヶ月の籠城に終止符が打たれた。その裏には、幽斎が、
一時期、二条派正統を継承していた(説明書き)という理由があった。幽斎は
藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流歌道伝承者・三条西実枝から、古今伝授を受けた。
そしてその子・三条西公国と、更にその子・三条西実条)に返し伝授をしたという。
「芸は身を助ける」という。文芸も此処までになればご立派!如何なものか
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