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豊かさと「分」 [思い出]

今日は、午前中にゴルフ練習(打ちっ放し)に行った。打球数=60球(200円也)
一球に付き、3回~4回の素振りをするから、少なくとも250回はクラブを振った。
柔軟体操と、スクワット300回を交えてやったから、まあまあ運動にはなったと思う。
練習結果は、可もなく不可もなし(現状維持?)、と言ったところだろうか?
午後から天気が崩れ、傘差し散歩となったが、片道は足高山(標高67m)の山越え。

今日、散歩の帰路に立寄った古本屋で読んだ本の中に“自分の「分」をわきまえる”
という、言葉に出会った。なぜ、この言葉に注意を寄せたのか? その理由には
その著者が「豊かさ」とか「しあわせ」を獲得する条件として記述されていたという
こともあったが、私の古い記憶を呼び覚ます言葉でもあったからである。
古い記憶とは、私が30才代後半、亡父の晩年の言葉に重なっていたからである。
“自分の「分」をわきまえる”とは、いわば亡父の遺言のようなものだった。
亡父の言葉を聴いた当時の私は、まだまだ未熟者だった故の忠告だった?

「分」を辞書で引くと、“生まれつき、責任・義務、けじめ、能力、完全な全部”
という意味であることがわかる。「才分、身分、気分、性分、天分、職分、本分」等
の熟語によっても、「分」という言葉の意味が自ずと浮かび上がってくる。
“「分」をわきまえる”とは、「己を知る」ことと同じ様な意味合いである。しかし
「分」という文字が、大勢のあるいは無限に近い人間を分けた中のひとりとしての
“自分”という意味が強く意識されている点に「己を知る」と大きな違いがある。
「己を知る」というと、自己の内面を探索して、自分を知ることと思いがちだが
そういうアプローチは、唯我独尊的な視点になりがちになる。それに対して
“「分」をわきまえる”は、自分を無数にいる大勢の人間の一人という視点を忘れない
謙虚さで、「己を知ろう」と努力する姿勢に大きな特徴があると思う。

豊かさも、幸せにも、お金も、無数の人間の一人としての「自分」即ち、自己の
「才分、性分、天分、職分、本分」とは何かを弁えると自然とついて回ってくる?
私は、残念ながら豊かさも幸せもお金もほどほど(お金は少ない?)だが。それは、
職分や本分を十分弁えず、天分や才分を伸ばしきれず、性分の欠点も多く、しかも
それを十分に修正できなかったからである。いわば自業自得というものだ。
それでも、無数の人間の一人として“「分」をわきまえる”ことができたからこそ
お金も無く人間関係も貧困?でも、心は豊かでしあわせ!感謝!感謝! 如何なものか
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今日はなんの日? [思い出]

今日は「やぶいり」の日。奉公人が暇をもらって親元などに帰る日である。
毎年、正月の16日と、旧盆の16日がその日に当たる。「やぶいり」に関連して以前に
大阪商人について書いた内容を以下に抜書きしておく。

 大阪商人の店は、丁稚制度の上に成り立っていた。商家へ奉公に出るのは、
 必ずしも貧困のためではなく、技術習得の意味もあり、良家の子弟も奉公に出た。
 大阪ミナミ心斎橋筋の旧菊屋町では、総人口中の住込み奉公人(通勤者含まず)を
 調べた数字がある。それによると
 万治元年(1658)11.1%、弘化3年(1846)26.6%、万延元年(1860)35.4%
 旧菊屋町は小商人の町だったから、巨商・問屋の多かった船場などではもっと
 もっと多かった?丁稚から手代、番頭、そしてのれん分け等の制度が整っていた。
 大阪の商家は、修業としつけを経た番頭・手代によって経営されていた。
 よき手代・番頭をもつことが、商家成功の秘訣であった。大阪の商家では、
 経営者側(主人や御寮さん)は店員と外見上で大きな格差が見えない様に配慮した。
 健康や身の上も、細やかな気遣いがあり、思いやり深かった。また大阪町人の家庭は、
 武家にも劣らぬ厳格さであった。身持ちが悪く、商売に差しさわりがある主人の場合
 家族・番頭合議の上で、隠居や離縁ということもあった。

「やぶいり」で思い出すのが、『番頭はんと丁稚どん』というテレビドラマ。
1960年前後ころに、30分枠で放送されていたコメディだった。
芦屋雁之助が番頭または手代?で、大村崑、芦屋小雁、茶川一郎が丁稚だった。
上に抜書きした大阪の商家ほど理想的ではなかったが、経営者側は優しかった?

雁之助や茶川は鬼籍の人となったが、小雁は今年80歳、大村崑は83歳になる。
大村崑は、先日も山村美紗サスペンス「赤い霊柩車シリーズ」の再放送で見た。
見たのは第26話:2010年10月1日放送「黒い同窓会」
大村崑扮する1級葬祭ディレクター・秋山隆男と、山村紅葉扮する事務員との
泥臭い漫才が、なんとも楽しかった。演じたときはすでに80歳近くになっていた?
それにしては若々しい。20歳前に肺結核で片方の肺を喪失し「あなたは40歳で死ぬ」
と医者から宣告されたと言うが、人間の運命などどうなるか分からないものである。
「人生、一寸先は闇」というが、それは思いがけない悲しみや苦しみだけでなく
思いもかけないよろこびや楽しさにも、また出会えるということ?如何なものか
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雪に思う [思い出]

昨日は、神奈川なども大雪で、孫たちも喜んだらしい(写メールあり)。
私は、関西育ちで、幼い頃にはほとんど雪は降らなかったが、偶に降れば
今の孫同様に、喜んだものである。但し、積もる事は殆ど無かった。
少しでも積もると、泥が沢山混じった雪ダルマとも言えぬ代物を作った。

小学生の頃に、父の会社が山陰のスキー場にスキーバスを出すというので
父が、姉やその女友達を連れて行くついでに、私も行った事がある。
私は生来、蒲柳の質で、寒い雪国は性に合わず、あまり良い思い出はない。
学生時代には、東京で下宿したから、雪が積もった事もあったと思うが
雪ではしゃぐ事はなかった? また、卒業後は20才半ばでまた瀬戸内の地に
引っ越したから、雪との想い出は余り無い?

40才近くなり、横浜に住む様になって、また雪との付き合いができた?
通勤や、出張などの関係で苦労した事もあったが、今では楽しい思い出だ。
横浜時代には、スキーブームが到来した。あの頃はバブル全盛の頃だったなあ!
子ども達のスキー熱も高くて、初体験前に、連れて行かなければいけないと
妻に説得され、神田で家族全員のウェアから道具一式を購入したものだった。
子ども達は何年もスキーを楽しんだようだが、我々夫婦は僅か2~3シーズン?

家族スキーでの最大のイベントは、1989暮から1990年正月、上越国際に行った
スキー旅行だったと思う。(以下は日記の抜書き)
12/31朝5時起床。上野発8:04 あさひ303号 上越国際ホテル10:10頃着。
11時過ぎゲレンデに出る。昼食13:30過ぎ 15時~16:30頃までゲレンデ。
1/1 7:30起床。10時~12時、13:30~16時ゲレンデ。
KeikoとShinはスキースクール。私とRokoはリフト。妻?
1/2 朝7時起床 9時~11時 昼食をはさみ12:30~15時近くまでゲレンデ
長峰第1、第3、美奈第4、リーゼン第2(リフト名?)を繰返したとある。
ホテルからマイクロバス15:30発。越後湯沢発17:28発、浅草へ初詣。

日記には、列車内での駅弁の事、ホテルでの食事の献立や、大浴場の事
初詣後の食事の事も書いてあった。私にとっての最大のイベントだった?
今では、スマホとその写真などでリアルタイムに記録が出来て便利になった。
子ども達は、私の様に年取った時に、もっともっと自分たちの人生を豊かに
振り返る事ができるだろう。思い出こそ宝物! 如何なものか
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梅ちゃん先生_最終回 [思い出]

「梅ちゃん先生」の特徴は、日常の瑣末な出来事を針小棒大に扱って見せ「大山鳴動して
ネズミ一匹」で目出度く収める、という段取である。前回のラストも、芳子(南果歩)が
建造(高橋克実)の様子がおかしいと不穏な雰囲気を漂わせ、梅子(堀北真希)に相談。
幸吉(片岡鶴太郎)が陰で聞いていて、建造に女ができたに違いないと梅子を不安がらせ
面白がって真相究明とおっとり刀で「みかみ」で飲んでいる建造達の所に駆け出した。
揉めさせてはならじ!と梅子も慌てて追いかけた。
「みかみ」から出て来た建造に会った二人は理由を問い質して大仰天!梅子は「エッ!」と
驚嘆の大声を発してしまった。余程の重大事発生!と思うではないか?私等の感覚では、
定年過ぎの男の様子がオカシイとなると、さては癌にでもなったか?と心配してしまう。
梅子の驚声に異変を感じた竹夫(小出恵介)、信(松坂桃李)、加藤(大沢健)たちが
飛び出して、何事が起きたかと追求された。切羽詰った梅子が「お父さんが空飛ぶ円盤を
見たというから」と苦しい言い訳をして、何とかその場は納まった。

最終回は、もう昭和36年(1961)になっていた。“空飛ぶ円盤”のブームはもっと前では
なかったか?30過ぎの梅子が言い出し、60過ぎの病院長・建造がそれに乗り、幸吉まで
「どこにそんなものが見えたんだ?」と真面目な顔をして言うとは!幾ら何でも面白過ぎ。
笑顔だけが能じゃない。しかめっ面でこういう面白い事を言ったり、したりする方が、
余程面白い(わッはっは!)
結局、芳子の心配は杞憂!何と、建造が、「のど自慢」出演を人柄変革の起爆剤として
内緒で出演準備をしていたというのだ。「上をむいて歩こう」を熱唱し、見事鐘を連打!
これには幸吉も恐れ入った様だった。(幸吉は第4週、のど自慢出演。復興節で鐘1つ。
信郎との葛藤があり、現状打開の為に「あきらめ節」から変更し、練習不足の為?)

テレビ画面の「のど自慢」司会者は声も映像も宮田輝自身だった。最初はソックリさんを
探して依頼したものと思ったが、司会者の言葉(芳子の?が審査員に聞こえた)が
聞き取れず、ビデオを繰返し見ている内に、映像が明らかに合成だと気が付いた。
1960年代は、放送用ビデオテープやフィルムが高価な上、アーカイブを収録したテープは
課税対象だったため、一部を除いて番組保存が行われなかったという。そんな時代の
貴重なアーカイブで、宮田輝の映像を視聴できたのは幸いだった。
「梅ちゃん先生」のスタッフにお礼を言いたい。感謝!感謝!

松子(ミムラ)は早、二児の母になったにも拘らず、前髪を垂らしてかわい子ちゃんに
変身しているのに気付いた。“僕の可愛いミヨちゃんは 色が白くて小さくて 前髪
たらした可愛い子 あの子は高校二年生”の歌詞で有名な平尾昌晃作曲・[ミヨちゃん]は
平尾自身が、1960年の紅白歌合戦で唄った。 なかなか面白い趣向だった。

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梅ちゃん先生・14回に思う [思い出]

今日も春らしい暖かな日和だった。これから暖かくなる一方で、ホッとする私である。
それに引き換え、NHK連続テレビ小説「梅ちゃん先生」は、終戦の夏から冬になった。
食料も暖房もままならないのでは、冬の寒さは身にこたえるだろう。当時の暖房は
炭火の火鉢とコタツ、それに湯たんぽなどだったが、終戦直後はどうだったか?よく
覚えていないが、いつも青ばなを垂らしていたように思う。病弱の私は、病気勝ちの上
物は無い無い尽くし。両親は私を育てるのに大変な苦労をしただろう。改めて感謝。

「梅ちゃん先生」の中で、みかんの価格が、3個3円から10円に値上がりした話題が
姉の松子(ミムラ)から提供され、母親(南果歩)が、給料据え置きなのに物価急騰を
嘆く場面があった。給与生活者にとって、本当に苦しい時代だった。政府統計の
長期時系列データ平成17年基準消費者物価指数 中分類指数(全国)-年平均指数
【昭和30年~平成16年】における“果物”の平成17年(2005)基準消費者物価指数は
昭和30年(1955):18.4、平成17年(2005):100、従って物価上昇率は、5.4倍。

現在のみかんの小売価格は、スーパーで10個400円?1個1円から40円になった?
現在≒平成17年と仮定すると、昭和30年は、みかん一個7.4円、昭和20年から30年は
みかんの物価は、10年で7.4倍になった事になる。(みかんに平均指数を適用)
昭和30年(1955)→平成17年(2005)の物価上昇率は、50年間で、5.4倍に対し
昭和20年(1945)→昭和30年(1955)のみかん上昇率(仮定)は、10年で7.4倍
これは大雑把な計算で、余り根拠はないが、戦争直後の厳しさを少しはうかがえる。

そんな厳しい社会的状況の中で、ノー天気な梅子(堀北真希)は、女子医専を目指し
勉強を始めるが、女学校1年生で習った「因数分解」からしてチンプンカンプン!
友だちに戦争で学ばなかったからでは?と問うが、1年の授業はチャンと受けていた。
私は、この話題を聴いて、ブッ魂消てしまった。ノー天気梅子の真骨頂?しかし
女学校の節子先生(中村ゆり)は梅子の真意を既に読み取っていた。自分が師範学校
を受験した当時の家族との葛藤を重ね合わせて、梅子に力を貸す様子だった。
私は患者として多くの医者を見てきたが、医師不適合者と思われる人に何人も会った。
「因数分解」が分からなくとも、医師不適格の医者よりも医師適格の医者が良い。
臨床医に「因数分解」は、必要とは思えない。従って紆余曲折はあっても、梅子は女子
医専には合格する?物語だから?戦争で学業を犠牲にした受験生達だから試験は学業
よりも人柄(適格性)を見たのだと思う。梅子は医者に合う人なのだ! 如何なものか
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花見・2012と思い出 [思い出]

今日、本格的な花見をした。「本格的な花見」って何だろう。
1.まず、本人が花見気分であること。そして同様な気分の見物人がいること。
2.桜の木が、それなりの数(20年前後の木が10本以上?)満開かそれに近い状況。
3.それに、花見弁当・花見酒が付くと最高!
十分条件ではなく必要条件として、チョッと以上の様な条件を考え付いた。

今年は花冷え期間が長く、開花も遅く、気分的にも花見気分になれなかった。
今日は、やっと気候も良さそうで、花見弁当を買って(花見酒はなし)酒津に出かけた。
近くで見ると今だ蕾があるが、満開に近いと感じた。結構風はあったが、花びらの舞いは
見られなかったからまだまだ、これからも楽しめそうだ。月曜日の平日にもかかわらず
大勢の花見客が来ていた。ほとんどの人が酒も飲まず、或いは酔人がほとんど目立たず、
例年の事ながら、静かな花見であった。

今までのブログで、花見はどの様に取上げていたか?少し、振り返ってみた。
 2007年04月07日の「岩国散歩」では、錦帯橋から桜木を見下ろして詠った。
◎ はなにはな はなを重ねて 咲き誇る
 2007年04月08日の「花観賞の散歩」では、「さくらは満開。風もそれ程なく、
よく見ると散った花びらはあるものの、散りかける花びらをほとんど見かけないという
最高潮の時に出会った。花見客で賑わっているものの、昼の宴にもやや疲れたのか、
花ぐもりにけぶるその光景は、まるで夢の中のように一瞬の静寂に包まれた。」
◎ 酔客の 声もかすみの 花ぐもり
 2008年04月03日の「枝垂桜」では津山・千光寺に行き「千光寺の枝垂桜は見事の一語に
尽きる」という感嘆の言葉と共に、次のような句を残した。
◎ 花見とは こういうものと 思いけり 
2008年の桜前線は、比較的早く上昇してきたようだ。
 2008年04月10日の「雨つれづれ」では、「今年の花見を振り返ると、酒津が3回、津山、
岡山後楽園、姫路城、それに若干の付録。自分でも今回はよく花めぐりをしたと思う。」
と、書残している。実は、20080416の「花見に思う」には、岡山の東、吉井川の西岸に
位置する瀬戸町の“宗堂桜”(八重桜)を見に行っている。

2009年以降、花見もそれほど盛上がらなくなった。2008年04月10日の「雨つれづれ」に
書いている「花も人もうつろうとも、思い出の花見は決して色あせる事がない」という
心の奥底に大事にしている足高山の“思い出の花見”があるからだ。如何なものか
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伝統・文化への思い [思い出]

私が伝統・文化を尊ぶというのは、自分の祖先を身近に感じ様とする事である。母方祖母の
曾爺さんの一人とは、小学生時代に田舎で会っているから、リアルに思い出す事が可能だ。
農家だったから、家に農作物を餌にしている小さい虫達がいて、這い回っていた記憶がある。
当時は、農薬もなかったのだろう。一晩、泊まったが、それでも悪い印象は残っていない。
ねずみや小鳥や虫達と共存していた農家の佇まいが、まるで昨日の事の様に映像化できる。

曾爺さんは何か威厳の様なものがあった。当時勤め人だった親父が尊敬している様に思えた。
父方の祖父と曽祖父は私の産まれる前に亡くなっている。宮大工の棟梁であったという。
幼い頃に聞かされた話だから、真偽のほどは定かではない。父方の祖母も余り記憶にない。
母方の祖母が一番長生きしてくれ、晩年は一緒に住んでいた。体を動かす事が好きで、畑で
野菜や花を育てていた。ほぼ一生涯、農婦として貫き通した、ということが出来るだろう。

私の先祖の直接的思い出は精々、この辺までであるが、こんな話が伝わっている。
明治23年の国会開設の話に関して、私の曾爺さんかどうか知らないが、「国会が開かれる」
というので、どんな大きなクス玉が開かれるのだろうと楽しみにしていたというのである。
のん気な浮世離れした話で眉唾とも思われるが、田舎人独特の諧謔?と思ってみたりする。
ただこの話で感じるのは、明治維新は、制度的には木で竹を継いだ様な不連続的な事件だが
地域の人々にとっては、地に根を張った揺るぎない自信、伝統・文化の継承が伺われる事。
そこには、兼好法師が説いた「珍しいもの、面白いもの等には距離を置いて見る」精神が
息づいていると思われるのである。

兼好法師は南北朝という激動の時代に朝廷に仕えた貴族だ。学校で習ったときには、なんで
こんなに断定的に価値観を決め付ける事ができるのか?と、反発したものだ。しかし思えば
史上でも稀な南北朝という動乱の時代を生抜いた兼好は、出家して「聖」の世界の住人となり
貴族の身分を解脱し、一人の人間として生きるための得がたい智恵を我々に残してくれた。
伝統・文化は、反発するものでもなければ、鵜呑みにして、偶像視するものでもない。
批判的に受止めながら、真髄を抽出して、それぞれの生きる智恵とするものだと思う。

物質文明の発展にも惑わされず、日本人の美しい心・尊い内面を磨く鏡として伝統・文化を
批判的に受止めながら、真髄を抽出することが重要ではなかろうか?現在の悪の資本主義
(善の資本主義もある?)・悪の商業主義に毒されたマスコミや、会社、そしてそれらに
振回される政治家を含む全ては、軽蔑し無視するしかない?何時か滅びる!如何なものか
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散歩・免疫・思い出 [思い出]

DSC09111足高大銀杏.JPG今日も気温が戻り暖かな一日で散歩途中、写真を色々撮った。左の写真
は足高神社の大銀杏。まるで仏像の光背の様に、神々しく輝いていた。
この黄葉は三本の銀杏で形成されているが、真ん中の一番高い銀杏は、
私の腕で二抱えはあろうと思う大木だ。石段が銀杏の木の間に見えるが、
これは神社参道の石段で、現在東北楽天の星野監督が倉商時代に
足腰を鍛えた伝説の石段という。(写真の上でクリックすると拡大する)

さて免疫の事を調べていて面白い情報を得た。
生まれたばかりのパンダ、コアラ等の赤ちゃんには、笹を消化する酵素やユーカリを無毒化する
酵素を持っていないという。腸内細菌が消化してくれるそうだが、その為に赤ちゃんは土壌菌等
を体内に摂取して、腸内細菌を増やすのだそうだ。人間も野菜のセルロースを分解する酵素を
持ってなくて、腸内細菌がせっせと分解するという。
赤ちゃんが何でも舐めるのは、土壌菌等を体内に取入れて腸内細菌を増やすためだ。

それで思い出した事がある。私の小さかった頃はよくお腹を壊して、柔弱な体質だったが、
その原因は、亡き母が、懸命に私を衛生的に育てたからではなかったか?事情があって、
私を是が非でも成人するまで育てなければならないと思い詰めた母は、私を無菌状態に
近い形で育てたのではないかと思う。私自身が潔癖症に育った事が何よりの証拠だろう。
免疫力の本・藤田紘一郎著「免疫力をアップする科学」の著者は、今でも様々な土壌菌を
カプセルに入れて毎日飲んでいるという。私が小学生時代迄お腹を壊した腺病質だったのは
何でも舐めたがる赤ちゃんの特性を押さえ、無菌に近い状態で育てた事が原因ではないか?

私は当時の母は当時の知識で懸命に頑張ったんだと思う。感謝こそすれ、恨むなんてとんでも
ない事だ。しかし現代の様に、既に科学的に腸内細菌の働きが明らかになっているのだから、
無菌状態の養育は良くないと思う。幸い、わが家は妻も娘たちもよく心得ている。
私だけが遅れていた。人間、自分の間違った経験から自由になるのは難しい? 如何なものか
DSC09116メタセコイア葉.JPG
左の写真は、メタセコイアの黄葉。
用水路の水面のキラメキが映えて美しかった。
◎ 煌めきぬ メタセコイアの黄葉(もみじ)かな
(写真の上でクリックすると拡大する)
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散歩つれづれ'11.10 [思い出]

10月も半ばになった。この辺では、刈入れは1/3程度?例年よりも少し遅れている?
昔は二毛作、三毛作と、生産性を上げる工夫をしていたが、最近は大体、刈入れ後はお休み。
慌てて刈取らず、実入りを良くした方がいいのだろう。
それにしても稲が疲れたのか、結構、倒れている田んぼもあり、人事ながら心配だ。

今日も曇天散歩だった。数分程度は小ぬか雨に会ったが、傘を差すには至らなかった。
散歩道ではまだまだ金木犀が良い香りを発散しているが、先日の山の方は既に散っていた。
数十キロ北の里山でも、晩秋の到来は早いのだろう。
百日紅は、さすがに、花も余り残っていないが、まだ、枝に頑張っているのもある。
やはり、温暖化で、植物の閉花の時期が遅れ気味なのかもしれない。

金木犀の香りから、最近は私が生まれ育った家の門の脇にあった金木犀の事を思い出す。
金木犀の香りは、住んでいた当時や生家から離れて住むようになってからも、別に何とも
思わなかったが、最近では、何だか感傷的になる。
香りが、丸で母の香りだったような懐かしさを覚えるのである。

母は私の20代半ば、56歳の若さでこの世を去った。
今では、私の人生の約35%しか実在していなかったが、母の存在は数量では計れない。
兄を幼くして亡くした母は、病弱な私を大事に育てすぎた。
私の後には、実質的に子を産めない体になっていた母にとっては、仕方なかったろう。
しかし私にとっては、それが大きな重荷となって、母との葛藤があった。
戦時中の様々な物資が乏しい中、私を産む時の大き過ぎた負荷と、私の我儘とが、
母の寿命を縮めたのではないかという思いは、母の死後、長く私の心を苦しめた。

私はふと気付かされた。金木犀の香りが、母の思い出に結びつく様になって、
いつの間にか、母との葛藤から、自分の心が、自由になっている事に。
私は、母に対する負い目のために、母の思い出を心から締め出していたのだろう。

そう気付いた私は、まだまだ自分が母から自由になっていない事にも気付かされた。
様々なしがらみから、逃げていても忘れていても自由になることはできない。
向き合っていかなければならないのだ。そうだ。もっと母と向き合わねば!
そして、母と向き合うという事は、己と向き合うということ。如何なものか
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「おひさま」四方山話 [思い出]

1つ目の話題は、主人・村上貞夫(斉木しげる)、お将・村上カヨ(渡辺えり)が経営する「村上堂」
の水飴屋。今日も陽子(井上真央)の祖母(渡辺美佐子)と白紙同盟三人組が話する場となった。
水飴とその味覚の記憶は今も鮮明に残っているのだが、具体的な入手方法や賞味場所等の記憶
が定かでない。昭和20年代に、紙芝居の見料として購入するものという記憶だけが鮮明にある。
恐らく、私の幼少時には、瓶詰めなどで広く流通していたのではないか?と思う。三人組が
水飴屋で、瓶に箸を差し入れて巻いて賞味した様に自宅で箸に巻いた飴をこね回して食べた
記憶がある。もしかすると、知人宅でご馳走になった記憶も混じっているかも?この水飴も、
昭和20年代からキャラメルなどに席を譲ったのではなかろうか?
Hudson Terraplane Custom.jpg
もう1つの話題はクラシックカー(写真はHudson Terraplane
Custom)。「おひさま」の第18・19回に出てきたクラシックカーと
同型?ではないかと思われる写真をネットから拝借してきた。その
根拠は、茂樹(永山絢斗)が口走った「ハドソン社のカスタメイド」。
ハドソン社は1909年に設立。最初から販売しているハドソン車に加えて、1919年にはエセックス
(Essex、廉価版)を登場させた。1932年にエセックスに代えてテラプレーン(Terraplane)という
ブランドネームを開始した。ドラマにおける時代設定は1938年(1922年生れの陽子が16歳の
女学生だから)。従ってドラマの自動車はテラプレーンのカスタムメイド(特注品:オプション付?)
ではないかと推察したわけである。

終戦後、私(昭和20年代・小学生)の同級生に戦後成金の息子がいて、この種のクラシックカーに
乗せてもらった事がある。親父さんの運転で神戸の街をぐるりと回った。ほとんど車など通って
いなかった。木目パネル、革張りのシートで、乗心地はフワフワした感じで落着かなかったことを
覚えている。今思えば、道路事情も悪いために、サスペンジョンが柔らかだったからだと思う。
当時、自動車の写真集のようなものがあって、私より35歳年上の父が大事そうに所持していた。
私などが勝手に触るといけないような雰囲気があって、こっそりと眺めて、美しさ感動した記憶が
ある。当時、自動車は夢のまた夢であった。その私が、約20年経った20歳代後半(昭和40年代
前半<1960年代後半>)には、中古車とはいえ自動車を所有する身になった。

こうして、「おひさま」の当時から現代までを通観してみると、1930年代後半から1950年代前半
までの10~15年は戦争のために停滞していたが、その後、余りにも急激な膨張をしてきたという
ことが伺える。今や水飴などという下賎なものを口にせず、高級車を乗り回す子爵令夫人と同様
の方々が、雲や霞のごとくに増加した。お目出度い限りでは無いか? 如何なものか
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