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林住期・2 [散歩]

今日は予報に反して最後は真っ青に晴れ上がり、彼岸の中日ながら結構 冷え込んできた。
午後いっぱい合唱練習のため散歩もママならず、練習会場への往路を散歩に当てる事にした。
岡山駅西北に当たる会場で、今まで岡山駅から歩いたことがなかったが地図頼りで歩いた。
大通りから一本中に入った用水路沿いの古い道路を歩くと、神社や公園、お寺などのみでなく
特別の観光地でもない月並みな家並みもそれはそれなりの趣がある。 我家の近所の散歩道、
今まで行った観光地で印象に残った町並みなどを思い出しながら、ブラブラ歩いて約50分。
最初は時間を心配しながらの散歩だったが、随分と楽しめた。 15分前には到着した。

20090320-8小笠原.jpg韓国とのWBC2次ラウンド1位決定戦は、練習終了後に6-2で
勝ったことを知った。3回表、2死後、城島が安打、二盗して追加点
のチャンスに、次打者のヒット性の当たりを韓国の二塁手・鄭根宇
の好守に阻まれた後、家を出た。キューバが建国50周年の重圧で
フライをポロポロしていたのは気の毒だったが、鄭根宇の美技は
見事の一言に尽きる。さすがWBCだけのことはある。
練習会場に着いた時点ではまだ2-2の同点だった。
(写真は8回、代打・小笠原の勝越しタイムリー)

さて、「林住期」 を電車の中で少しだけ読み進んで、“雑事” に関して是非書き止めて
おきたくなった。 「生涯 なすべきことをなすこともなく、雑事に追われて終える」と言い
“本来なすべきこと” の例として “自動車を眺める” “写真を整理する” 
“川原で石ころを拾う” 等を例としてあげている。 禅問答のようで訳が分らない。

五木先生は持って回った言い方をされているが、既に多くの先達が残した言葉にあるごとく
“雑事” か、雑事で無いかは、本人の取組む心の持ちよう、心のありようなのである。
“雑事” も人によっては素晴らしい修行になるのだ。 「四住期」 の 「期」 を変えることを
“ジャンプ” 等と大げさに考えると間違える。単にチョッとした 「視点」 を変えること、
物事を批判的に見てみることだ。 五木先生は上手に 「物語」 をお作りになるが、
物語は生き方そのものではない。 「物語」 には、それを読み解く視点が大切である。
五木先生の 「林住期」 もまた、先生お得意の物語のようである。 如何なものか。

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林住期 [歴史]

午前中は晴れたが午後から曇り。予報は50%、降るかと思ったが意外にまた晴れ間もでて、
幸い散歩終了まで持った。 散歩途中で和久さんに教わった五木寛之の「林住期」を買った。
もう文庫本になっていたのだ。 ありがたいことである。

DSC090319方丈.JPG早速読み出したがあれこれ引っかかってなかなか前に進みそうも
無い。最初に引っかかったのは鴨長明である。そうか、彼も50歳で
出家した。昨夏、京都の下鴨神社に行ったときに長明の 「方丈」
(写真) というのを拝見した。 出家の後、各地を移動している間
に完成した組立式となっている。広さは一丈(約3m) 四方という
ところから、 「方丈」 と呼ばれた。式年遷宮によって造替される
下鴨神社社殿の自在な建築様式にヒントを得たといわれている。長明は下鴨神社の神職の
次男として生まれた貴族である。 彼は平家から源氏へと変化していく栄枯盛衰の世の
移り変わりを実体験した世代だった。

次に引っかかったのは、居場所を変える、心の出家、といったような言葉だった。
親子関係、夫婦関係、職場関係などの居場所をかえる。夫婦の友情を育むなどのことも含む。
急に今朝知った、“わいせつ判事” のテレビニュースを思い出した。彼も52歳、五木説なら
まさに 「林住期」 に突入している。 裁判官弾劾裁判所での罷免判決の経緯を調べたら、
6件の内、男女問題がらみで、50歳以上は、去年のストーカー (55) 事件だった。
数少ない裁判官罷免事件でモノを言うのは憚られるが、司法試験をパスしたエリートが
このような問題を起こすのは、精神と肉体とのバランスは個人差が大きいからだと思う。

釈迦は、29歳で妻を捨て、子を捨てて放浪の旅に出た。 愛欲、煩悩から解脱するためだ。
五木寛之は、居場所を変える、或いは心の出家、と簡単に仰るが、妻も子も捨てられない。
自由業とは違って、簡単に50歳で家出など出来ない。単身赴任こそ「林住期」の居場所変更
といっても、そう簡単に割り切れない。 私は、「林住期」 について次のように思う。
「林住期」 は、年齢で、簡単に区分するようなものではない。自分で決めるものだ。
そういう期間を人生の中で持つことを計画し、楽しみにして「家住期」のストレスを軽減し、
「家住期」 の中で、「林住期」 の予行演習しながら徐々に実現していく。 如何なものか。

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瓢箪から駒? [社会]

今日も暖かな陽気の良い天気だった。日差しで影はクッキリと出るものの、後半薄絹のような
雲を通した光線は柔らかだった。 それでも当地は、最高気温 22℃となった。
第2回・WBC 第2ラウンド 1組 2回戦 (日本-韓国) は、4-1で負けた。
城島が7回、球審の判定に不服で、バットを持ち帰らない行為で退場処分を受けた。
審判への侮辱行為。ルール、審判に対する考え方の違いによるものか?
グローバリゼーションは多様性を前提とした秩序化という思想だというが、
その前提は、一旦決めたルールや審判に対して、解釈や扱いの多様性まで認めるということ
ではないだろう。しかし日本人には、その前提条件そのものに体質的違和感があるのが
多数派ではなかろうか。

国政の根幹に関わる企業献金規正法さえも、野党第一党の民主党代表が、「政党支部で受領
すれば何の問題もなかった」 と強弁して憚らなかった。 その具体的な好例である。
ルールに対する曖昧な態度は、文化や教養による問題だとは思うが、そのような文化や教養が
いつまでも地球上に生息するのか? 
日本人だけしか居なくなったなどという事にならなければいいが?

小沢代表は、やっと自分の “ルール無視”、或いは “ルール解釈ご都合主義” を批判されて
いる事に気付きだしたようだ。 それにしても気付きが遅すぎる。
今度は一転、「企業献金全面禁止」 の法制による改革を言出した。 このような小沢代表の
手口を見ていると、政界で生き残るためには比較的単細胞、単純思考の方が、都合がいいのか
なと思う。錐(キリ)を揉むようにして、自分の失点を相手の弱点突破への発想に変換する。
失点よりも得点を優先させる思考が、政界などで成功する道なのだろう。

“瓢箪から駒” ではないが、「企業献金全面禁止」 が法制化できれば、それはそれで立派。
統計的信憑性不明の 「首相にふさわしい人」 全国世論調査では急落したが、
“虎は死んで皮を残す” “小沢はやめて 「企業献金全面禁止」 を残す” ということに
なれば、それはそれで大変立派な業績である。 是非とも頑張ってもらいたい。
もしこれが成功するようだったら民主党に政権を執らせてみようではないか。 ただし
この発言が有耶無耶になってしまう様だったら民主党の政権は拒否したい! 如何なものか。

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ライフステージ [散歩]

このところ天気がいい。今日も見渡す限りの青空、素晴らしい天候で、
気温は20℃近くまで上昇。 上着を脱ぎ捨てベストを羽織るだけでも汗ばむ陽気だった。 
妻とライフステージの話をしながら散歩した。

 晴れわたる 心も軽き 散歩かな

2009-01-23の「ロハス的視点」で、ロハスなライフスタイルというものも、ライフサイクル
(この項ではライフステージ)と同期させると、人々が “ソフトパワー”を発揮して実践する
ことが可能ではないかと書いた。 旅先の本屋で山折哲雄著「ブッダは、なぜ子を捨てたか」
(集英社新書)を見付けた。“四住期”という4つのライフステージの話があった。

“四住期”は、仏教発祥地インド・ヒンドゥー教の理想的生き方の教えで、勉学に励む“学生
(がくしょう)期”、家庭をつくり職業に励む“家住期”、一時的に家を出て夢を実現する
“林住期”、一握りの人間だけが到達できる“遁世期”というライフステージである。
釈迦はそのライフステージに沿い、“林住期”に自己の夢である「悟り」を啓いて、
聖者として“遁世期”に入り、“林住期”で夢を実現しようとしている人を支援した。

“四住期”の考え方は即、現代に通用しないと思うが、重要なヒントが隠されていると思う。
その1つは、人生の後半は、“ソフトパワー”を発揮し、物欲から離れるステージだという
点である。 人生後半のステージまで、物欲に執着する人間に憧れるという人生観にメスを
入れない限り、ロハスなライフスタイルもホンの気休めにしかならないだろう。

釈迦の教えは「無我」、それが日本の仏教では「無私」に変化したという。
日本語ではその違いを明確にすることは難しいように思う。ただ私は以下のように解釈した。
「無私」 は私心を持たず公平であること。但し人間は不完全だから、その公平性は限られた
集団の範囲にしか通用しない。 「無我」 は現象を的確に把握できない不完全な人間である
ことを自覚して、天と共にあること。
「無私」の精神で、派閥を肥やし、私腹を肥やして、家を栄えさせる事が立派なことだと
考える限り、地球は食い荒らされて、砂漠になるしかないだろう。

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2009WBCに思う [希望]

PN2009031601松坂.jpg今日WBCの二次ラウンド緒戦、キューバに6-0で勝っていた。
午前中チラリとテレビで観た。松坂が6回を完封、その後岩隈、
馬原、藤川と継投も完璧。 打も城島、岩村の連打等で勢いづいた。
見事な勝ちパターンでの勝利だった。 (写真は力投の松坂投手)
しかし勝負は時の運である。勝つときもあれば、負けるときもある。

思い出したが、北京オリンピックの時には、何か勝たねばならない
ような雰囲気だった。 あれは、最初のWBCに奇跡的な逆転優勝を
勝ち取ったためだったように思う。今でもオリンピックを国家対抗戦
の如く国威発揚的熱狂で応援する。実際の中身は、阪神ファン同様、
ストレス解消で応援しているのだろうが、何気に “危うさ” を感じるのは私だけか?

昔は、スポーツの全国大会では、各地方の代表校は郷土の誇りを背負って出場した。
地縁、血縁の集団主義がまだ息づいていた時代の話である。 そういうものが何時ごろからか
薄れていった。 それと時を同じくして、国民体育大会などもあまり騒がれなくなった。
そしてまた、日本の古きよき伝統も失われていった。 しかし高校野球熱やオリンピック熱、
プロ野球ファン熱はまだ醒めないようである。  まあいろんな理由があろう。

WBCもオリンピックも選ばれることは名誉かもしれないが、固く考える必要はないと思う。
私自身は変なナショナリズムや勝敗には拘らず、素晴らしい選手達の揃い踏みを楽しみたい。
とは言いながら、やはり日本には勝って欲しい。 だから要らぬことを書く。
「勝って兜の緒を締めよ」 韓国戦も一次ラウンド、緒戦で大勝し、最後には負けた。
前回のWBCでは、日本が同じようにして、敗者復活戦で米国に勝って優勝した。
でも、選手達には何の注文も無い。 お客さんを楽しませる企画だから選手は懸命に
やらねばならないだろうが、選手も観客と一緒に存分に楽しんでもらいたいものだ。
選手の出場は、ボランティア活動のようなもの。勝っても負けても、胸を張って
帰ってきて欲しい。 如何なものか。

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だんだん・23週 [物語]

今週は、松江・初枝(三林京子)の闘病と、京都・のぞみ(三倉佳奈)の女将継承問題が軸となって
展開された。 松江では、医長・中山(宅麻伸)や石橋(山口翔悟)、めぐみ(茉奈)の意見に反し、
忠(吉田栄作)は嘉子(鈴木砂羽)と共に告知拒否という苦渋の決断をした。抗がん剤治療などは
本人に気付かれてしまうから、最近では医者が治療しづらいということで告知のケースが増えたと
いっても、まだまだ一般的とはいえないのだろう。

一方、京都では、強引とも豪腕とも言えるのぞみこと夢花の女将宣言が、久乃(藤村志保)の心の
琴線に触れてお許しが出た。 古都・京都が伝統を残しながらも時代に追随する渋とさの源泉を
明かしてくれるような思い切った展開である。
見所は、のぞみと康太(久保山知洋)のプロポーズへのプロセスだ。 飽くまでも無法松として
のぞみを見守るという康太と、「芸妓をやめるんやで!さいなら」と立ち去りかけるのぞみ。
呼び止めてプロポーズする前に、めぐみに断りを入れる康太の律儀さが微笑ましい。

めぐみからのぞみに相手を替える康太になぜ好感がもてるのか? それは一途に相手を助け
ようという思いが伝わるから、利己的な部分が無いからだ。 のぞみの女将志願もそうである。
「花むら」を残したい一心で下心は無い。 物干し台から携帯で康太に「ほんまは芸妓をやめた
なかった!」という場面がある。 今時流行らない家のための自己犠牲ともいえる。

日本は、国際問題は全て国連決議に従うという。尤もらしい言い方だが、つまりは体制(大勢)
順応ということだ。体制(大勢)順応は、“寄らば大樹の影”という無責任・利己主義がはびこる。
多数決制の罠がそこにある。 のぞみのように即実行はしなくとも、大勢とは別に、キチンと
自分の意見を整理しておくことは大切である。 今回の小沢代表献金疑惑における民主党の
対応は、まさに無責任・利己主義がはびこった大勢順応ととられても仕方ない。
昔、英国のチャーチル元首相は「民主主義は最悪の制度」と発言したことがあるが、
大勢に無責任・利己主義がはびこり多数決制の罠に陥った場合の悲劇を強調したものである。

康太やのぞみの利他主義的態度や、自己犠牲的態度を称揚してまた変な集団主義に陥ることは
真っ平御免であるが、康太やのぞみが、大勢に流されず、自らの思いを貫こうとする姿勢・志は、
民主主義の時代にも、いや民主主義の時代だからこそ大切なものと思う。 如何なものか。

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ストリート・スマート [社会]

DSC0090313文春4月号.JPG文芸春秋4月号(写真)を読んでいて、“ストリート・スマート”という用語を
見かけた。文脈からすると、私の知っている意味と多少ズレがあるような
気がした。外国語は日本語になおすと若干ズレができるし、使い方で意味が
変る。キッとそういうことなのだろう。 
そんなチョッとしたキッカケから、「最近の若者論」に関して、新しい情報が
得られるかと 「日本元気倍増計画」 を丁寧に読み出した。  
今売出中の勝間和代と石原慎太郎の対談記事である。 慎太郎いわく、
「典型的な例として、近頃の若者は失恋しなくなった」 そうである。
「皆あなた(勝間)の本を読んでいるけれど、人の言うことをあんまり熱心に聞くやつは、
なんだかたよりない」 とも仰っている。

“ストリート・スマート”とは、体験をベースに、豊かな人間関係を築き、豊富な知識能力を
実際に現場力、実践力に活かし、難しい問題にも立ち向かっていくタイプだと理解している。
ただ、勝間も言っている様に、無駄なリスクを負わないリスク管理やリスク対策にも積極的な
タイプであることも間違いないだろう。 リスク管理だけをとると、慎太郎の言う、失恋を
しなくなった、頭でっかちとかわらないことになる。 しかしその解釈はおかしい。

さて私の言いたいことは、テレビやゲームの出現で、現代の若者の中には、バーチャル体験と
実体験の順序が入れ替わる事によって見えない束縛を受けたバーチャル人間(現実空間で生き
ている実感のない、いわば幻想空間で生きているような人)が発生しているのではないか?と
いう仮説である。 昔も今も存在する頭でっかち、ガリ勉型、机上主義人間とバーチャル人間
とを識別して、育成・指導していく事が、今後の重要な課題ではないだろうか。

この対談は、勝間の 「断る力」 という本(文芸春秋出版)のコマーシャルのようだった。
勝間は、「断る力で自分の軸をもつことを推奨したいと思います。」 と対談を締めくくった。
現代の若者を元気にさせるには、突込みが足りない対談だった。
余談になるが、“ストリート・スマート” タイプは、日本では秀才タイプとかなんとか、
難癖付けて嫌われるだろうと予測する(但し女性は別か?)。  勝間自身は、
“ストリート・スマート”と見られるのを警戒しているようだが、 如何なものか。

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思慮の陥穽 [社会]

今日は久方ぶりの快晴で、清々しい散歩となった。
お陰で、朝刊でまた検察批判をしていた小沢代表のことを不完全で間違いを犯す人間だという
同情的立場に立てた。 その立場から問題点を明らかにしたいと思う。
そのために、1989(平成1年) 自民党が参院選を大敗した宇野元総理愛人問題 (UI問題と
略す)と、今回の献金疑惑問題 (献疑問題と略す) とを対比させながら説明したい。

UI問題も、献疑問題も、政治に大きな影響を及ぼすか否かという問題に尽きる。
UI問題では、指三本お手当て愛人の存在は疑えない事実かもしれない。しかし、その事実が
政治とどう関係があるのかは本来難しい問題である。 フランスではミッテランに愛人がいた
がゴシップにはならなかった。 少なくとも政治とは関係ないと国民やマスコミは判断した。
日本では政治問題になると判断してマスコミは報道し、議員や国民もそう判断した。 しかし
根本に戻って議論するなら、女と政治の関係はケースバイケースである。
献疑問題は、UI問題と逆で、容疑の段階で公設第一秘書の逮捕をした。
不正な金と政治の関係は法律で定められている。マスコミは国民に知らせるべしとして
公設第一秘書逮捕を報道し、国民や議員は、それぞれ報道と政治との関係を判断した。

どちらの問題も、愛人→政治問題、不正献金疑惑→政治問題、の関係が明確に出来ていない
状態で、マスコミは報道し、国民は、その状況で判断しているという事実を冷静に受け止める
べきではなかろうか? 良くも悪くも、マスコミや国民はそういう行動・判断もあるのだ。

このようなマスコミ・国民だからといって、法律を守る検察が不正追求の手加減をする等は
考えられない。 検察も人間、行き過ぎがあったのであれば、修正していかねばならない。
しかし現段階で検察批判をするのは可笑しい。 あらぬ事か民主党・西岡武夫参院議院運営
委員長が検事総長の証人喚問を主張したという。 新聞等では “検察捜査への国会干渉に
つながりかねない。与党が拒否する方針を確認したのは当然だ。” と批判している。
国会議員も検察も不完全、マスコミや国民も不完全な人間である。そういう現実を踏まえて、
あらかじめ周到なリスク管理・対策を心がけることが、徐々にではあっても問題の本質が見え
明るい未来につながるのではなかろうか? 如何なものか。


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自然観 [希望]

torahiko.syouzou.jpgある事を調べている過程で、寺田寅彦(1878年(明治11年)- 1935年(昭和10年)12月31日 物理学者、随筆家、俳人)の随筆「日本人の自然観」(昭和10年)を読んだ。日本と西欧など外国との自然の違いと生き方、考え方の違いを科学者であると共に、文人でもあった思慮深い視点から述べられている。 例えば次のような話があった。

◎ 蓑とバーバリーコート
  その当時(昭和10年)すでに博物館的存在だった“蓑”を鳥獣の羽毛の
  機構から学んだもので日本の気候的にはバーバリーコートより優れている気がするという。
◎ 和歌や俳句における枕詞(まくらことば)
  枕詞の由来は不詳としながらも、密かに考えている自説を展開している。
  「枕詞は、それが呼び起こす連想によって歌に対する主観の活躍に適した環境を演出する
  役割をするのではないか。」 「日本人的自然観を持つもののみに有効なもの」
寅彦は、文明開化の洗礼を受けて日本人も日本の自然も変わり、また科学技術の発展によって
世界が変化していく事を予想している。そして 「日本人の特異性を大切にすることが日本人の
使命であり、存在理由である。」 と結んでいる。
この随筆を読んでいて、私は改めて日本の自然の変貌と日本人の変質について思いを馳せた。

明治以来、この随筆が書かれた昭和初期までの約70年間の変化、そしてそれから現在までの
約70年間の日本の変化は目を見張るものがあったと思う。概観だけなら寺田寅彦のみていた
日本的景色は少なくなり、西欧と変りなくなりつつある。しかし心や視野は格段に広がっている。
地球温暖化など世界規模の問題から、自然との関係を見直す機運が盛り上がってきた。
日本人は、優しい自然に助けられると共に、地震、風水害など厳しい自然に鍛えられてきた。

自然に異国との差異は少なくなってきたが、幸か不幸か日本人の独自性(特異性)は、寅彦が
満足するか否かは別とすれば相当、維持されていると考えていいだろう。
日本人の独自性は、自然との相互作用で培われ遺伝子となって受け継がれ、国内外の人々と
の交渉の中で、紆余曲折を経ながら、それぞれの人々の中で育っている。
日本人の独自性は自然を尊びながらも一定の距離をとって、寅彦の思惑とは異なる方向かも
しれないが、自律的に自らの個性的な未来を切り開いていると考えるべきだろう。
それぞれに信じる方向に向かって個性的に歩むのみ。 如何なものか。

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利と義と・3 [歴史]

再放送のNHK番組 「知るを楽しむ・松下幸之助:第2回」 の後半でチラリと映った額縁の
“営利と社会正義の調和” というフレーズを見て、その全文が知りたくて、インターネットで
調べまわり、やっとパナソニック社ホームページ・会社情報の中の「社史」から見出した。
パナソニック社によると、1929(昭和4年)に松下幸之助が定めた綱領で「経営基本方針」として
受け継がれているという。松下電器関係者や幸之助崇拝者なら先刻ご承知だろう。
内容は、「営利と社会正義の調和に念慮し、国家産業の発達を図り、社会生活の改善を期す」

巨人・大鵬・玉子焼が嫌いな反体制派(本当は玉子焼だけは好き)、かつパナソニック社とは
無関係・無縁、幸之助のファンでもない私がなぜ、苦労してここまで捜し求めたのか?
それは、2009.01.25のブログ「利と義と」で直江兼続や上杉謙信のことを考えたからである。
松下幸之助も “義” の人ではなかったか? ということを確認したくなったのだ。
この綱領を探しているプロセスで、いくつかの情報が目にとまった。 以下に書く内容を
私は頭から信用しているというのではない。当然、伝説に彩られている部分もあるだろう。
だからこのブログを 「歴史」 に分類している。

◎ 1929(昭和4年)世界恐慌が波及し、企業の倒産等が相次ぐ中、積極経営で従業員を
  一人も解雇することなく不況を乗り切った。工場は止めるが給料はそっくり払う。
  そして手のあいた社員みんなで在庫品を売り歩くことにした。
  3カ月もせずに倉庫はからっぽになったその後の松下電器は、繁栄の一途であった。
◎ 1918(大正7年)創業、90年の間操業を続けている。

1917(大正6年)に樹立したソヴィエト政権は、連邦の成立を経て、1991(昭和56年)に解体
された。 一億人を越える国を束ねるのは大変だ。しかし自国民の支持が得られなかったのは
“義”がなかったといえるだろう。 一方松下電器は今も操業を続けているから “義” がある
とはいえない。だが石油ストーブ等の問題を愚直なまでにフォローする姿はポーズだろうか?
20世紀最大の金融恐慌時、中小企業社長だった幸之助は、従業員の雇用を守ったという。
100年に一度の不況の現代、さて幸之助は、“義” の人といえるだろうか? 如何なものか。

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