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国際感覚② [希望]

昨日は、ピーター・バラカンという欧米の知識人からの日本人に対する忠告に感謝しながら
物語として悲観的なストーリーを展開したが、それを望んでいるのではない事、当然である。
私は私なりに、国の将来を憂いて、最悪のシナリオを回避すべく努力しているだけである。
第二次世界大戦は、人類史上にかつて経験したことのない未曾有の巨大な悲劇である。
人類史上最大の悲劇は何故起こったのだろうか? 昭和3年(1928)張作霖爆殺事件から、
昭和6年(1931)の満州事変を経て、昭和20年(1945)のポツダム宣言受諾までの17年間
個々の段階での結果を踏まえた反省がなかった、あるいは出来なかったからではなかろうか?

プロの世界では結果が全てだという。それは勝利に対する執念の違いから出る言葉だろう。
因果は巡るから、結果を大切に考え、反省し、教訓を生かさなければ勝利に結びつかない。
日本人が、日本の理想を世界に訴えたいという気持は分かるが、スポーツ選手が試合に勝つ
ためには、やるべき事があるように、世界に訴える前にするべき事がある。
それは日本の理想とは何か?を、日本国内での自己満足ではなく、国際社会の中で主張できる
内容につくり上げていく事である。

集団としての日本人は、“欧米に追いつき追い越せ”の目標を失った時に、代わる目標を提示
できない。これは、西暦1467(応仁元年)に始まる日本国内の内乱・戦国時代と類似する。
日本がある程度豊かになり、地域の豪族と中央政府との格差がなくなり、中央政府の重しが
利かなくなった状態と類似する。“欧米に追いつき追い越せ”の目標に代わる目標がなくなり
権力を握りたい様々な人々の、様々な意見が噴出し、取捨できなくなる。そこに、それらの
意見を旨くまとめていくために、閉鎖的な鉄の結束による集団主義が台頭してくるのだ。
強大な鉄の集団は個々の反省力を持たない。そのような集団の主導は、巨大悲劇につながる。
周囲の状況(現代でいえば国際状況)を省みない強大な鉄の集団は、百害あって一利ない。

鳩山首相が‘ツイッター’を始めたという。‘ツイッター’の意味を英語辞書で調べたら、
「余計なことをべらべらしゃべる」というのもあった。閑話、世間話も悪くはないが、
鳩山首相は、普天間基地問題などを、どのような国際感覚で、対処しようとしているのか?
鉄の集団の中で、立ち往生しているのではないのか?親の遺産のある金持ちは、こういう手を
使って人気取りをすることも可能だろう。しかし芸能人ではないのだから、一国の命運を担う
首相として、実力で首相をキープして欲しいと思う。 如何なものか。
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国際感覚 [物語]

「今年の日本の課題を1つだけ挙げよ」と言われたら、私は、“国際関係”と応える。
2009.11.23のブログ「続2・たこ壷社会」に、明治維新から第二次世界大戦の80年間を
起承転結であらわしたが、これを国際関係として捉えると、
起:明治維新(1868)~大日本帝国憲法発布(1889)、国際化に向けた素晴らしい頑張り
承:大日本帝国憲法発布(1889)~日露戦争講和(1904)、自立に向けた頑張り
転:日露戦争講和(1904)~金融恐慌(1927)、日本人的あきらめの美学
結:金融恐慌(1927)~第二次世界大戦終戦(1945)、現実認識の欠けた滅びの美学
という風にも考えられるのではなかろうか?

今朝の朝日新聞に“国際化と日本”という課題に、ピーター・バラカン氏(Peter Barakan
1951年ロンドン生まれ。ロンドン大学日本語学科卒業後、1974年に来日。ロックなどの豊富な
知識を活かして現在フリーのブロードキャスターとして活動。日本在住35年)の、
「開いた社会 対話から」と題した記事が載っていた。‘開いた社会’はカールポパーを
‘対話’は、中島義道の著書「<対話>のない社会」を即座に連想させてくれた。

この記事で最も私が気になったのは、カタカナ英語に関する彼の指摘だった。間違いを指摘
したときの日本人(テレビ局等)の対応が、「決めたことだから変えられない」等と“日本人同士
でわかるのだから間違って何処が悪い”という態度・論理であり、高慢ではないか?との指摘。
この辺に、たこ壷社会日本の本音が顕著に現れている。
ピーター・バラカン氏は日本在住35年だから、テレビ局の人も最早、彼を‘旅の人’、‘よそ者’と
してではなく、仲間内だという気安さから出た言葉であろう。しかしその根は深い。

戦後、必死で欧米に追いつき追い越せと頑張ってきて、日本も外国と対等に付き合えるのだと
思い込んだ途端に、‘内’、‘外’の距離感、現実認識が、忘れ去られてしまうのである。
ピーター・バラカン氏を‘旅の人’、‘よそ者’として扱え!と言っているのでは無い。
彼の指摘に謙虚に耳を傾ける姿勢、正に題名の「開いた社会 対話から」が大切なのである。
彼の指摘は、図らずも日本社会が今もなお、‘内’、‘外’で分け隔てする社会であることを
露呈した。追いつき追い越せの緊張感の解けた日本人は、集団として自己の本質を見据える
事に疲れ、相互の対話もウザッタクなる。そしてあきらめの美学となり、国際感覚を失って
国内の強烈な権力志向の集団に騙され、滅びの美学へと傾斜して行く? 如何なものか。
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羊日(ようじつ) [思い出]

今日は俳句の季語で羊日(ようじつ)とも呼ぶ。仕事始めの日である。地方では、農作業や
山仕事を形だけ行って祝う風習があるらしい。午後の散歩では野焼きの匂いが随所でした。
刈り取った田んぼのあちこちが黒くこげていた。大半は午前中に終えていたのだと思う。

◎ SJ(スロージョギング)で 野焼きに気付く 羊日かな

今朝の新聞で、正月恒例の“箱根駅伝”の総合結果がまとめられていた。私自身、全くの素人
であり、かつ余り興味もないのだが、“箱根駅伝”で私にとっては新鮮だった思い出がある。
数十年前、関東方面に転勤して最初の正月明け・仕事始めの日のことだった。今はどうか?
当時の仕事始めの日には、ホールに集まり皆で年賀の挨拶を交わした後は、各職場でお神酒と
おつまみが出て、ほろ酔い加減になった頃(正午前)にお開きとなり、三々五々初詣などに
繰り出したものである。

その職場でのお神酒とおつまみでの小宴会の時に、事務の女の子が、得意げに“箱根駅伝”の
その年の実績から、過去のあれこれの記憶に残るような名場面のことを話していた。周りの
仲間も、多くは湘南沿線に住んでおり、みな詳しいので盛り上がっていたが、私は蚊帳の外。
まだ高校でたての女の子(高校のテニス部で全国大会には出場実績はあった)が、何でそんなに
“箱根駅伝”に詳しいのか?咄嗟には理解できなかったが、良く聞いているうちにわかった。
彼女の家は、箱根駅伝のコースの近くにあり、ご近所、親戚など含む家族全員が、“箱根駅伝”
を正月の一大イベントとして楽しんでいたのだ。

それで思い出した事がある。私の姉も夏の全国高校野球については、滅茶詳しい時期があった。
甲子園に通い詰めていた高校時代である。その当時住んでいた阪神間では、夏の甲子園には
また特別の思い入れがあった様に思う。家族、知人、そして地域の人々ぐるみで楽しめるもの、
それが、皆を夢中にさせるのではなかろうか?

さて今年の駅伝であるが、復路・優勝の駒大が健闘した。また青学大が、昨年の33年ぶり出場
だけで満足せず、41年ぶりの1桁台の順位(8位)になったのも素晴らしかった。日大は、史上
初の出雲駅伝と全日本大学駅伝を制したチームのシード落ちという不名誉な記録を樹立した。
箱根駅伝の外国人枠1人という制約のためか? 今年の経験をバネにまた頑張って欲しい!
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2009・2010年末年始 [大家族]

大晦日から正月にかけ、快晴にもかかわらず寒波が襲い、寒風吹きすさびだいぶ冷え込んだ。
寒さに弱い私は、年を取ると更に弱くなるのか?散歩や何かで寒い中を活動した後、暖かい
場所で一休みすると、体がほぐれてくるのか、身体全体がだるくなり眠くなってしまう。
大晦日の午後から、今日の午前中まで、3日間にも欠ける68時間という短期間ではあったが
子どもや孫が全員集合してくれた。このところ、2年に一度の頻度ではあるがありがたい事だ。
12.31の午後に岡山に着いた一団を迎えに行き、まずは岡山城と後楽園を案内した。
外は、風花が舞う寒さだったが、皆、元気に駅から歩いていった。

一昨年も同様に岡山城と後楽園を見物する予定だったが、そのときも寒かったので孫達の身を
心配して取りやめたことを思うと、この二年の孫達の成長振りは明らかである。
倉敷に引っ込んでから7.5年の間に、4回(今年を含めると5回)正月に帰ってきてくれたが
必ず孫の誰かが近所のお医者さんのお世話になった。極寒の中、数時間の散歩を楽しめ、かつ
今回は誰も風邪も引かず、元気で医者にも行かなかったのは本当にありがたいことだった。

元旦は初詣や初売りのイオンへ、そして夜は孫達も大活躍のカラオケ大会で盛り上がった。
最高得点は94点:Ryuのパパ(正確にはKotoも一部参加)が優勝した。
Ryuは野球少年だから野球道具を、コウタロもサッカー少年でサッカーボールを持ってきていた。
近所のグランドは、イベントがなければ自由に使わせてくれるので孫達には大人気である。
昨日は、そのグランドで、私や私の子ども夫婦、孫全員に、近所に帰省していた少年も含め
10数人でサッカーや野球に興じた。お陰で、今日は足の筋肉が張っている。
100103_142937_M.jpg
今日は早朝から起きて孫達の帰宅の準備だ。HaruやNatsuは
「帰りたくない!」等と爺・婆泣かせを言ってホロリとさせてくれる。
ジジババ孝行な孫達である。名残は尽きないが、分れ際はシャキッと
改札口で笑顔の別れである。帰宅後は、普段の生活に戻り、
仕事をして、午後はスロージョギングでイオンまで。
その後散歩で酒津公園まで行った。(写真は酒津配水樋門。
ここから西岸用水、西部用水、南部用水、備前樋用水、倉敷用水、八ケ郷用水の6つの用水に
分かれて倉敷市と早島町に農業用水を供給している。)
◎ 正月や また会えるよと 別れけり
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