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私の健康'10.2月 [閑話]

2月の健康状況をまとめておきたいと思う。概要としては当面設定の目標はクリアした。
ただ今月は二十日前後に風邪を引き、熱は出なかったが咳が出て病院に行こうかと思う日が
あった。幸いうがい薬で治ったが、その影響か1月に比べて、運動実施率は落ちている。
健康法の実施結果は以下の通り。
1.万歩記録。合計・345千歩。1日平均・12300歩。1週間平均・86200歩。いずれも目標達成
2.筋トレ。18日実施で0.643と目標実施率の50%以上を達成した。
3.スロージョギング。19日実施で0.679と目標実施率50%以上を達成した。1日平均時間・35.6分
4.ゴルフ素振り、アプローチ、練習場等。11日実施で0.393。目標実施率30%以上を達成した。

今月はバンクーバ五輪が、日本時間:13日~28日(閉会式は3/1)まで華やかに開催された。
鍛え抜かれた心技体が競い合う冬季スポーツの祭典も終わってみると何かわびしい?
私自身は、日常的な生活とほとんど何も変りのない時間だったが、それも今更になると
もっと熱心に見ておけばよかった!などと悔いが残る。美空ひばりの「お祭りマンボ」の
“お祭りすんで日が暮れて、冷たい風の吹く夜は・・・”の哀切なメロディーを思い出す。

先月のハイチ地震(M7.0:2010年1月12日16時53分(現地))に続いて、チリの巨大地震
(M8.8:2010年2月27日3時34分(現地))が発生し当地沿岸部は現在も津波警報発令中。
地球の反対側での地震が影響するのだから恐ろしい。当地は瀬戸内海の多島美を誇る景勝地
だが、こういう時には多島が災いするのか、瀬戸内の津波警報は淡路島南部と岡山だけ。

ともあれ明日からは弥生3月。いよいよ寒く縮こまった心身とも解放の喜びが湧き上がって
くるような心地がする。年をとるごとにそれが強まってくる。如何なものか。


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新聞の品格 [社会]

29年前(1981・昭和56)の今日は、倉敷の気象観測史上最低記録・-8.0℃、岡山は-9.1℃の日である。転勤で横浜に転宅したのは1983年。1981年は、私の一家はまだ倉敷に住んでいた。
それにしては寒さの記憶がないのは、まだ30歳代だったからだろうか。今日は昨日ほどではないが、暖かな日和だった。 ○ 寒暖が 気になる 前期高齢者

今朝の朝日新聞の一面に、“核持込「暗黙の合意」”という記事がデカデカと出ていた。
この記事を一読して、このような記事が一面を飾る事に違和感を覚えた。情報入手ルートも去ることながら、その記事内容の報道上の意義も含めて、十分な検証がなされているのか?大いなる疑問を感じた。もし一般新聞各紙が同様の記事を書いているとすれば、明らかに全体主義への回帰だと感じ、手近に入手できる読売と産経を読み比べてみた。幸いに両紙は「核密約」記事には触れていなかった。現代の新聞はまだそこまで落ちぶれていない事に一安心だった。

私は過去に、2009-09-21敬老と核密約、2009-11-21続・たこ壷型社会、2009-11-23続2・たこ壷社会、2009-12-23核密約問題、等のブログで核密約問題を取り上げて、そのバカバカしさを論じた。日米同盟の故に「幽霊がいるぞ(核があるかも?)!」とフェイントをかけるだけで、米国の核の傘に入ることができる。核の傘に入ることによる核兵器は抑止力に意味があるのだ。
それなのに、そのフェイント(外交術)を廃止し、非核三原則を日本が貫けば、少なくとも直接的な核の傘はなくなり、その分、抑止力がなくなって核被害の可能性は大きくなる。
勿論、米軍ミサイルの命中精度は抜群だろうから遠隔基地からの核支援も強力だろう。しかし日本が核爆弾で破壊されてから報復してもらうより、外交術的抑止力の方が余程良いと思う。

朝日新聞の核密約記事は、そういった根本的な問題を全く検証せず、‘非核’という金の牛に目が眩み、情報を鵜呑みにして流す鳩山政権への提灯記事と思われても仕方がないだろう。
最近新聞紙はインターネット新聞に食われ大打撃と言うが、こんな記事では読者も居なくなる。
新聞紙の利点は、紙面割付による記事の重要度ランク付けである。多忙な人々にとって重点的に記事を読み下せてこその新聞紙だ。多様化した現代ではランク付けに勇気が必要だが、そのランク付けに信頼感が出来れば、読者は付いて来るだろう。最近の新聞読者の耳や目は肥えている。新聞読者は、記事そのものよりも、記事の目的、意味を評価する。これからの新聞紙に求められるのは、一部の有力者、知識人に気に入られる記事ではなく、記者や編集者の品格、新聞の品格ではなかろうか?如何なものか。
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歴代最高のキム・ヨナ [閑話]

今日は朝から雨。散歩に出かけるのも億劫でテレビをつけたら、フィギュアスケートでキム・ヨナの演技を
やっていた。堂々の演技で、ショートプログラムに次いでフリーも歴代最高の得点だった。
ショートプログラム終了後、浅田真央の逆転を期待する日本人が多いらしく、キム・ヨナの余裕
ある態度を、あーだこーだと取り沙汰していた。私はどちらを応援している訳でもないが、追い
かける真央の方が心理的に有利か?それにしてもキム・ヨナの余裕綽々の様子が本物かどうか
気にはなっていた。 そのセイかどうかは分からないが、昨夜 夢に二人の映像(テレビ?)が
現われた。その様子を見て、“私はキム・ヨナの態度は本物だ!正に「人事を尽くして天命を待つ」
というのはこの人のことだ”と(夢の中で)思った。

キム・ヨナは満足のいく演技を終了して興奮はあったが、採点が発表されるまでの間も充実感が
あった。その間の真央は、緊張のためもあったろうが、心なしか動揺が見えた。ヨナの完璧な
演技の影響は明らかだった。ヨナの採点が発表された後はもっと動揺したように見受けた。
真央の後に滑ったロシェットは、母親の急死という悲劇にもめげず立派な滑りだった。また米国
代表・長洲未来は「人がどんな得点をしても関係ない。自分は自分の演技に集中するだけ」と
の事。言葉どおり頑張った。総合順位は、ヨナ、真央、ロシェット、未来、演技順と同じだった。
すべての採点が終了し順位が決まった後も、ヨナは派手な身振りもなく抑制した態度だった。

韓国では、可愛い女の子を「国民の妹」と呼ぶ習慣があるらしいが、キム・ヨナも「国民の妹」に
定着するだろうか? 私は“韓流”ファンではなく、どちらかといえば朝鮮半島には距離を
置く人間で、“韓流”スターなどにはまったく興味がなかったが、キム・ヨナには何か親しみを
感じるのはどういう訳なのだろうか?不思議である。

すべての採点が終了し順位が決まった後も、カメラを意識してか?ヨナは抑制した態度だった。
儒教の国・韓国の作法にかなった態度には感心させられる。今回のオリンピックは国母選手の
服装問題で日本が大騒ぎだったから、韓国チームもそれを意識し、厳しく監督していたのか
も知れない。だが、今回のオリンピックに向けてのヨナ・真央報道の過熱振りを通じて垣間見た
ヨナの一貫した自信とそれに裏打ちされた態度は、決して人の指図でやれる領域ではない。
各国、各地域には多様な文化が花開いているが、その精華の習得こそ、個人的な才能を
開花させる極意であることを、キム・ヨナは自らの行いによって人々に知らしめたのではないか?
そういう意味を含むならば、彼女は「国民の妹」の称号に相応しい。如何なものか。
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トヨタ騒動からの発想 [歴史]

トヨタ自動車のリコール問題は、社長の豊田章男が日本時間2/24の深夜に米議会の下院監視・政府改革委員会で行われた公聴会で証言するという大騒動になった。
公聴会での豊田章男社長の証言と質疑応答内容(以下のURL)は立派なものだったと思う。
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100225/biz1002250727004-n1.htm
自動車騒動では、1973(昭和48)、1979(昭和54)の1次、2次のオイルショックによって米国の自動車産業が打撃を受け日米自動車摩擦を生んだことが脳裏をよぎる。今回もリーマンショックで米国自動車産業は大変な状況になっていることだろう。今回のトヨタ騒動が、品質問題だけではなく、そのような背景と無縁ではないと考えるのが妥当ではなかろうか?

日本自動車産業の今日の隆盛も、元はといえば米国自動車産業のオープンな技術供与があったお陰である。お互い元気なときには切磋琢磨して逞しく成長するべきだが、仲間が病気になったときまで、健康時と同じように自由に競うのは、決してフェアではないだろう?
国家間の競争も、激変する市場に体質が合わなくなった産業については規制を正当化するのではなく、自由競争の中にも思いやりルールがあって良いのではないか?米国が主張している自由主義貿易の歪ということもある?

昔は黙想からのインスピレーションこそ、混乱した世の中を正していくアイデアを得るものだった。
しかし、現代のように人間の知恵が充満した多様な創造の海の嵐は、1つの小さな波が、段々と大きな波を呼び、果ては大津波になるように、哲学的知恵では何の効き目もない。
ワーキング・ウイズダム(実践的知恵)は、ギリシャ哲学の昔から、その価値を哲学的思索からの知恵の下位に位置づけられていたという(Working Wisdom;R.Aubrey&P.M.Cohen,1995)。
しかしトヨタ経営方式をはじめ日本人の実践的知恵は、企業の利益追求というような狭い領域に閉じ込めて置く代物ではない?混乱した社会を正していく知恵となりうる?

ワーキング・ウイズダム(実践的知恵)による文殊の知恵を哲学的知恵の上位に位置づけるという卓越した思考をベースに、社会を改革し世界を救う考え方として、世界に示すべきではないか?
かつて欧米から教わった恩義に報いて。
トヨタは今回、リコールで苦労するだろうが、益々世界に受け入れられるワーキング・ウイズダム(実践的知恵)に磨きをかけて、世界救済思想の先駆けとなれ! 如何なものか。
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参院選予想 [社会]

今日の天気は全国的に晴天だそうだが、当地では日曜日から連日の快晴で、
今日は何と最高気温19℃まで上がる4月中旬並みの暖かさだった。
“三寒四温”という言葉を思い出したが、まだ使用するには適切ではないか?
ちなみに、倉敷の過去最低気温:-8.0℃(1981年2月27日)だという。気象庁の過去のデータ
によると、旬日の平均最低気温は、1月下旬と2月上旬で、同じく-0.3℃だというから、
今頃は、寒さの峠を越えたとはいえ、馬鹿陽気も極寒もあるということらしい。
確実に春は近づきつつあるとはいえ、まだまだ厳しい寒さがぶり返すことだろう。

散歩途中に本屋によったら、「参院選当落予想」というサンデー毎日の見出しが目に入り
買ってしまった。中身は私の期待とは程遠いものだった。結論からいうと、民主党支持率低下
という直近の世論調査結果とは無関係のごとく、民主党が根強く頑張っているという結果だ。
“過半数届かず”という大見出しにかかわらず、民主党の改選議席数は、54→57 その他
増加はみんなの党、0→5 自民党、共産党は変わらず、公明党、11→9、改革クラブ、3→0
社民党、3→2 国民新党、3→1、ということである。結局、改選議席数 与野党共変わらず

普天間問題で鳩山首相が辞任しても、また小沢が辞任しても大勢に大きな影響は無い。
あっても最大5議席だとの事であるが、5議席が上乗せされれば、民主党の単独過半数になる。
民主党の参院単独過半数は、決してあってはならないことである。

私は、この記事を読んで、この予想は、現在、民主党に批判的な人々の購買意欲を考慮した
ものではないかと思ってしまう。民主党寄りの視点から予測すれば、もっと民主党にとって
楽観的な数字が並ぶ可能性があると思う。何故なら、‘地方の不満票は、自民に流れる’、
との予想は、余り根拠が明確では無いからである。1人区の田舎で不満票が自民に流れるなら
なぜ、民主党の議席数が変わらないという予想になるのか?
直近の世論調査で、民主党支持率は30%台で、不支持が40%台と上回ったにもかかわらず、
2人区で民主党が健闘する根拠は何なのか?

参院選はこれから本格的な戦いになる。真冬の時期の日本が無事に明るい春を迎えるために
今年7月の参議院選挙は日本人の大きな岐路であると思う。これからまたいろいろと波乱も
あると思われるが目先の事に流されず将来を見据えて投票しなければ! 如何なものか。
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民主党・官僚支配政策の愚 [社会]

国政における最も主要な課題は、高度成長政策からの骨太な方向転換政策であり、それを国民や官僚と共に具体的に創造して行く事である。一方、長崎県知事選挙での敗北原因について、民主党首脳の鳩山・小沢は「政治と金」問題の影響と公表したようだ。「政治と金」問題なら7月の国政選挙まで影響しないと考えたか?この認識の甘さで、近々「官僚の国会答弁禁止等を盛り込んだ国会改革関連法案」、「政治主導で幹部人事を決める改正国家公務員法」を掲出し、通そうとしている。私の目からは民主党の政策は完全な方向音痴に陥っていると見える。

国会改革関連法案の問題点は、自民党政権下で内閣法制局が事実上握ってきた「憲法解釈権」を問題視している点にある。当然、行政上の「憲法解釈権」が内閣にある事は当然だ。今まで内閣法制局が事実上握ってきたのは、専門的な立場からの意見という事である。行政上主導権が内閣にあるからと党利党略で部下(官僚)の正しい意見を握りつぶす事はできない。部下の意見が間違っているならばそれを正す事が出来てこそ上司(内閣)だ。恐らく内閣法制局は天下国家のために、政党や派閥におもねることなく、専門家として主体性を持って憲法解釈を積重ねてきているのである。そういった一流専門家の意見を大局的な観点から議論し指導できなければ内閣といえども従わざるを得ないのではないか?それを官僚答弁の禁止によって専門家の意見を封殺する等とは内閣のみが正義とするものだ。丸で戦前の“治安維持法” (天皇制のみ正義とし、批判を許さない全体主義という位置づけにおいて)に匹敵する悪法である。

国会改革関連法案の根拠は、小沢幹事長の湾岸戦争時における個人的経験に基づく偏見からでていることは、彼の著書「日本改造計画」のp31-32を読めば明らかだ。17年前の著書を今読むと、彼が政界で生き残るために、自己主張を変化させる人だとわかる。「巧言令色少なきかな、仁」。その中で維持している数少ない主張事項の1つが内閣法制局の憲法解釈権の剥奪なのである。如何に彼が自己中心(ワシ)の正義の主張者であるかが良く分かる。

一般企業の経営陣が、民主党や現政権のような能無しの上に、優秀な部下を働かせる才もないなら早々に倒産するだろう。公務員の人事権にしても、能力の無い上役の評価で組織がうまく動くと思っているのか?内閣・与党が「カモ」「チキン」「アホウドリ」「サギ」「オウム」そして「ハト」と「ワシ」に牛耳られ、陣笠と官僚が風見鶏になってしまったら、国家だって例外ではなくなる。治安維持法発布から第二次大戦終戦まで20年。全体主義化して、“いつか来た道”の崩壊を辿ろうとしているのではないか?20年後に日本沈没は嫌だ! 如何なものか。
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藤田まことを偲ぶ [物語]

今日も昨日に引続き快晴だったが、昨日と反対に、今日は散歩途中から雲が多くなった。
気温は16℃まで上がるとの予想のために薄着で散歩したが、スロージョギングで汗をかき、それで
冷えたのか、結構風が冷たく感じられ鼻汁が出た。気候の変わり目はなかなか複雑である。
俳優・藤田まことがこの世を去って既に5日を経過したが、今日は彼の事を書いておきたい。
2/19の新聞紙上の経歴を見て、「てなもんや三度傘」1962(昭和37)以降しか出ていないので
何か違和感があった。私にとって藤田まことは、もっと古くから知っていた役者だとの記憶が
あるからだ。彼のデビュ作は1957(昭和32)‐1960(昭和35)まで放送の毎週日曜・時代劇
コメディ「びっくり捕物帖」だったと思う。彼の長い顔(馬面)を茶化したテレビ番組で彼は、
「ヒヒィ~ン!」といなないてみせたものだ。その事を面白がると共に、興味深く思ったのは、
端正な顔をした若い男の人が、見栄を捨てて芝居を楽しんでいる姿だった。
1950年代後半(昭和30年代前半)は、彼程の器量なら二枚目で役者になれるし、また人に
笑われる喜劇役者にならないのが常識の時代だった。それはさておき、彼の馬面コントと
「ヒヒィ~ン!」の印象が今蘇って、彼の役者としての生き様に深い感動を覚えるのである。

もう約2年前になるが、2008.03.08~03.13まで、映画「明日への遺言」の感想を書いた
6回のブログ「明日を紡ぐ物語」を書きとめたエネルギーもその延長線だったといまは分かる。
藤田まことは、日本・西欧両方の「空気の支配」に屈しなかった岡田中将の生き様を、自らも
心の深い所で思っていたのではなかろうか?1933(昭和8)生れの彼は、敗戦の焦土から
強く生きるために喜劇役者をこころざした。何か心には深い影があったのではないか?

昨夜、藤田まこと追悼番組「はぐれどり刑事純情派・最終回スペシャル」を観た。
藤田まこと扮するベテラン刑事・安浦(通称やッさん)は、‘はぐれどり’の異名のとおり
いつも上司である川辺課長(島田順司)の指示に従わず、そのためいつも課長は胃が痛む。
しかし今回の話は、川辺課長、署長(梅宮)、安浦の絶妙のコンビが描かれていた。同じ
官僚でも、敵役・本庁のエリート(林泰文)とは違う。現民主党の官僚支配政策は、正に
このドラマの敵役官僚のように全く実情を勘案しない、全体主義・共産主義的政治姿勢だ。
本来、官僚制で糺すべきは、この敵役のような実情を知らず、組織の歯車となって命令に
従う官僚達であり、鳩山や小沢の秘書の様な上司の言いなりになる人間のはずだ。
現民主党の官僚支配政策と戦う政治家や官僚が出てこなければ、安浦刑事に笑われる?
「時代が変わっても変わらぬものをキッチリと主張する」生き様こそ大切?如何なものか。
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日独と時代循環 [歴史]

連日オリンピックのニュースが流され、平和な雰囲気を醸しているが、冬の時代に突入した日本の
陰鬱な気配は一向に晴れそうにもない。雑誌や週刊誌で、民主党や鳩山首相、小沢幹事長に
批判が集中しているのは決して悪い傾向ではないが、その先が見えない中で一般庶民は
大きな不安を抱えていると思う。私もその一人である。そこで暫し歴史を振り返って、
現代の我々の状況を少し客観的に眺める事によって、我々庶民はどういう心構えで
リアリティを把握していけば良いのか?考えてみた。

昨日、“起承転結”サイクル(2009-11-23ブログ参照)を季節に割り振って、現代を冬季の
始まりと位置づけたが、1サイクル前の冬の時代:1920代~1945を振り返ってみた。
この時代は洋の東西、即ち日本とドイツで全体主義化が進行した。その動機や内容は
当然違うものだった。ドイツ・ナチズムの背景には、キリスト教の衰退よるニヒリズムがあった
と言われるが、当時の日本の全体主義は個人の内的問題から発したものではないようだ。
明治維新以後、自由民権運動の挫折と共に、江戸時代の庶民的心の自由も吹き飛んで、
危険思想の持主を庶民間で監視する“隣組”等の組織化により庶民の内面まで監視された。

さて現代の日本を考えた時に、戦後アメリカの指導の下に進めてきた民主政治に対する失望と
その反動のニヒリズムの台頭があるのではなかろうか?そういったニヒリズムが過度な批判精神と
なって朝青龍騒動や国母選手騒動へと揺らぐのではないだろうか?
ナチズムは伝統的な価値観等を破壊する極端な批判に伴う強制的同質化によって出現した?
それに対して朝青龍や国母選手への批判は、伝統的価値観を尊重しすぎる戦後民主化への
過度な批判とも受け取れる。であるならば普天間基地問題も、旧政権(自民党政権)への
過度な批判的行動とも考えられる。現代日本に第二次世界大戦前の国家監視はない。
だが、以上のような事象を冷静に観察する時「過度な批判精神が、従来の戦後の価値や
組織を破壊する」ことによって全体主義が蔓延ることは容易に予想できるだろう。

現代日本人は、戦前の不自由な時代ではないのだから、全体主義等になるはずがないと
思い込んでいる?しかし例にあげたナチスドイツの様に、自由でも全体主義に嵌り込む
のである。大切な事は、「青い鳥はすぐそこにいる」という事に気付くこと。
幻想を追わず現実を見据える事に悦びを見出すこと?如何なものか。
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節気循環と時代 [希望]

今日は昼前から散歩に出たが万歩計を忘れた事に気付いた。20分以上スロージョギングの後で
今更と万歩計なしの散歩になった。散歩中の歩数は簡易推定法で推定した。
歩きは100歩/分、スロージョギング中は150歩/分。今日の散歩中の歩数は、1万2千歩。
偶のインチキだから良いがインチキばかりしていると万歩計も動機付けにならなくなる。

万歩計携帯は重要事項であるにもかかわらず、一寸した準備や着替えの手順で忘れる。
万歩計の携帯忘れ防止策はないか?netで“忘れ防止”、“備忘”等で検索したが
適切な答えは見つかりそうもない。昔から記憶力が良い訳でもなかったから、答えを
急ぐ事もなかろうが、「認知笑」ならぬ「認知症」にはなりたくない。食事のとり方、
身体活動などは予防になるらしいが、具体的な内容は、今後また調査してみたい。

今日は、二十四節気の1つ、「雨水」である。「雨水」は春の訪れを予感させてくれ
私には嬉しい節気であるが、「立春」、「啓蟄」と違い俳句の季語にもなっていない。
両者が目立つので霞むのだろう。しかし二十四節気を時計の24時間に当てはめると
春分が朝の6時、夏至が12時、秋分が18時、冬至が夜中の0時に当たるとすると、
立春は3時、雨水は4時、啓蟄は5時に相当する。
「雨水」が、藤村の小説“夜明け前”ではないが、いよいよ待ちに待った朝が来る
という予感に似た位置づけに思えるのは私だけだろうか?

私の“起承転結”サイクル(2009-11-23ブログ参照)を二十四節気と一日の時刻でいうと、
“起”=立春から穀雨、3時~8時、“承”=立夏から大暑、9時~14時
“転”=立秋から霜降、15時~20時、“結”=立冬から大寒、21時~2時となる。
日本の現在は、“転”から“結”への「立冬」あるいは一日では21時頃であろうか?
今朝のNHK連続テレビ小説「ウェルかめ」で、トキメキ出版が解散になることを
お婆さんは、「終わりは無い。終わりとは始まりだ」と、季節の巡りを引用して
波美(倉科カナ)に新たな門出を予言していた。

我々、日本人は今、冬の時代、真夜中の暗闇の時代に差し掛かっている。これは季節や
時刻の循環と同じように、必ず「春」が、「朝」が巡ってくる。そういう心構えで、
決して焦らず、全体主義に陥ってで誤らないように願いたい。如何なものか。
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国母選手に感謝! [希望]

今日はスノーボード・ハーフパイプのオリンピック競技があり録画して観戦した。残念な結果に終わったが
日本選手は騒動に巻き込まれながらも良く頑張った。私は褒めたいし、ご苦労様と言いたい。
そして、私は個人的に国母選手に対して、心を込めて有難う!と謝意を表したい。
その理由は国母選手が図らずも巻き起こした騒動をキッカケに、色々なことを学ばせてもらった
からである。私が学んだこと、感じたことを取りあえず書きとめておく。

スノーボードの歴史はサーフィンやスケートボードの系統から派生したアメリカ的スポーツである。
スノーボードのユニホームは従来のスケートやスキーと異なり、ダボダボズボンで上着もゆったりしている。
その事からスノーボード競技は、衣服も含めて空中での姿勢コントロールのためのものだと直感した。
選手達の多くは明らかに腰パンで滑っていた。股の下まで垂れ下がっている布を見ながら、
私は最初、水棲動物の水かき(指の間)を思い出したが、次には魚の尾ひれ、鳥の翼を連想した。
股下のズボンの空気抵抗も微妙な制御に寄与しているのではなかろうか?

勿論、腰パンでなくとも姿勢制御できる様になれるだろう。しかし初心者から、そういうノウハウで
上達してきたのだから、それも1つのスポーツ文化だと思う。オリンピック競技になってまだ20年
そこそこの新しいスポーツだから、馴染みのない人も多いだろう。私もその一人だ。だが自分の
狭い了見だけで人を簡単に非難する性癖はあまり頂けない。馴染みがないなら自分の不勉強
を恥じるべき?今回の日本選手団の表情を見ていて、彼らが如何に名誉挽回のために硬く
なっていたか痛いほど伝わってきた。それでなくともオリンピックという大舞台では、緊張の上にも
緊張する。その緊張が国母選手にとって予選では良い結果につながった。しかし仲間達が
今ひとつ波に乗れないのに責任を感じて彼の緊張は極限を超えた?それでも選手達は最後まで
力を振り絞って本当に立派に戦った。国母選手は負傷したが前歯は大丈夫だったろうか?
生涯何度もない貴重な機会だった今回の経験を、これから活かす生き様を期待している。

日本は多神教、欧米は一神教と言われているが、現実の生活でどのように働くかはあまり意識
されていない。私の考えでは、心中の多様性を許容する多神教社会では、現実の社会生活に
不文律的規制があり、結果的に寛容性に乏しい面がある。心中の統一化を図る一神教社会では
心中の価値観を規制するが故に、表面的な多様化現象は、大目に見る寛容性がある。
内向化する現代日本社会では、この不文律的規制が強権を発動し、第二次世界大戦前もそう
だったが、全体主義の暴走社会へと転落する危険性を孕んでいると思う。如何なものか。
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