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昨日のタイトル誤記のお詫び

昨日のブログ・タイトルは、‘「おひさま」105回’とすべきところを
誤って108回としてしまいました。今日の放送を見て気付きました。
昨日のブログについては、タイトル並びにタグを訂正いたしました。
ここにお詫びする次第です。
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「おひさま」105回 [物語]

「おひさま」105回のメインは、何といっても日向子の肺炎闘病話である。
昭和22年には、肺炎の特効薬もなかったのか、本人の体力勝負という事のようだった。
日向子の肺炎闘病にまつわるエピソードが幾つかある。それを列記したい。
1.徳子(樋口可南子)が、女たちと日向子の快癒を祈ってお雛様を飾る。
  娘を病気で亡くした痛み、悲しみを知る徳子は、日向(ひな)と雛との連想から
  普通とは少し変わった雛人形(松本などに特有?)を飾り、無事を祈った。
  桃の節句にはまだ間のある時期ではあったが、何かをせずには居られなかった?
2.付きっ切りで看病していた陽子(井上真央)は、快癒間もない時期に夢を見た。
  それは縁側で、日向子を抱いた陽子が、母・紘子(原田知世)と座っている夢だ。
  陽子が「お母さん、日向子を抱いてやって!」というが、紘子は黙って首を横に振る。
  その夢から、和成(高良健吾)に揺り起こされて日向子の熱が下がったことを知る。
  陽子は、今でも「母が日向子を返してくれた」と、思っている。
3.日向子の病が癒えて職場復帰した陽子に、萩原校長(矢島健一)は、退職勧告の事は
  何も言わず、ただ心から「よかった!」と言ってくれた。「子どもよりも、生徒達を
  優先できるか?」という校長からの退職勧告に伴う課題は、明らかに失格していた。
  にも拘らず、陽子を責めたり、非難しなかったのは何故か?

エピソード1が何を意味するのかは今後の展開を待たねばならないが、徳子が、陽子や
日向子を、並みの嫁や孫として扱っていない事を、形に表現したのは確実な気がする?
エピソード2と3は、教師辞職という相克において、陽子が決断する背景となる心境に
深く関わるポイントになるのではなかろうか?
エピソード3で校長が責めなかったことを、陽子が重く受止めたのは、退職勧告を、
個人と社会の相克という西洋的な理性一辺倒、意識偏重、左脳偏重の図式から一歩
踏み出そうとしている徴候ではないのか?それを予感させるものが、エピソード2に
盛り込まれている。オカルトを完全無視するのも、嵌ってしまうのも問題である。
しかし人間は、意識と無意識、理性と感情・感性など割切れない存在?如何なものか
<蛇足>
今日は、早朝からゴルフ練習の上、真昼の太陽の熱射線が降り注ぐ暑さの中を散歩して
些か疲れた。息子が今年も盆休みの帰郷にゴルフをしたいと言うのでその準備である。
ゴルフ練習の方は、暑さのセイか、練習不足なのか解らないが、散々な結果だった。
ゴルフ本番が今日のような熱射線日和なら、成績は目も当てられない結果になるだろう。
◎ 猛暑日の ゴルフPPKは いただけぬ?
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「おひさま」第18週・1/3 [物語]

今日は土用の丑の日だが、「おひさま」は、昭和22年の第一四半期?長野は寒い?
今週の104回では、萩原校長(矢島健一)から陽子(井上真央)に退職勧告がなされた。
陽子はその帰路、日向子がお世話になっている「村上屋」に寄った時に真知子(マイコ)に
会う。陽子は直にも真知子に相談したかったが、心の整理がつかないで相談できなかった。
陽子は敗戦直後に、教師辞職を決意した後、夏子先生(伊藤歩)に説得されて思い止まった
事がある。ネット上の「おひさま・あらすじ」を参照すると、今回は本当に辞職するらしい。

昭和22年当時は、今では考えられないくらい旧弊な考え方だったから、産休等というものも
明確に制度化されていなかったろうし、乳飲み子を抱えた女性の勤めは難しかった?
私の昭和29年春・小学校卒業時の担任の小母さん先生は、子持ちの共働きだった。勿論
当時、既に子どもさん達は大きかった(私より年上)?だから、優秀な先生は生き残れた?
今回の辞職については、経緯等これから語られるから、社会通念や周囲の人々の考え方から
の考察は置いといて、陽子の「社会的現実と個人的現実の相克」という観点から検討した。

昨日のブログで書いた「社会的現実と個人的現実の相克」とは、「社会的本音or建前と
個人的本音との相克」でもある。個人的建前・意識では折り合っても、本音or無意識では
なかなか折り合いが付かない。その折り合いをどう付けるかが、生き方のキーになる。
折り合い選択方向が負け犬方向でも、犯罪者方向でも問題だろう。折り合い選択方向が、
個人、或いは社会の成長する方向、即ち勝者の選択方向に折り合いを付けるべきだろう。
個人や社会が成長する「勝者の選択方向」は決して単一ではない。選択修正も勿論可能。

前回の教師辞職騒動では、ブログ「2011-07-03「おひさま」第13週」で、陽子の生き方を、
兄達と対比し、「陽子は本音とも建前とも区別できない心境で生きていく」と、私は書いた。
陽子は、本音とも建前とも区別のつかない心境で生きるところに大きな特徴があると思う。
これは言い換えると、意識と無意識の絶妙なバランスで生きているとも言える。

今週これからの2/3の放送で、陽子が教師辞職という課題を日常性の中で、どの様に整理し
克服していくのか?和成(高良健吾)、徳子(樋口可南子)&道夫(串田和美)等の意見、
日向子の事。様々な事情もある。結論は見えているが、それを決断する陽子の心境が、
個人や周りの人々の成長、幸・不幸、そして学校を含む社会の成長に重大な影響を及ぼす。
そこで今週残り2/3の放送を、陽子決断の背景となる心境に注目したい!如何なものか
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他力依存と他力本願 [閑話]

5日間ほど東京圏に行ってきた。孫との交流なども含む気楽な旅だった。それでも
私にとっては、新鮮な刺激を受ける経験になった。前回から時間が経っていたからか?
比較的単調な田園生活(というほど気取ったものではないが)が、既に10年近くなり、
マンネリ化していることなどもあるだろう。環境の変化は、脳を刺激するのだろう。

ある1日、都庁に行く用があり、そのついでに庁内の本屋に立ち寄った。石原慎太郎著
「新・堕落論 副題:我欲と天罰」が目に入り、購入しておいた。帰宅後にこの町1の
大書店に行ってチェックしたが、残念ながら、その時には一冊もなかった。東京圏では、
他にも何軒か書店を覗いたが、何処も山積みだった。都知事だから庁内の本屋に置いた
訳ではなかったろう。田舎と都会の表層的情報格差はなくなったが、深層格差はある?

その本に「他力依存」という言葉を、大阪・池田市の無差別小学生惨殺男に使っていた。
自力では困難な自分自身の処理を、刑法の裁きに依存した、という意味らしい。
その言葉の使い方の是非は暫らく置くとして、そういう人間を「他力依存」というならば
「他力依存」人間は、「他者への配慮」、「感謝」という思考から「他力本願」の対極だ。

「他力依存」人間とは、快楽に溺れ行き着くところまでいった究極の人間像である。
ルネサンス以来、人間はキリスト教的禁欲から開放された、と安直に考えるのは間違い?
ルネサンスは人間を、ガリレオの地動説等で認識した大宇宙に対し小宇宙と位置づけた。
小宇宙には大宇宙に匹敵する素晴らしさがある。だからこそ小宇宙が小宇宙を滅する事は
許されぬ。人間は、人間社会や地球と共生する必要があるのである。

「新・堕落論・・」で慎太郎は「ルネサンス以来文学の主題は、社会的現実と個人的現実の
相克だった。個人が社会で生きていく為には自分を殺さなければならない事が多々あった」
「そういう相克の中で自我を鍛えられるのだが」、「現代は、二つの現実の相克等以前に
文明の過剰な便宜性に押し流されて、自我はただただ摩滅していく」と、書いている。

現代日本社会は、家庭、学校、企業、政治のあり方が「社会的現実と個人的現実の相克」
という本来、人間が鍛えられる場を空洞化する様に、過剰な便宜性を提供し続けている?
二つの現実の相克による、軟弱な精神を鍛える場を失くした人間は、快楽に傾斜する?
「快楽」の基本は、「他者への配慮」、「感謝」の気持を失った行為である。そういう目で
周りの人々の行為をよく観察すると、多くの人が「快楽」に耽っている?如何なものか
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