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有名寺略縁起と心 [歴史]

京都でも指折りの古くて有名なお寺の略縁起を取上げて、現代人の心の問題を考えた。
有名寺とは、清水寺と東寺である。例によって、略縁起は、「続きを読む」に掲載した。
清水寺の縁起には行叡居士、延鎮上人、坂上田村麻呂という特徴的な三人の人物が登場。
行叡居士は二百年、山野で修業した人。延鎮上人は修業の世界に閉じこもってジッとして
いるのではなく、何かもっと積極的な活動をする事を志し、そこから飛び出した人。そして
坂上田村麻呂は、「俗」の世界で積極的に生きる人。これら「聖」と「俗」の人たちが、
力を合わせて「清水寺」を創造した。従来の官製の寺院ではない。これは新しい平安時代を
切開こうとした民衆の思いを、この三人の人物で表現しているのではなかろうか?

平安時代前期が寺院の建設ラッシュだったのは、仏教が、新時代の建設に無くてはならぬ
精神的な支柱であったからではなかろうか? 昔の仏教は、輝かしい存在だった?
仏教が、人間の真実の生き方を教えてくれたからでは? 空海の真言密教は、
「口を慎み、心を清浄にする事で、その身そのままで仏になる」という教えである。
この教えこそが、始めであり、終わりである。(中間はいろいろあろうが)

平安時代の人々は、現代人の様に科学知識などは乏しかっただろう。
だが、生きる苦労は大変なもので、心は、現代人同様に、様々な悩みを抱えていたろう。
従って、悩みを解決してくれる教えには、大変、積極的に取組んだと思う。
人生の教えとは、所詮、どんな困難、不幸、災いにも負けずに積極的に生きる教え。
昔の人々は、そういう生き方ができる方法を教えてくれれば、どんなによろこんだか!
だって、消極的に生きていれば、いつの間にか生命の危機に陥るのだから。

現代人は、消極的に生きていても、手とり足とりで、生かしてくれる。
だから、仏教の教えなど、馬鹿にされてしまうのである。
ところが、そういう消極的な生き方をしている人々の心の中はどうなるのか?
現代人は、消極的に生きる事によって、心が汚れる事に気付いていない。
そして、心を清浄化する方法も知らず、汚れは酷くなり、汚濁まみれの心になる。
現代の様々な犯罪その他の悲劇・問題の要因は、この汚濁まみれの心である。

この汚濁まみれの心の持主が、大津波の様に、大勢が同期して凶暴な活動をすれば
どんなことになる? こういう人災も天災の一種と考えるしかないのでは?
真人間は、心を清浄に、積極的な姿勢を保ち続けるべきであると思う。如何なものか





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