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他力依存と他力本願 [閑話]

5日間ほど東京圏に行ってきた。孫との交流なども含む気楽な旅だった。それでも
私にとっては、新鮮な刺激を受ける経験になった。前回から時間が経っていたからか?
比較的単調な田園生活(というほど気取ったものではないが)が、既に10年近くなり、
マンネリ化していることなどもあるだろう。環境の変化は、脳を刺激するのだろう。

ある1日、都庁に行く用があり、そのついでに庁内の本屋に立ち寄った。石原慎太郎著
「新・堕落論 副題:我欲と天罰」が目に入り、購入しておいた。帰宅後にこの町1の
大書店に行ってチェックしたが、残念ながら、その時には一冊もなかった。東京圏では、
他にも何軒か書店を覗いたが、何処も山積みだった。都知事だから庁内の本屋に置いた
訳ではなかったろう。田舎と都会の表層的情報格差はなくなったが、深層格差はある?

その本に「他力依存」という言葉を、大阪・池田市の無差別小学生惨殺男に使っていた。
自力では困難な自分自身の処理を、刑法の裁きに依存した、という意味らしい。
その言葉の使い方の是非は暫らく置くとして、そういう人間を「他力依存」というならば
「他力依存」人間は、「他者への配慮」、「感謝」という思考から「他力本願」の対極だ。

「他力依存」人間とは、快楽に溺れ行き着くところまでいった究極の人間像である。
ルネサンス以来、人間はキリスト教的禁欲から開放された、と安直に考えるのは間違い?
ルネサンスは人間を、ガリレオの地動説等で認識した大宇宙に対し小宇宙と位置づけた。
小宇宙には大宇宙に匹敵する素晴らしさがある。だからこそ小宇宙が小宇宙を滅する事は
許されぬ。人間は、人間社会や地球と共生する必要があるのである。

「新・堕落論・・」で慎太郎は「ルネサンス以来文学の主題は、社会的現実と個人的現実の
相克だった。個人が社会で生きていく為には自分を殺さなければならない事が多々あった」
「そういう相克の中で自我を鍛えられるのだが」、「現代は、二つの現実の相克等以前に
文明の過剰な便宜性に押し流されて、自我はただただ摩滅していく」と、書いている。

現代日本社会は、家庭、学校、企業、政治のあり方が「社会的現実と個人的現実の相克」
という本来、人間が鍛えられる場を空洞化する様に、過剰な便宜性を提供し続けている?
二つの現実の相克による、軟弱な精神を鍛える場を失くした人間は、快楽に傾斜する?
「快楽」の基本は、「他者への配慮」、「感謝」の気持を失った行為である。そういう目で
周りの人々の行為をよく観察すると、多くの人が「快楽」に耽っている?如何なものか

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