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禅寺縁起等から知る歴史 [歴史]

神社・仏閣にお参りして、その由来書きなどから学ぶことも多い。「門前の小僧 習わぬ経を読む」
ならぬ「参詣の爺 資料から歴史を思う」?今日は禅宗のお寺で頂いた資料を読み解き、私なりの
歴史を整理した。こうすることで、今まで読まなかった、あるいは読んでも気づかなかった事が
色々とあって、面白くてなかなか止められない、とまらない。
私が参詣し、所持している資料を基に作成した大本山の概略を「続きを読む」に掲載した。

日本では、禅宗は、通常、鎌倉時代に興った仏教(鎌倉仏教)に分類される。
しかし、各宗・各派があって、その成立年代は、鎌倉から、南北朝、室町、江戸時代に及ぶ。
禅宗は、栄西禅師(1141-1215)による臨済宗、道元禅師(1200-53)による曹洞宗、
明から来朝した隠元禅師(1592-1673)による黄檗宗、の三宗に分かれている。
臨済宗は14の、曹洞宗には2つの、黄檗宗には1つの、宗派(大本山)がある。
臨済宗の大本山には、例えば、建仁寺派、東福寺派、大徳寺派、妙心寺派、等々がある。
曹洞宗の大本山には、永平寺派、総持寺派、最後の黄檗宗大本山は、万福寺のみである。

禅寺の由来で注目を引くのは、室町時代の足利尊氏によって、大徳寺の五山の地位を一位から
九位に落とした事である。これは大徳寺が、南北朝時代に南朝に加担したためだと考えられる。
足利尊氏が帰依した夢窓疎石(夢窓国師1275-1351)は後醍醐天皇の招きで南禅寺の住持と
なっている。南朝系かと思われたが、尊氏が開基の大本山・天龍寺(1345・創建)の開山
にもなっている。宗教的には中立だった?夢窓疎石は、足利尊氏の北朝方の内紛によって、
尊氏自身も窮地に陥った時に、その調停をして助けてくれた恩義があった。
というか、夢窓疎石は、どんな窮地に陥っても恐れず、素晴らしい解決策を思いつく
真の智慧者であったのだろう。だから尊氏だけでなく多くの帰依者ができたのだろう。

大徳寺が、五山の位を落とされ、また戦乱などで衰退した後、一休さん(1394-1481)に帰依して
大徳寺の復興に力を貸した人々は貴族でも武士でもない、資産家とはいえ、商人であり、芸術家
であった。時代は大きく変化していた。その伝統の中で、豊臣秀吉が、天正10年(1582)
織田信長の葬儀を大徳寺において盛大に行った。そして信長の菩提寺として塔頭寺院・総見院
を建てた。これによって秀吉の政権下にあった各大名が、大徳寺の山内に、こぞって諸院を建立
する事になり、寺勢は一段と高まったという。大徳寺復興の立役者(商人・芸術家)の後継者・
千利休が、秀吉に信長の葬儀を大徳寺で行うように奨めたと思われる。
しかし人間の運命とはわからないもの。大葬儀の7年後、天正17年(1575)、
利休は大徳寺の山門を楼閣に造替する。その時、「自身の木像を楼上に安置」することを
寺から感謝の意味で奨められた。これが千利休の命を縮めた。
利休像は雪駄履きであったために、秀吉から切腹を命じられたのである。如何なものか


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