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禅寺縁起等から知る歴史 [歴史]

神社・仏閣にお参りして、その由来書きなどから学ぶことも多い。「門前の小僧 習わぬ経を読む」
ならぬ「参詣の爺 資料から歴史を思う」?今日は禅宗のお寺で頂いた資料を読み解き、私なりの
歴史を整理した。こうすることで、今まで読まなかった、あるいは読んでも気づかなかった事が
色々とあって、面白くてなかなか止められない、とまらない。
私が参詣し、所持している資料を基に作成した大本山の概略を「続きを読む」に掲載した。

日本では、禅宗は、通常、鎌倉時代に興った仏教(鎌倉仏教)に分類される。
しかし、各宗・各派があって、その成立年代は、鎌倉から、南北朝、室町、江戸時代に及ぶ。
禅宗は、栄西禅師(1141-1215)による臨済宗、道元禅師(1200-53)による曹洞宗、
明から来朝した隠元禅師(1592-1673)による黄檗宗、の三宗に分かれている。
臨済宗は14の、曹洞宗には2つの、黄檗宗には1つの、宗派(大本山)がある。
臨済宗の大本山には、例えば、建仁寺派、東福寺派、大徳寺派、妙心寺派、等々がある。
曹洞宗の大本山には、永平寺派、総持寺派、最後の黄檗宗大本山は、万福寺のみである。

禅寺の由来で注目を引くのは、室町時代の足利尊氏によって、大徳寺の五山の地位を一位から
九位に落とした事である。これは大徳寺が、南北朝時代に南朝に加担したためだと考えられる。
足利尊氏が帰依した夢窓疎石(夢窓国師1275-1351)は後醍醐天皇の招きで南禅寺の住持と
なっている。南朝系かと思われたが、尊氏が開基の大本山・天龍寺(1345・創建)の開山
にもなっている。宗教的には中立だった?夢窓疎石は、足利尊氏の北朝方の内紛によって、
尊氏自身も窮地に陥った時に、その調停をして助けてくれた恩義があった。
というか、夢窓疎石は、どんな窮地に陥っても恐れず、素晴らしい解決策を思いつく
真の智慧者であったのだろう。だから尊氏だけでなく多くの帰依者ができたのだろう。

大徳寺が、五山の位を落とされ、また戦乱などで衰退した後、一休さん(1394-1481)に帰依して
大徳寺の復興に力を貸した人々は貴族でも武士でもない、資産家とはいえ、商人であり、芸術家
であった。時代は大きく変化していた。その伝統の中で、豊臣秀吉が、天正10年(1582)
織田信長の葬儀を大徳寺において盛大に行った。そして信長の菩提寺として塔頭寺院・総見院
を建てた。これによって秀吉の政権下にあった各大名が、大徳寺の山内に、こぞって諸院を建立
する事になり、寺勢は一段と高まったという。大徳寺復興の立役者(商人・芸術家)の後継者・
千利休が、秀吉に信長の葬儀を大徳寺で行うように奨めたと思われる。
しかし人間の運命とはわからないもの。大葬儀の7年後、天正17年(1575)、
利休は大徳寺の山門を楼閣に造替する。その時、「自身の木像を楼上に安置」することを
寺から感謝の意味で奨められた。これが千利休の命を縮めた。
利休像は雪駄履きであったために、秀吉から切腹を命じられたのである。如何なものか


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消極的感情の克服 [大家族]

先日のテレビで小学校の体育館をお化け屋敷にしたイベント話があった。実際に
子ども達が(小さな子は保護者同伴)が、参加している様子が画面に写されていたが、
面白がって楽しんでいる様子が伺われた。怖がって泣いている小さな子どもも居たが。
子どもたちの夏休みの思い出づくりに行っている夏祭のメインイベントらしい。
お化け屋敷が面白い盛りの年代の子ども達は、ワイワイ何度、体験したかを競っていた。

子ども達にとって、そんなにお化け屋敷が面白いのは何故か?私の考えでは、そういう
体験によって、恐怖を克服する強い心が鍛えられる事を、実感できるからだと思う。
こういう事からも、子ども達は、心身を正常に維持する訓練に積極的である事がわかる。
子ども達には、人生を行きぬくのに必要なものを本能的に嗅ぎ分ける能力が備わっている。
そう考えると、恐らく子ども達は、怒り、悲しみ、後悔などの消極的感情反応を克服する
訓練も、また受けたいと願っているだろう。

何故、その様な訓練が必要か?説明の要もないと思うが、念のために書いておく。
人間に、消極的感情反応が継続する場合、身体的に様々な問題が起こる。例えば
体内の血液は、即座にその色や成分に変化を来たし、酸性化などの悪影響で、不健康化?
同様に淋巴液にも波及し、また各種の内分泌、外分泌の作用にも、悪い影響を及ぼす。
恐怖や怒り、悲しみ等の感情の継続は、身体のみならず、精神をも不健康にする。
従って、消極的感情が起こっても、可及的速やかに処理し、抑制する訓練が大切なのだ。

以前お参りした伏見の油懸け地蔵には、次ぎの様な伝説がある。
“ある油商人が地蔵尊の門前で転んで、油桶から大切な油が流出してしまった。
 油を失って落胆したが、残った油を地蔵尊に懸けて供養した。そうしたら商売が
 大いに繁盛して大金持になったという” そこで、その噂を聞きつけた商人たちは
このお地蔵さんに油を懸けて供養すれば、商売繁盛・・・と、油懸け地蔵となった。

この伝説は、油を懸けたから成功したのではなく、感謝の気持で消極的感情を処理して、
常に前向きに商売する積極的精神による努力が、成功の要因であることを示している。
消極的感情を長期化させず、「災い転じて福となす」と言う風に、サラリと処理して、
積極的な明るく、陽気な気持で日々を生きる知恵を、積極的に教育すべきだと思う。
最近の子ども達の教育に、消極的感情克服教育が、如何に不足しているか?を痛感する。
昨日のブログで「おひさま」の川原(金子ノブアキ)は、戦前教育を受けたにもかかわらず
消極的感情で凝り固まってしまったのは、何故か?



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「おひさま」126・127回の意図? [物語]

NHKTV小説「おひさま」の川原(金子ノブアキ)は、ヒロイン・陽子の兄・春樹(田中圭)の
友人として、またヒロインの初恋の人として初期に登場したが、126,127回に意外な姿で
再登場した。彼は、怒っていた。126回は、酔っ払っていたので、唯の酔態とも受け取れた。
しかし127回は、酔いも醒めていたのもかかわらず、憤りをあらわにしていた。

126・127回の意図を探るために、川原のことを初期の登場に遡って考察してみたいと思う。
川原と陽子(井上真央)の出会いは、兄・春樹(田中圭)の友人として安曇野の須藤家に
遊びに来た昭和13年、陽子がまだ女学生(16歳)の頃だった。陽子の一目ぼれ。
その後、陽子が育子(満島ひかり)や真知子(マイコ)と、松本高等学校に遊びに行き、
交流が深まった?といっても、陽子の初恋は、片思いだった。陽子の初恋は、
昭和14年正月、川原が、野中タエ(中村ゆり)を連れてきて、目の前で求婚する事で、
木っ端微塵に砕け散った。川原とタエは、その後、間もなく満州に行ってしまった。

126回は、尾羽打ち枯らして満州から帰国した川原と陽子の再会話だった。夢破れた川原は
丸庵で幸せそうにしている周りの人間に腹を立て、酔っ払って怒鳴り散らす醜態を曝した。
思いがけなく陽子に再会し逃げようとして転倒。気を失う。
127回は、安曇野に行った川原を追いかけて、陽子が慰めようとした場面だ。川原は言う。
「タエは死んだよ。酷い死に方だった。俺に騙されたようなもんだ。何が新天地だ!何が
日本の未来だ!地獄に連れて行ったようなもの!俺がタエにした事は不幸にした事だけ!」
 陽子が“タエさんは幸せだったと思う”という慰めに対して、「ふざけるな!もう良い。
止めてくれ。・・中略・・君の言っている事は奇麗事だよ。死んだ人間が生きている人間の幸せを
願っているなんて。この国の連中は忘れすぎだ。反吐が出るよ!何が新しい時代だ。
俺は嫌だねそんなの!たとえ日本中が忘れて幸せになっても、この気持のまま生き続けて、
この気持のまま死んでいく。そんな人間が居ても良いだろう。」

川原はタエとの結婚を反対された自分の家族に不満で、暖かさを感じていた春樹の家族に
結婚と満州への門出を祝福してもらう。それまで春樹にタエとの仲を内緒にしていたために
陽子の初恋事故も発生した。今思うと川原は、医者になることを期待されていたのに、
高等学校を中退し、タエを連れて初めて満州に渡る、思い込みの激しい自分勝手な人間?
そんな川原だから失恋の煮え湯を飲まされた?にも関わらず陽子は、零落した川原を和成
(高良健吾)の優しい言葉に促されて、安曇野に川原を追った。
「おひさま」の意図は、陽子や和成の優しさと、川原の厳しさとの対比をしたかったのか?
それとも川原の憤りを現代に甦らせ、現代人に何かを感じさせたかったのか?



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「おひさま」第21週 [物語]

この頃の散歩は、真夏の日差しの中にも秋風を感じる。
昨日なども、酒津貯水池の木陰で休むと、心地よい風が水面を渡って挨拶してくれる。
ひなたでも風のある事もあるが、建物や街路樹のひかげさえ、陰が風を起こすのだろうか?
ひなたに風がなくとも僅かな陰でさえ、陰の大きさに比例するように、風が起こる。
夏の散歩では、ひなたは暑くて嫌われものだが、ひかげは実にありがたいものである。

今週の「おひさま」のお題は「ひなたの夢」。人はひなたで夢をみて胸膨らませ
ひかげで夢破れて胸ふさぐ、という循環をしながら、年を経ていくのだろうか?
昭和25年(1950)、丸庵も本物のそばを出せるようになり、外で働いていた若夫婦の
和成(高良健吾)・陽子(井上真央)も、出稼ぎをやめて一緒に丸庵で働く様になった。
育子(満島ひかり)は、東京で街頭録音に度々登場して演説をぶっていた。愛する人・
秦野(中村竜)と結婚した真知子(マイコ)は結婚式も挙げず、会社を二人で起こす夢を
熱く語っていた。親友の二人は、あたらしい時代の波に乗っている?陽子は乗り遅れた?
そんな陽子が、丸庵一家で安曇野に出かけたときに、一家の人たちと夢を語り合った。
陽子の「戦争当時を思うと、一緒にいられるだけで幸せだと思うけれど、もうそこから
少し抜け出しても良いのではないか?」という語り出しから、それぞれの夢が話された。

そしてある日、近所のオバチャン達・宮沢節子(白川由美)・岩本保子(吉村実子)が
宝くじを買ってきた事で、丸庵の人々を含め、当ったらどうするかで盛り上がっていた。
その時に、客の一人がコップを床に叩きつけて怒鳴りだした。「ふざけるな貴様ら!
何が夢だ、何が幸せだ!最低だお前ら!どうなってんだこの国は?すっかりなかった事に
なっているのか戦争は!冗談じゃねえ、よくそんなにへらへら笑っていられるな!」
怒鳴り出した男は陽子の初恋の人・川原(金子ノブアキ)だった。

川原は、大志を抱いて渡った大陸で、希望を失くし、愛する妻を亡くして、失意の中で、
怒りと悲しみの感情をどうすることもできなかった。負の感情で陰気になった日陰の男。
怒り悲しみ等、後向きの感情は、潜在意識に消極的要素を増加させ、人間を消極的にする。
一方、夢や希望は積極的にみえるが、ひなたでは元気でも日陰では萎びてしまう様なもの
ではどうしようもない。和成は「夢のないつまらぬ男だが、強いて言えば幸せになりたい」
と言ったが、それはどういう意味だろうか?幸せとは現在ただいまの事ではないのか?
幸せを追いかけるのは、自分の影を追いかけるのと同じ事ではないか?ひなたも日影も、
夏も冬も、随所にそのよさを感じ取ることでしかないのではないか?如何なものか
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有名寺略縁起と心 [歴史]

京都でも指折りの古くて有名なお寺の略縁起を取上げて、現代人の心の問題を考えた。
有名寺とは、清水寺と東寺である。例によって、略縁起は、「続きを読む」に掲載した。
清水寺の縁起には行叡居士、延鎮上人、坂上田村麻呂という特徴的な三人の人物が登場。
行叡居士は二百年、山野で修業した人。延鎮上人は修業の世界に閉じこもってジッとして
いるのではなく、何かもっと積極的な活動をする事を志し、そこから飛び出した人。そして
坂上田村麻呂は、「俗」の世界で積極的に生きる人。これら「聖」と「俗」の人たちが、
力を合わせて「清水寺」を創造した。従来の官製の寺院ではない。これは新しい平安時代を
切開こうとした民衆の思いを、この三人の人物で表現しているのではなかろうか?

平安時代前期が寺院の建設ラッシュだったのは、仏教が、新時代の建設に無くてはならぬ
精神的な支柱であったからではなかろうか? 昔の仏教は、輝かしい存在だった?
仏教が、人間の真実の生き方を教えてくれたからでは? 空海の真言密教は、
「口を慎み、心を清浄にする事で、その身そのままで仏になる」という教えである。
この教えこそが、始めであり、終わりである。(中間はいろいろあろうが)

平安時代の人々は、現代人の様に科学知識などは乏しかっただろう。
だが、生きる苦労は大変なもので、心は、現代人同様に、様々な悩みを抱えていたろう。
従って、悩みを解決してくれる教えには、大変、積極的に取組んだと思う。
人生の教えとは、所詮、どんな困難、不幸、災いにも負けずに積極的に生きる教え。
昔の人々は、そういう生き方ができる方法を教えてくれれば、どんなによろこんだか!
だって、消極的に生きていれば、いつの間にか生命の危機に陥るのだから。

現代人は、消極的に生きていても、手とり足とりで、生かしてくれる。
だから、仏教の教えなど、馬鹿にされてしまうのである。
ところが、そういう消極的な生き方をしている人々の心の中はどうなるのか?
現代人は、消極的に生きる事によって、心が汚れる事に気付いていない。
そして、心を清浄化する方法も知らず、汚れは酷くなり、汚濁まみれの心になる。
現代の様々な犯罪その他の悲劇・問題の要因は、この汚濁まみれの心である。

この汚濁まみれの心の持主が、大津波の様に、大勢が同期して凶暴な活動をすれば
どんなことになる? こういう人災も天災の一種と考えるしかないのでは?
真人間は、心を清浄に、積極的な姿勢を保ち続けるべきであると思う。如何なものか





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縁起から見える仏教の興亡 [歴史]

私は寺社巡りが好きでよくお参りする。そして必ずといって良い程、由緒書き等を頂く。
昨日の宝福寺縁起でもわかったが、時代によってお寺の興亡があることがわかる。
宝福寺(総社)の場合は平安前半?の創建で、何時頃から廃れたのかは明らかではないが
少なくとも、地方における天台宗の威光は鎌倉時代以降、少し衰えたのではないか?
そして、室町時代に入って、禅宗が興隆したことが伺われるのである。さらにその後、
戦国時代の荒波に揉まれた寺院は、長らく空き家となり、徳川時代に復興された。

同様なことが、他の寺院でにも起こっているのではないか?
そんな観点から、今まで詣でた寺院の中から、適当に選んで調べてみた。
高雄山神護寺(京都)と、再度山大龍寺(兵庫)を選択した。例によって、二つの寺院の
来歴は、「続きを読む」に、略記した。
適当に選んだつもりの二つの寺院だったが、期せずして、場所が中央と地方、創設者が
どちらも和気清麻呂、創建が平安時代の前半、という面白い取り合わせとなった。

宝福寺とあわせて、三つの寺院の縁起を比較検討すると、大体、次ぎの様な事が言える。
1. 創建は、何れも平安時代。宝福寺は日輪大阿闍梨の年代がわからないが、天台宗の後
  だから、やはり平安時代前半の創建?とすれば、三寺院共、平安時代前半の創建。
  どうも、平安時代の前半は、地方も中央も、寺院建設ラッシュ時代だったのでは?
2.平安時代後半の政情不安によって、民衆の心も宗教どころではなくなったのでは?
  戦火や、火災その他の災害もあって、寺院は次第に荒れていったのではないか?
  その中で、高雄山神護寺(京都)だけが、前鎌倉時代に再興(1184)。<真言宗>
  続いて再度山大龍寺(兵庫)、室町時代に再興。(1351)。<真言宗>
  最後に井山宝福寺(岡山)が、室町時代に再興。(1376)。<天台宗→禅宗(臨済)>
3.続く衰退期は、共通的に、戦国時代である。
4.そして、現在の基礎となるのが、徳川時代の復興というのも共通している。
  最も早いのが、やはり中央の京都の神護寺(1623)。
  次が、微差であるが、岡山の宝福寺(1630)。最後が、兵庫の大龍寺(1661-72?)

寺院の縁起というものが、どれ程の信憑性を持つものか?私にはわからない。
しかし、こうして並べて検討してみると、千年を越える時の流れの中で、仏教の興亡を
何がしかは、垣間見る事ができたのではなかろうか?如何なものか

 


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宝福寺縁起 [歴史]

宝福寺駐車場の一隅にある「井山宝福寺の縁起」の案内板について、その説明内容を
ネットで調べてみたが見つからなかったので、今回、忠実に再現してみた。
原文は、「続きを読む」に掲載した。この原文の感想を書いておきたいと思う。

最初に、始祖日輪であるが、千有余年前というと、今だ平安時代の人。西暦900年代?
ネットで出てくる日輪(1272-1359)は池上本門寺系の人で、人違いだと思う。
ネットでは探索できなかった謎の人物。因みに阿闍梨(あじゃり)とはサンスクリットで
「軌範」を意味し、弟子たちの規範となり法を教授する師匠のことだそうである。

次に、天台宗の古刹であったはずの宝福寺が、何故、鈍庵和尚によって、現在の地に伽藍を
建てたのか?900年代?から鈍庵が寺院建立した貞永元年(1232)まで、平安時代から鎌倉
そして室町時代まで、激動の時代を経たのだから、いろいろ紆余曲折が有った事だろう。
兎も角、鈍庵和尚は、円爾弁円(聖一国師)の教えを受けて立派な禅僧になって、故郷に
錦を飾ったのではないか?(鈍庵は、備中国真壁(現在の総社市真壁)出身という)

次に、宝福寺住職としての鈍庵が、時の帝の病気を治した話である。鈍庵は
“新たに壇を築き懇祷した”という。「懇祷」とはどういう意味か?文字通りだと
‘真心を込めて長々と神に訴える’という事になる。“満願の暁に客星が壇前に落ちた”
とは、どういう意味か?「客星」とは、一時的に見える星の事らしいから、ある星が
見えなくなったという事?星の方角が、壇から見て正面にあったという事ではないか?
「この客星が、天皇の病気の源だったが、消えたから大丈夫!」という鈍庵の説明に
元気になる暗示を受けて、天皇は病気が快癒したのではなかろうか?
DSC08823雪舟.JPG
最後に、画聖・雪舟の子どもの頃の逸話に因んだ絵を「仏殿」の中で
見つけたので写真を掲載しておく。最後に少しだけ注文を付けると、
こういう文書には、作成期日を記入すべきである。
この案内板では、画聖雪舟が12歳当時を、540年程前と書いているが、
作成した時期よりも相当年数が経っている?
正確を期すなら作成期日記入を!如何なものか




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雨中散歩とチビ蛙 [和歌・俳句]

今日は二十四節気の1つ・処暑である。残暑も峠を越える頃である。
テレビを見ていて東北地方などで大雨になると聞き、近隣の天気予報を確認したら
やはり雨が降るとなっていた。しかし昨日同様の曇天。大した事はないと思っていた。

午後、雨が降りそうなので慌てて散歩に出たが、既にポツリポツリ降ってきていた。
その内止むだろうと傘差しスロージョギング(SJ)。25分で土砂降りの中、公園着。雨宿り。
一時の激しさは納まったとはいえ、土砂降りの中、また散歩(SJ)を再開。
年に何度もある経験ではない。

散歩(SJ)再開後、今度は、路上にチビ蛙が、無数にいた。
田圃と用水路間のあぜ道(簡易舗装)になったからだろう。
小さな石ころ程度の大きさで、ジッとしていると石ころと間違えて踏み潰しそう。
色も、グレーか濃い茶色で見分け困難? 何という種類か?今頃、子ども蛙でもあるまい。
幸い、私の足音が雨脚の音と違うのか?大体は近づくと、ピョンピョン飛び跳ねてくれる。

路上のチビ蛙は、田圃から出てきたのか?用水路から出てきたのか?
何処へ行こうとしているのか? 私が近づくと、おおむね田圃側に跳ねたようだ。
ならば用水路から現れたのか? しかし用水路から飛び出すのは難しかろう?

幅の狭いあぜ道で、用水路に近いチビ蛙が、断続して二匹、用水路にジャンプするのを見た。
私が近づいたから、驚いて発作的に飛び込んだ?
やはり、田圃で生れて、雨に浮かれて路上に飛び出してきたのか?
広い世界が見たかったのか?
狭い蛙社会に嫌気がさしたのか?
仲間はまた戻ったやつも多いのに、お前達は、二度と戻れぬ旅に出たのか?
私は、迷っていたお前達の運命を変えてしまったのか?
それとも、決断ができたと、感謝してもらえるのか?

◎ チビ蛙 旅路の無事を 祈ります
◎ 大宇宙 どれだけ感じる チビ蛙
◎ 人生に 悔いを残すな チビ蛙
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散歩の変容に思う [散歩]

今日は曇天だったが、時折雲が切れて、強烈な熱射光線に曝される散歩だった。
昨日とは異なった散歩コースだったが、昨日見つからなかった稲の花を見つけた。稲の花の
ひとつひとつはたった2時間しか咲いていないという。(ブログ・散歩'09_0827参照)
昨年(2010)は稲の花に注意が届かなかった様だ。毎日、散歩に明け暮れているが、どうも
散歩の変化に気付いた。その変化を変容(transformation)と捉えてみた。

タイトルを“散歩”の語句で検索抽出したブログ(4年以上前から作成)を基に、
我が散歩の変容について考察した。ヒットした検索結果は、合計85件。年別には
2007:11件、2008:17件、2009:40件、2010:7件、2011:10件。
私のブログは二つ(まどか[2007/2008]、円卓[2009-2011])に分かれている。
ブログの[散歩]分類では、まどか・244件に対して、円卓・56件。
まどかの[散歩]分類は、検索結果と隔たりがある。まどかでは、分類項目2つ選択可能
だった為、半数くらいは散歩にも分類していた事が、大きな原因であると思われる。

さて検索結果のブログを古い順に読み返してみた。最初はいわゆる散歩話。そこから
わかる事は、散歩をいかに楽しむか?明日もまた散歩を継続する力を得たいという気持。
それが、2008年になると少し、遠出(近場が多いが)の話が、多くなってきた。
近所の散歩話ではタネが尽きてしまうからだ。それはまた、近所の散歩に多少、魅力が
無くなってきたことを意味するのではないか?そして、それは散歩によって体力が増進。
散歩だけでは、体力的に飽き足りなくなっていると思われる。その事を窺わせるのが、
2008-12-18のブログ「散歩と体力」である。散歩になれて「省エネ歩行」になることを
赤ちゃんが、寒いからと言って靴下を履かせると転ぶ話と対比させて記述している。
2009年に入り、それでもカメラを使ったりして、何とか散歩を盛り立てている。
そして06-17のブログ「魔法の運動・2」から、おッかなビックリのスロージョギングを開始。
さらに09-30のブログ「散歩と坐禅」では、散歩を精神的な面で捉えようとしている。
今日までの経過から、単純な健康作りの散歩が、「省エネ歩行」の習得による物足らなさ
を補う為に、スロージョギングによる体力強化と精神力強化との両方を狙っていた事が解る。

この様な私の散歩における変容の狙いは間違っていないとは思うが、今現在を省みると
体力強化の方にぶれ過ぎているのでは?と反省する。スロージョギング中も精神統一可能か?
研究課題である。また散歩も程々にして、家事手伝い等、妻の喜ぶような事をするのも
精神力強化に大切な要素である。まだまだ散歩の変容は必要? 如何なものか
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「おひさま」第20週 [物語]

今週の私が興味を引いた点を、感想を含めて少し書いておこう。
陽子の夜間私塾が洋裁にまで発展したのは意外な展開。当時、洋裁学校が流行と聞けば、
そうだったかな?と思う位で確かな記憶はないが、ケイコ(石橋杏奈)やハナ(土屋太鳳)
の要望を聴いてやる陽子の優しさがうれしい。陽子や徳子(樋口可南子)が参加するのは
裁縫の望月先生(梅沢昌代)の謝礼の為だと思う。ケイコとハナの謝礼も中々良かった。
タケオに陽子を憧れの人と打ち明けられ、嫁になるミツ(安藤サクラ)は、タケオを一発
張り飛ばしてから陽子(井上真央)に会いに行った。なかなか性根の座った女性である。
黙って帰るつもりだったのに、陽子を見て、ミツの気が変わって話しかけた。陽子は、真昼
ギラギラ輝く太陽ではない。春 あけぼのの朝日か?秋 夕暮れ時の夕日か?陽子のよさは
人をホッとさせ、人の心を自然に開かせるところではなかろうか?
須藤家に祝福されるタケオ(柄本時生)の笑いっぱなしの顔と、現代のタケオ(犬塚弘)の
照れた幸せそうな顔が印象的だった。子ども6人、孫8人、曾孫2人、ミツも健在という。

最後は陽子の職場の話。日向子が泣いて同僚の男が文句を言った時の顛末である。
先輩の田所良子(紺野まひる)は、どこか冷たそうな女性。陽子はいつも針の筵状態?
それでも、頑張って日向子をつれて働いていたが、同僚の男・竹内(野間口徹)が又も
文句を言い出した。陽子も、「もう限界だ」と、心中観念した時だった。ついに良子も
「いい加減にしてもらえませんか!」と啖呵を切った。それが陽子にではなく、竹内への
文句だったのは予想外。日向子の存在が仕事の成績に影響していない事、竹内の仕事が
日向子に関係なく杜撰なこと、自分と陽子はノーミスだった事を理路整然と捲し立てた。
竹内はグーの根も出ず「おやき」を買ってご機嫌をとる始末だった。良子も陽子と同じ
出征前日に結婚式を挙げたのだが、良子の旦那様は帰って来なかった。それが孤独の影?

NHKTV小説「おひさま」も今週で4/5を経過した。第20週の最後・第120回のラストは、
昭和25年(1950)の春に跳ぶ所で終了。物語の最初が、昭和7年(1932)。今週末まで
通算で約18年という事になる。私の「おひさま」ブログ等を基に調べると、第一期は、
昭和7年(1932)から昭和13・4年(1938・9)頃。第二期は、それから昭和18年(1943)頃。
第15週の最後は昭和21年(1946)秋の陽子の妊娠、祖母・富士子(渡辺美佐子)の訪問等。
従って4/5は、第一期:6~7年、第二期:4~5年、第三期:約3年、第四期:約4年、になる。
兎も角、今までの時間配分から見れば、物語「おひさま」の力点は、第三期、第四期にある?
第五期は単純予測では、60年間を1/5で語るのだから、最も内容が薄くなる可能性があるが、
もし最も濃い内容なら正味1~2年の物語になる?5週間の配分が見もの?如何なものか
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