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古今・新古今の季節感 [和歌・俳句]

前回・2011-08-15のブログ「8月の秋歌」で、古今集の季節感に何か違和感を持った。
それは旧暦と新暦といった違いだけではなく、何か「認識度」と言った漠然とした違いを
感じたので、その原因を、いろいろと探求してみたが、なかなか答が見えてこない。
とりあえず、今日の所は、少し調べた結果をまとめておきたいと思う。

古今集は延喜5年(905)成立。新古今集は元久2年(1205)成立。300年の歳月の違いを
古今・新古今の序文に着目して、「季節感という認識の仕方」の違いを直接に捉えたい。
◎ 最初に、古今集の序文に見える季節に関連する言葉である。
1.花に鳴くうぐいす、水にすむかはづ(蛙)の声=歌の源流として引用。
  真名序では、“春の鶯、花の中で囀り、秋の蝉(せみ)の樹上に吟う”
2.花をめで、鳥をうらやみ、霞に趣きを感じ、露をいとしく思う。=歌を詠む心情。
3.柿本人麻呂(660年頃 - 720年頃)と山部 赤人(生年不詳 - 天平8年(736年)?)を
  二歌聖として記述している部分にも、もみじや梅、すみれの和歌が引用されている。
 * 立田川紅葉乱れて流るめり 渡らば錦なかや絶えなむ 古今283 作者諸説あり
 * 梅の花それとも見えず久方の あまぎる雪のなべて降れれば 古今334 柿本作?
 * 春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ 野を懐かしみ一夜寝にける 万葉1424
  この和歌は、山部宿禰赤人の歌四首の一首として記述されているから山部赤人の作。

◎ 次に、新古今集の序文に見える季節に関連する言葉。=歌を詠む心情。
  春霞立田の山に初花をしのぶより、夏は妻恋ひする神なびの郭公、
  秋は風にちる葛城の 紅葉、冬は白たへの富士の高嶺に雪つもる年の暮
これら、四季に事寄せた言葉のすべては、和歌から取り出して連ねたもの。

春:行かむ人来む人しのべ春霞 立田の山のはつざくら花 中納言家持 新古今85
 行き交う人たちに伝えたいという、立田の山のさくら花に感動した気持が溢れている。
 大伴家持(養老2年(718年)頃 - 延暦4年(785))は奈良時代の貴族・歌人。
夏:神なびの石瀬の森のほととぎす 毛無しの丘に何時か来鳴かむ 志貴皇子 万葉1466
 神の住まうという石瀬の森のほととぎすが来るのを待つという本当の意味は?
 志貴皇子(668年? - 716)は、飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。
秋:飛鳥川もみぢばながる葛城の 山の秋風吹きぞ敷くらし 柿本人麻呂 新古今541
 万葉集は、明日香河もみぢ葉ながる葛城の 山の木の葉は今し散るらし 万葉2210
冬:田子の浦に打ちいでてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ 赤人 新古今675
 万葉集は、田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ 富士の高嶺に雪は降りける 万葉318


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8月の秋歌 [和歌・俳句]

8月の秋歌で有名なのは、藤原敏行朝臣の「秋きぬと目にはさやかにみえねども・・・」と
立秋の日に詠った作品であるが、その他に、8月の秋歌として余り知られた歌はない。
今日は、66回目の終戦記念日であるが、ふと、8月の秋歌を読みたくなった。
一番身近にある「古今和歌集」の秋歌・上を紐解いて、8月の秋歌であることが確実と
思われるものを調べたが、七夕に関係するものが多かった。

七夕は、奈良時代に伝わった中国の伝統行事が、日本の棚機津女(たなばたつめ)という
伝説と習合して生まれた言葉である。日本では旧暦の7月7日に行われた。
因みに、この四年間の旧暦の7月7日が、新暦(太陽暦)の何月何日に当るか?
2008年:8月7日(立秋と同日) 2009年:8月26日 2010年:8月16日 2011年:8月6日

「古今和歌集」の8月の秋歌には、例えば、以下のような七夕に因む和歌がある。
◎ 秋風の吹きにし日より久方の あまの川原にたたぬ日はなし (よみびとしらず)
◎ 久方の天の川原の渡し守 君渡りなば楫(かぢ)隠してよ (よみびとしらず)
◎ 恋ひ恋ひて会う夜は今宵天の川 霧立ちわたり明けずもあらなむ (よみびとしらず)
 これらの3句は織女の気持を詠った。但し、旧暦7月7日は、立秋の前に来る事もある。
従って最初の句は、今年の様に織女が川原に立たぬ内に七夕になってしまう年もある。
第二句 織女の牽牛を帰したくない気持は分るが、七夕の伝説では、渡し守は出てこない?
伝説では、カササギが、もみぢを橋にして渡る事ができるというストーリーになっている。
しかし仮に渡し守が渡してくれるのなら、これも天帝の命令でしてくれるのだろう。ならば
渡し守に泣きつくストーリーも頷ける気がする。楫(かぢ)隠したら渡し守も帰れぬが。
第三句 恋焦がれ、今宵は逢瀬の天の河。折りしも天の河に雲がかかる。それを作者は
河霧に見立て霧が立ち込めて夜が明けないで欲しい織女の気持を詠った?“やらずの霧”

◎ 天の河もみぢを橋に渡せばや たなばたつめの秋をしもまつ (よみびとしらず)
  カササギの作る橋に使うという紅葉。その紅葉が散り敷くのを織女は待っているのか?
◎ 天の河浅瀬しら浪たどりつつ 渡り果てねば明けぞしにける (紀 友則)
 この紀友則の句から、宮廷の殿上人も七夕に深い関心があった事がわかる。
寛平年間(889-895)宇多天皇の御代・菅原道真の健在な時代の七夕の夜に、殿上人が
和歌を献上しなければならなかったので、代理で詠んだ句だという前書きがある。
 この歌の意味は、白浪の立つ浅瀬を辿って天の河を渡ろうとした牽牛が、渡切らぬ内に
夜が明けて織女と会えなかったという。この歌には後世長文の批評あり。その解釈によれば
待つ時間と逢瀬の時間の対比で実際は会っていても会わないに等しいという意味だという。

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「おひさま」第19週 [物語]

TV小説「おひさま」も19週を過ぎ、112回で全体の3/4を経過した事になる。
物語の中間点が、昭和20年(1945)終戦記念日だから、それから2年弱で1/4を費やした。
物語の最初の1/4時点は、昭和16年、陽子が国民学校に教師として赴任した話であった。
文章の“起承転結”でいうと、終戦から今週の話までが「転」。これからが「結」となる。

第112回の話は、白紙同盟三人(井上真央、満島ひかり、マイコ)が、村上堂に集合し、
それぞれの再出発の話をする。育子は、再び東京の出版社に就職。真知子は、結婚を前提の
交際。そして陽子は、教師から食品会社の経理に赤ちゃん同伴で就職。
他にも、かつての女学校時代の裁縫の望月先生(梅沢昌代)の退職と洋裁教室へ転進。
教え子だったケイコ(石橋杏奈)やハナ(土屋太鳳)が、陽子の「夜学教室」に通うのも
再出発のつもりなのだろう。茂樹(永山絢斗)も医者への転進を決意した。
従って、“起承転結”の「転」は、それぞれの再出発の過程を意味しているのだろう。
思い返せば、陽子は終戦直後、教師退職を考えた。陽子は戦前の教育に携わった者として
責任をとるべきだと思っていた?「転」期の1/4は、そういう転進の期間とも考えられる。

再出発以外の「転」について、第19週は何を語っているのだろうか?と考えてみた。
注目したいのが、8/9(110)、陽子が「過去のつらかった事を忘れて良いのか?記憶が
薄れていく自分が後ろめたい」と語っている部分である。もう一つ、おしめ洗濯の場面。
陽子が盥と洗濯板で洗濯したおしめを、満艦色に干した状況の中で、幸せを噛み締める。
干し物がよく乾く好天に感謝する気持を含め、労働の喜びが伝わってくる場面であった。
洗濯機は愚か乾燥機まで自動的に実施できる現代、この幸せ感を想像する事も出来ない?
洗濯板で洗濯するのは楽な仕事ではない。冬はヒビ・アカギレ等にもなる辛い仕事である。
便利になるから却って、労働の喜びも、自然への感謝の気持も、どんどん失われていく。
従って、もう一つの「転」は、「過去のつらかった事を忘れて良いのか?」という陽子の
問いかけに対する和成(高良健吾)の答「忘れずに、しあわせになりたい」生き方の選択。
その辺りに戦後復興のやり方を反省し、日本的良さを活かす道があるのではなかろうか?

私は2011-07-07のブログ「おひさま三人娘」で「おひさま」の魅力は「聖」でも「俗」でも
ない世界(社会)における生き様を描こうとしているのではないか?と、書いた。そして
陽子は「転」期で、右脳と左脳のバランスのとれた本当の生き方を選択したのではないか?
これからの「結」期の物語は、あまり起伏のない平凡な物語に終始するかもしれない。だが
聖・俗を超えで生きるという視点から観るとまた違う風景が見えるかも? 如何なものか
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成羽美術館・虎次郎と楽山 [歴史]

昨日は、息子の郷里での夏休み最終日。成羽美術館(旧成羽町美術館)に行ってきた。
丁度、生誕130年記念展「綜合デザイナー児島虎次郎~生活の芸術化をめざして」を開催
しており、画家・虎次郎のユニークな側面を知った。期間:7/16(土)~10/10(月)

今回の展示では、これまで紹介される機会の少なかった虎次郎の近代西洋陶器を中心とする
工芸コレクションや彼自身の木工、陶芸、デザインの仕事などが紹介されていた。URL参照
http://www.kibi.ne.jp/~n-museum/design.html
また虎次郎は、大原孫三郎が推進する倉敷の特産品創出の担い手として様々な形で協力、
さらに特産品の制作や指導に当たっていた事が、近年の調査から明らかになったという。
その具体的な形になったモノとして、虎次郎の「楽山園」の門のデザインを例に挙げた。

「楽山園」は、大正2年(1913年)に大原孫三郎氏が、当時、既に果樹園芸界の大家である
小山益太翁(号・楽山1861-1924)を招いて開いた理想的な高級果樹園だったという。
小山楽山は、現代のくだもの王国・岡山を築いた偉大な指導者である。詳しくは以下URL
http://www.rib.okayama-u.ac.jp/HP2010/profile/info_koyama.html

大原孫三郎氏は、小山氏の功績を記念して、果樹園の名前を楽山園と改称したという。
虎次郎の「楽山園」の門のデザインは、その時・大正13年(1924)に制作された。
大原孫三郎が推進する倉敷の特産品創出という大仕事には、まさに人の心が籠っていた。
素晴らしい才能を持った人々が、金のためではなく、素晴らしい日本の未来のために
互いに思いやり、助け合って、立場立場の仕事をやり遂げ、成果を上げたのである。

最後に、小山楽山を簡単に紹介しておこう。詳しくは、以下のURL参照
http://e-h.mo-blog.jp/kurasiki/2010/03/post_472d.html
文久元年九月(1861)岡山県磐梨郡稗田村(現・赤磐市稗田)の代々名主役を務める
精農家に生まれた。農業果樹栽培に志した楽山は、裏山を切開き、交配・病害虫防除等の
技術開発を独学にて行い、桃 葡萄 梨 柿 等々の果樹栽培の振興に専念した。
発明した六液という石油侵出法による除虫菊の石油乳剤は、優れた農薬として明治から
昭和初期まで全国的に利用されたという。大原孫三郎は、大正三年(1914)、小山益太を
大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)の創立時に園芸部・指導者として
招いた。益太の門下生で大久保重五郎氏は日本の産地で中心品種白桃を創生した。
大正十三年七月(1924)、当初の園名「名田山果樹園」園内で逝去された。如何なものか
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お盆・父子ゴルフ4年目 [大家族]

お盆・父子ゴルフ対決も4年目になった。猛暑に鍛える励みとなるから継続できるのか?
Shinの盆休み・父子ゴルフ対決前日は、恒例の「空港から観光案内」となった。従って
昨日は福山・鞆の浦に行き、昼食は“千とせ”で、千とせ定食(平日ランチサービス)を
頂いた。(詳しくは、以下のURLを参照。http://www.kimuhiro.net/chitose.htm
千とせは、活魚料理・鯛めしが有名である。瀬戸内の鯛は有名だが、鞆の浦の鯛網は
昔から名高かった。鯛の浜焼(編み笠に挟んで半分に折った包装形態)は、昔は毎年、
両親の知合いから送られてきたものである。
201108101539アブト.jpg
鞆の浦の旧市街地は道路が狭く、徒歩見物になるが、町全体に情緒がある。
市街見物途中で、鞆の浦・歴史民俗資料館を見物した。資料館の高台からの
景色は眺望絶佳、素晴らしい。鞆の浦の次は、阿伏兎観音(写真参照)
その景観は一度見ると忘れられない。磐台寺「阿伏兎(あぶと)の観音」の
名は、阿伏兎岬岩頭上の観音堂に観世音菩薩を安置されている事に因む。
磐台寺は暦応年間(1338-1342)覚叟建智によって開かれたが、一時荒廃。
後に漁師が霊夢により阿伏兎岬沖海中から観音像を拾いあげ、岬の岩上に
安置した。多くの人々の信仰を得るようになり、毛利輝元によって、元亀年間(1570-1573)
に観音堂と共に再建されたといわれる。

観光案内はこの程度にして、父子ゴルフ対決・4年目の結果を書き止めておく。
Shinは、ゴルフを始めて5年を経過したそうな。あまり練習もしていない様だが、
確実に進歩している。ドライバーの飛距離が随分伸びた。それと共に、確実性も上がった。
過去3年間の戦績を振り返ると、徐々に追い上げられ、昨年、遂にShinに華を持たせた。
今回、私は、事情もあったがロクに練習しなかった。負けを覚悟したからではないと思う。
もう、今年は勝負に拘っていなかった。どちらかというと、体力持久が課題だった。
予約を取った知らせのメールで、「体調が今ひとつ」と、言ってやったのは嘘ではない。
Shinは、その返信メールで、「ゴルフの調子は下がりっぱなし」と言って来たが真実か?

今日は快晴のスポーツ日和。ラウンド前に少し練習したが当たりが悪く、今日の調子が
思いやられた。8:14スタートで、暑さも程々。なんだかゴルフ場の風が心地よかった。
結局、1ラウンドして終わったら、12:30過ぎ。本当の暑くなる前に終える事ができた。
二人の成績は、どちらも芳しくなかったが、ショットは、二人共にある程度満足できた。
二人共、課題はパットだった。第4回目のゴルフ対決は、グロス互角? 如何なものか
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騒がしい日 [歴史]

世の中は騒がしい。英国では暴動騒ぎ。株は世界同時安で、日経平均は9千円台割れ。
民主党の代表選出馬の噂も喧しい。野田佳彦、小沢一郎、馬淵澄夫、菅直人、前原誠司、
仙谷由人、小沢鋭仁、海江田万里、鹿野道彦などの名前が取り沙汰されている。
政権交代から、丸二年、今の内に総理や、大臣になっておかないと当分なれない?

日本社会は、タヌキと狐の化かし合いの場であり、真面目な人間はバカを見る?
書類の整理をしていたら、どこかの研究会で入手した坂井三郎氏の資料が出てきた。
著書の抜粋で、「下士官から見た日本海軍」と題されているA42頁の資料である。
そこには、当時海軍航空本部技術部長だった山本五十六少将が、精神偏重に目が眩み、
部下の進言する技術開発を軽視している様が、生々しく記述されていた。
山本五十六も、技術開発が重要なこと位わかっているだろうが、個人と社会との相克で
自己の出世を望めば、意に沿わない事も、自分を殺して、反対しなければならない。
当時、飛行機を重視していなかった日本軍では、個人と社会との相克で自分を殺して、
自己の出世を望んだ人間か、精神偏重主義の人間が、日本軍の主導権を握ったのでは?

資料は、また、アメリカ軍と日本軍の違いをあからさまに指摘していた。
アメリカ軍は一人の搭乗員でも不時着すれば、飛行艇や潜水艦やで全力出して救助する。
日本は救助なんか来ない。「捕虜になるな、やられたら体当たりしろ」、正に使い捨て。

第二次世界大戦後の日本社会は、精神偏重主義を訂正しようとした。しかし、今度は
科学技術偏重主義になったのではないか?その結果が、東日本大震災による原発被害の
拡大につながった? これも人間の使い捨てが背景にある?その根本的な問題は何か?
私は、対立する意見を持つもの同志の対話・議論をしない日本人の体質にあると思う。
資料における戦前の日本海軍の実態からも明らかであるが、意見を異にするグループは
派閥をなし、交流を妨げている。中根千枝の「タテ社会の人間関係」という風俗・習慣
を、継続する限り、どうにもならない?大連合などという「大政翼賛会」の様なものは
風俗・習慣を破るのではなく、増々、集団が烏合の衆と化すだけであろう。
口で国民のことを考えている様な政治家でも、国会が党利・党略の場である限り、
国民は、使い捨てと考えられているのである。そして、国民も、人は使い捨てでも
自分達だけは補償の分け前に与かろうと、税金分捕り合戦で頑張るのである。
所詮、日本社会に限らず、社会は化かし合いの場?社会でまともに生き残るためには
歴戦の撃墜王・坂井三郎氏の如く、不死身or不死鳥になるのが理想? 如何なものか
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立秋と「おひさま」 [閑話]

今日は早、立秋。 ◎ 昨日の 空に秋立つ 気配して
昨日の空に、秋の気配を感じたが、今日の散歩途中、曇空になり、午後三時を過ぎて
突然、秋の風を感じ取った。あぁ~!私の大好きな夏は、もう過ぎていく。
これからの暑さは残暑でしかない。真夏よりも暑いかも知れないが、それは人工現象?
本当の夏は、通り過ぎて、後姿しか見えなくなっているのである。
四季の中で私の最も愛する夏の後姿は、キリリと引締まってカッコよく決っているか?
私の想像の中での現代の夏は、肥満気味?でヨタヨタ気味?だから暑さが長引く?

ブログを書き始めた2007年から昨年までの立秋の日のブログを読み返してみた。
2007年の立秋:2007年8月08日、および、2008年の立秋:2008年8月07日、共に
ブログを書いていたが、立秋に関する記述は、皆無であった。
2009年の立秋:2009年8月07日のブログは、10行にわたって立秋の記述があった。
2010年の立秋:2010年8月07日のブログは、わずか1行だが、立秋の記述があった。
書く事がないから、立秋を取上げるという側面はあるのだろうが、
空や風の気配に秋を感じ取れるのは、日本人特有の幸せ感なのだと思う。

昨年の立秋のブログは、「ゲゲゲの女房」19週 を話題にしていた。
そこで取上げられている話題は、茂(向井理)が弟子・倉田圭一(窪田正孝)への説教。
「焦っちゃいかん!ジックリ勉強しておかないと続かなくなる。アイデアを絞って脳が
カラカラに乾き切っても、そこからまだアイデアを捻り出さなければならない。焦って
賞をとっても続かなければ何にもならん。焦って選んだ道の先は、行き止まりだ。」
もう1つは、やり手の郁子(桜田聖子)が、嵐星社を辞職する件である。郁子を冷たいと
評した妹に、布美枝(松下奈緒)が諭す。「郁子さんは仕事の上で、やりたいことが
あったからではないか?仕事に生きるにはそれだけの覚悟が必要なのだろう。」と。

倉田への説教を、今現在のNHKTV小説「おひさま」の陽子(井上真央)に当て嵌めると、
ジックリ実力を付けて満を持して先生になったのではなかったことが、明らかになる。
布美枝の郁子評を陽子に適用すると「陽子は、人生でやりたい事があったから辞職」と
いう事になる。人生を有意義に生きるには、それだけの覚悟が必要なのであろう。
夏子先生(伊藤歩)は、校長にもなって見せる、日本一の女性教師になると宣言した。
夏子先生のように職業(仕事)に人生をかけるとき「社会と個人の相克」は生れる。
陽子の様に人生を何かにかけない時、「社会と個人の相克」は生れない?如何なものか
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「おひさま」第18週に思う [物語]

今思返してみると、第18週の月曜日は松本駅で火災が発生して大騒動だった。丸庵を訪ねた
萩原校長(矢島健一)は、この大騒動に巻込まれ、自ら申出て、炊き出しの手伝いをした。
そこで校長は、偶然にも陽子(井上真央)の親しい人間関係を知ることとなった。陽子は、
和成(高良健吾)と両親(樋口可南子・串田和美)、陽子の父と兄(寺脇康文・永山絢斗)
という頼りになりそうな人々に囲まれた、恵まれた環境にあることがわかったのだ。
この他にもおひさま軍団には、白紙同盟の真知子・育子(マイコ・満島ひかり)、
タケオ(柄本時生)、「村上堂」夫婦(渡辺えり・斉木しげる)などが居る。
「てっぱん」のおのみっちゃんグループにも引けをとらない強力メンバーである。

この様にNHKTV小説・前シリーズの「てっぱん」と比較すると、ヒロイン・陽子の特質が
相当、くっきりと浮かび上がってくる。「てっぱん」のあかり(瀧本美織)は、グイグイ
グループを牽引するのに対して、陽子は軍団に‘おんぶに抱っこ’に近い?

物語では、露骨に表現されていないが、陽子の教師業には、少し無理があったのでは?
従って男女均等法などなかった時代では、新しい時代を積極的に開拓しなければならない
と、思い詰めていた校長から、引導を渡されたのも仕方がなかったのかもしれない。
私の縁戚の方で、陽子と同年代のAさん(女性)の母親は、Aさんを含め6人もの子持ち
だったが、女学校の教師だったという。昔でも優秀な人材には、産休も考慮されていた?

私は、「おひさま」という物語の言いたい事が、少しはわかってきたような気がする。
それを、今、ここで披瀝するのは、時期尚早だと考えるが、私が日頃考えている方向の
ような気がするのである。簡単なフレーズで説明すると誤解を生ずる恐れがある。
「おひさま」は、そういう表現しにくい意見を、半年かけて伝えようとしている?

この物語は、大正ロマン時代の香りが残る幸せな幼年時代を過ごした陽子が10歳の時、
上海事変勃発、満州国建国、515事件のあった昭和7年(1932)から始まる。そして
母を亡くし、幼いながら、忍耐強く母親の代役を勤めるのである。女学校、師範学校を
経て教師になり、第二次世界大戦の敗戦で、物語の前半は終了する。
物語の1/3・50回は陽子と和成の見合い、物語2/3・100回は、陽子と和成が、初めて
夫婦喧嘩した日である。残り1/3弱をどのように物語るのか? 如何なものか
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「おひさま」107回 [物語]

昨日・106回の最後、陽子(井上真央)は、和成(高良健吾)に相談した。
徳子(樋口可南子)の予想に反して、和成は陽子の話を、先生という職業への思い、
高橋先生(伊藤歩)との関係、これからの人生設計といった視点から整理していった。
和成は「陽子は、高橋先生を辞めさせる訳にはいかないと考えているのではないか?」と、
いきなり核心をついてくる。「しかし高橋先生の事を考えるのは止めなさい」と続ける。
「陽子が、憧れてなった先生を辞めたいと思わないのなら拒否すれば良い。」
「そうでない人生を選び取ることは、負けることとは違う。」 和成の的を射た助言に、
陽子は自分を混乱に陥れた原因を悟り、真に自分の選びたい道が見えてきたのだった。
戦力外通告を受けた野球やサッカーの選手と辞職勧告された陽子とは、雇用形態の違いは
あっても非常に似た側面を持っている。和成が「辞めたくないのなら拒否すれば良い。」
という助言は、辞職を真正面から受止めるためのもので、権利や妥当性の主張ではない。
辞職に対する陽子の正直な気持を引出すために用いたレトリックである。

和成の助言に耳を傾けていた陽子は、自分の素直な気持を語りだすのだった。
「太陽の陽子」と言って頑張ってきたが、自分はそんな大層な人間ではない事に気付いた。
最初の教え子・石井恵子(寺本純菜)からの手紙によって、教え子の卒業後もずっと自分は
教え子達の先生であり続けることに改めて気付かされた。これからもズッと先生を続ければ
ものすごい数の教え子になる。私にはムリ。陽子は自分の気持を和成に正直に話した。
昭和16年春~19年春まで受持ったクラスと、19年春~22年春まで受持つクラスの48人、
その子達の先生で居たい!自分の身の丈に合った生き方を選択する事にしたのである。

陽子が受持った2クラスは、新米先生時代ということ以外に、太平洋戦争の開戦と敗戦、
そして最も厳しい欠乏の終戦直後という時代と重なっている、という設定になっている。
陽子が、辞職後も2クラスの子ども達のやり甲斐ある先生として誇りを持って生きられる
のは、その様な特殊性を帯びている学級だったからだと、物語は主張したいのだろう。

社会と個人の相克や個人同士の葛藤では、建前や見栄が絡み問題が負の連鎖を生み易い。
従って、問題が丸く治まれば目出度し目出度し!でお開きになる。一般的、世間的には
正の連鎖を生み出す前向きな結果を期待することは少ないが、生きる姿勢としては大事!
陽子の辞職勧告問題を、大上段に、「社会的現実と個人的現実の相克」という視点から
取上げて、陽子の心境をたどり、前向きな結果を期待したが、何となくスッキリしない。
これで社会も個人も成長できるの?小さな幸せ、大きな不幸にならない?如何なものか
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「おひさま」106回 [物語]

陽子(井上真央)が抱える今日の課題は、最初の教え子・石井恵子(寺本純菜)からの手紙。
手紙で恵子は、父親は戦死し、病弱な母親と二人の生活を支え、製糸工場で働いているが、
「分からない事が多くて悔しい。どうしたら良いのでしょうか。」と訴えていた。最後に
「陽子先生、私は怖いです。このまま暮らしていて私はどうなってしまうのでしょうか。
さふだん(相談の旧仮名遣い)する人もいないし、どうしたらいいのでしょうか。」
と書かれていた。陽子を頼りにする昔の教え子からの「助けを求める声」である。

恵子の問題を「生きていくために必要なことを教えないまま社会に放り出してしまった。
その責任が私には有る」と、陽子は考えた。
私は、この考え方に賛成ではない。こういう考え方は、個人が無限責任を負う事になり
問題が却って曖昧になってしまうからである。この関連では、2011-06-18「おひさま」
第11週のブログでも書いた。「命の大切さ、生きる歓び」を教える責任が、教師にのみ
ある訳ではないのと同様に、恵子の問題に対する責任も陽子にのみある訳ではない。
しかし、当該ブログの最後に「本当に子どものことを思うなら、一人一人個別事象として、
きめ細かく考えなければならない。」と書いた。恵子の件は、正に個別事象に相当する。

陽子における恵子の問題の捉え方は、辞職問題とは別の意味で「社会と個人の相克」という
側面を帯びていると、私は思う。陽子のこの様な考え方は、戦前はいざ知らず、戦後の
公教育界において、簡単に受入れられるものではないだろう。現行教育基本法において
社会や家庭の役割が新設されていることでも明らかである。旧法は、「教育勅語」などの
社会や家庭の束縛が軍国主義を育んだとされて、社会や家庭の項目が省略された。しかし
だからと言って、学校教育が、子育ての無限責任を負う等という発想は当然なかった。

恵子の手紙の返書に、陽子は「大丈夫。働いていたって勉強は出来る。先生はいつでも
あなたの先生だから頑張ろう。」と書く。そして、自分の同級生・ユキ(荒川ちか)に
夏子先生(伊藤歩)が、同様のことを言って励ましたことを思い出していた。
陽子は教え子が相談に来てから責任を感じてアドバイスする。夏子先生は、相談の前に
適切なアドバイスが出来る。同じ戦前の時代の先生でも、スケールが違うのではないか?

陽子は、夏子先生を辞めさせてまで自分が学校に残ることの不自然さを最も悟っている?
辞職に関する陽子の悩みは経済的問題ではなく、「生甲斐」を何に見出すか?であろう。
その活路は、陽子独自の「恵子の問題の捉え方」の中から発想できる?如何なものか
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