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古今・新古今の季節感 [和歌・俳句]

前回・2011-08-15のブログ「8月の秋歌」で、古今集の季節感に何か違和感を持った。
それは旧暦と新暦といった違いだけではなく、何か「認識度」と言った漠然とした違いを
感じたので、その原因を、いろいろと探求してみたが、なかなか答が見えてこない。
とりあえず、今日の所は、少し調べた結果をまとめておきたいと思う。

古今集は延喜5年(905)成立。新古今集は元久2年(1205)成立。300年の歳月の違いを
古今・新古今の序文に着目して、「季節感という認識の仕方」の違いを直接に捉えたい。
◎ 最初に、古今集の序文に見える季節に関連する言葉である。
1.花に鳴くうぐいす、水にすむかはづ(蛙)の声=歌の源流として引用。
  真名序では、“春の鶯、花の中で囀り、秋の蝉(せみ)の樹上に吟う”
2.花をめで、鳥をうらやみ、霞に趣きを感じ、露をいとしく思う。=歌を詠む心情。
3.柿本人麻呂(660年頃 - 720年頃)と山部 赤人(生年不詳 - 天平8年(736年)?)を
  二歌聖として記述している部分にも、もみじや梅、すみれの和歌が引用されている。
 * 立田川紅葉乱れて流るめり 渡らば錦なかや絶えなむ 古今283 作者諸説あり
 * 梅の花それとも見えず久方の あまぎる雪のなべて降れれば 古今334 柿本作?
 * 春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ 野を懐かしみ一夜寝にける 万葉1424
  この和歌は、山部宿禰赤人の歌四首の一首として記述されているから山部赤人の作。

◎ 次に、新古今集の序文に見える季節に関連する言葉。=歌を詠む心情。
  春霞立田の山に初花をしのぶより、夏は妻恋ひする神なびの郭公、
  秋は風にちる葛城の 紅葉、冬は白たへの富士の高嶺に雪つもる年の暮
これら、四季に事寄せた言葉のすべては、和歌から取り出して連ねたもの。

春:行かむ人来む人しのべ春霞 立田の山のはつざくら花 中納言家持 新古今85
 行き交う人たちに伝えたいという、立田の山のさくら花に感動した気持が溢れている。
 大伴家持(養老2年(718年)頃 - 延暦4年(785))は奈良時代の貴族・歌人。
夏:神なびの石瀬の森のほととぎす 毛無しの丘に何時か来鳴かむ 志貴皇子 万葉1466
 神の住まうという石瀬の森のほととぎすが来るのを待つという本当の意味は?
 志貴皇子(668年? - 716)は、飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。
秋:飛鳥川もみぢばながる葛城の 山の秋風吹きぞ敷くらし 柿本人麻呂 新古今541
 万葉集は、明日香河もみぢ葉ながる葛城の 山の木の葉は今し散るらし 万葉2210
冬:田子の浦に打ちいでてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ 赤人 新古今675
 万葉集は、田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ 富士の高嶺に雪は降りける 万葉318


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