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秋夜の繰言 [社会]

鳩山内閣が誕生して以来、私は民主党政権の危うさを懸念してきた。その背景には民主党の
取組みが、経済問題に偏り過ぎていることがある。国民の心、精神的な側面に対する配慮が
無さ過ぎる。民主党がちょん切ろうとしている従来の政策において、それに携わってきた人々の
真剣に、情熱を傾けた、或いは切ない心根や精神を、まるで金だけで割り切ろうとしている。

或いは、精神面の配慮があるにもかかわらず、現在のような対応をしているとすれば、民主党が
配慮している精神とは、マルクス主義の精神と同類のものである。マルクス主義の精神とは、
既存の公的道徳的動機を否定する事によって、マルクス主義の理想を防衛するのである。
自民党や既存の官僚の公的道徳的動機を、悪と決め付け、否定する所から始まるのは、
正にマルクス主義の精神と相似形の精神で、共産党独裁の亜流という表現がピタリ当てはまる。

小泉内閣発足から8ヶ月後に出版された本(森永卓郎著「日本経済‘暗黙’の共謀者」)が、
小泉フィーバーを集団ヒステリーとみなし、全体主義の広がりを懸念していた。この全体主義の
拡大傾向という懸念は正しかったのだろうか? 少なくとも小泉構造改革は、“官”と“民”との棲み
分けを替える問題であり、官僚の公的道徳的動機を全否定するのでは無かった。まして
“八場ダム工事”打切りの如く、工事に最終的に同意した住民の公的道徳的動機を、従って心を
踏みにじるようなことは、結果的にあったとしても、今回のような臆面も無い仕打ちは無かった。

このような経済最優先で、人々の心や精神を置き忘れてしまうような政府を頂く様になったのは
どうしてだろうか?その最大の理由は、心や精神と政治を切り離す思考が世の中に蔓延している
からだと思う。原因は、現在の大人に多くの責任があると思う。
例えば著名な評論家(日下公人)が、雑誌「正論」11月号の「日本の根本課題」の記事に
「歴史から観た未来」と題して、“日本の脱近代”を論じている。近代化を卒業したとしても
それは経済面だけだろう。また“日本人は「暗黙智」があるから異文化コミュニケーションに適して
いない”等と言われる。「暗黙智」を日本の専売のように書いているが、マイケル・ポラニーの
「暗黙知」を読んだことがあるのだろうか?近代化の一番大切な精神面を全く考慮していないか
の様な書き方である。何と自分中心的か?近代の精神を疎んじて日本の根本課題の解決?
このような自己中心主義と、マルクス主義の精神と相似形の精神、そして経済最優先が結合した
時、鳩山フィーバー⇒集団ヒステリー⇒全体主義の拡張への不安が募る。如何なものか。
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十六夜の月 [閑話]

今日も午前中から快晴。午後になっても快晴は続き散歩の時には日焼け止め使用。
十六夜の月はさぞかし美しいことだろうと楽しみにしていたが、仕事などの関係もあって
月見に出かけたのはすでに21:00を回っていた。昨夜とあまり変らない時刻である。
少しは月の高さが違っていただろうか。
今宵は自宅近くの大きなグランドまで出かけの月見である。

昨夜に比べてほとんど雲が無く、低空の薄い雲のためか時折、おぼろ月のようになる。
何ものも遮るものがない天空に皓々と輝く月は、そのまま水に映るように、私の心の中にも
宿るような、そんな素直な気持にさせてくれる。しかしそんな時間は長く続かない。
◎ 大空に心の月をながむるも 闇に迷いて色にめでけり  道元
“悟りとは水に映る月の如し” というようなことが「金光明経」に書いてあるらしい。
ところが私のような凡人は、夜の闇になんとなく慣れず、折角、月見で澄んだ心境になっても
すぐ五感が働き、雑念が入り込んでしまうのである。10月の夜半は薄着ではやはり寒い。

◎ 濁りなき心の水にすむ月は 波もくだけて光とぞなる  道元
この歌の意味は、“水に映る月は、波に形を崩されても、光は水面に輝いている。
悟りの境地というものは、形を保つことではなく、自分や周りの人々の光になることだ。”
と、私は勝手に解釈した。月の光は、人の心を改めて見つめなおす機会になるようだ。
道元禅師に感応して、一句
○ 十六夜の 月すみ心 光けり

月見とは対極の世俗の話題で恐縮だが、昨日購入した雑誌「正論」の11月号を読んだら
私と似た意見を書いている人が結構多くいて、ある意味がっかりしてしまった。
ただ、的確な表現で‘我が意を得たり’が数多くあり、ここに196-201頁の産経新聞論説
委員・湯浅博氏の記事からの抜粋だけを書き留めておきたい。但し記事全体の論旨に
全面賛成しているわけではないことをお断りしておく。以下にフレーズを箇条書きにする。
1.汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす----コラムニスト・山本夏彦の名言
2.「まずアジア」は本末転倒----著者  3.民主党の政治主導・脱官僚は、(中略)
共産党独裁の亜流になりかねない---著者  「正論」の11月号は如何なものか。   
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中秋の名月 [散歩]

今朝は全天あまねく真っ青で爽やかな秋空だったが、午後になって少し雲が出てきた。
今日は旧暦8月15日。従って今宵は中秋の名月という事になる。しかし月齢では明日が満月。
1日や2日のズレはままあることらしい。だとすれば、芭蕉が、名月と仰ぎ見て、夜もすがら池を巡っていた時も、名月を取ってくれろと子供が泣いた時の月も満月ではなかった可能性もある。
まあ、そのような事はどちらでも良い。子供が欲しがったり、夜もすがら池を巡ったりする時の月には、人々にとって、特別の何かが感じられたのだろう。その何かに感応することが素晴らしいのであり、月齢の満月かどうか、は問題ではない。

兎も角、今宵は天気が気になるところである。今日の月の出(岡山)は16:57。日の入りが17:46だから、与謝蕪村の俳句、“菜の花や 月は東に 日は西に”と季節は異なるが入り日と月の出が同時に見られるはず。今日の散歩は、夜の合唱練習の往復にしたから、そういう光景を見られるかと思われたが、東の空は厚い雲に覆われて期待は見事に外れた。

合唱練習が早めに終わり急いで外に出た。しかし残念ながら月明かりは無く、トボトボと歩きながら、既に1万歩超えなので、どの辺で妻に迎えに来てもらおうかなどと自分勝手なことを考えていた。そんな時、ふと見上げると、ビルの上に白い煙のようなもの見える。良く見ると月明かりに光る雲だ。“アッ!月だ!”と慌てて場所を替える。薄い雲から透けて見えるお月様が素晴らしく輝いて見えた。17時頃に出たはずなのに、もう中天に輝いている。ほんのわずかな雲だけがかすかに流れて月はますます冴えわたる。まがう事なき中秋の名月!
◎ 月月に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月  読み人知らず
091003_月見.jpg
あぁ嬉しい。久しぶりの感激の月見。まるで千秋の思いで待つ人に会うような感激だ。今宵の月はどう見ても満月との区別がつかなかった。やはり中秋の名月こそ正に本当の名月であるということが分った。歩きながら何度見上げても見飽きることがない。感激の一句
○ あなうれし 望みの月を 供として
しかし月に群雲、花に風の例えどおり、ついに厚い雲に覆われてしまった。
写真は帰宅したら、妻が月見団子を買ってきていたので撮ったものである。ご愛嬌!
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鞆の浦・裁判 [観光]

今日は朝から雨が降り続いている。昨日までに既に7万歩以上を達成しているので、
仕事の関係も有り、室内の運動だけで散歩は中止。筋トレのよさは身体の隅々の細胞に迄
活を入れてくれるところにあるように思う。長時間の執務にも耐えることができる。

今日は、広島県福山市の南端にある「鞆の浦」の埋立・架橋事業問題の経緯と地裁判決について書き止めておこうと思う。この事業は、沿岸2ヘクタールを埋立てし、駐車場やフェリー用桟橋などを整備する。古い船着場のある入江になった一角(いわば鞆の浦の美観地区)は埋立てせず
海上に長さ179mの橋をかける。1983年に計画策定されたが、排水権者の全員同意が得られないために事業を凍結していたが、2008年に公有水面埋立法の法解釈を変え、国に認可申請をしていた。この事業に反対する住民らが、県を相手取り免許差し止め訴訟を起こしていた。
争点は、1.この事業によって、景観が損なわれて住民やその他に明らかな被害が及ぶのか、
2.事業による観光客誘致や、交通の利便性などによる利益が大きいか?という事だろう。
その判決が、昨日、2009.10.01に広島地裁で言い渡された。

結果は、「鞆の浦」の景観は住民らの範囲に止まらず、「国民の財産」ともいうべき公益ということで、県・市への免許差し止めという判決が下りた。確かに1983年当時と現在とでは、経済的、
政治的にも様変わりしている。衆議院選・広島7区(福山)では元総理・宮沢喜一氏の甥で元大蔵官僚だった洋一氏が地盤を引き継いで連続当選していた。今回は民主党の和田隆志氏(46)が政権交代の勢いに乗り当選している。和田氏は宮沢洋一氏(59)の大蔵省の後輩だという。和田氏は「自分が付けてないはずの予算が通ってしまう。健全な役所じゃない」と2003年に官僚人生に見切りを付け、元上司に政界で“下克上”を挑み、3度目の正直で当選を果たした。
判決はこの強烈な民主党の風を読んだのだろうか?

2009.01.15小正月のブログに鞆の浦の散歩をした印象を書いている。映画「崖の上のポニョ」の舞台にもなった鞆の浦やその周辺は、本当に歴史を感じさせる素晴らしい場所である。
2008.12.01散歩色々のブログでは沼隈半島南端、田島・横島と阿伏兎観音等のことも書いた。福山には素晴らしい場所がいっぱいある。しかしそれは大型開発をしても守られるだろうか。
日本でも、飛行機を相手にする地域、自動車を相手にする地域、そして電車やバス・自転車を
相手にする地域があっても良いのではないか。多様な変化のある街づくり!如何なものか。    
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温暖化と経験知 [閑話]

明日は仕事が来るので、今朝はゴルフ練習に行ってきた。先月はコンペ前の09.01それに
仕事がない間にと09.14_15連続二日練習に行って、やはり週1回位は練習に行くべきだと
一人でほざいていたが結局またご無沙汰だった。だがその空白を感じさせない素晴らしい
当りで、やはり私には「神」がおりてくると思った。が疲れてくるとやはり変な当りになる。
隣の打席で人を指導している。こちらの調子がいいときには気にかけなかったが、調子が
いまいちになると、何かヒントはないかと耳を傾けたくなるのが人情。タイミングよく、
まるで私の悪い点を指摘してくれるような指導をしていた。チャッカリと採用させて貰い
気持ちよく練習を終えることができた。見ず知らずのお隣さん、ありがとう!

今日も気温が上昇している。真昼の散歩は日差しがまるで真夏のように肌を射した。
出かけには曇っていたので日焼け止めをしなかったのは迂闊だった。今朝のテレビで、
東京では、例年の9月は最高気温が20℃を下回る日があるのに、今年の9月は
一度も20℃を下回ることがなかったと、温暖化を危惧しているようだった。

そこで当地(倉敷)の今年の9月の最高気温を調べると、倉敷も東京と同様だった。ただ、
私は長らく東京や横浜で勤務し、居住をしていた経験上、季節の変わり目では、明らかに
倉敷の方が、気温が高いという感覚を持っていた。そこで9月の30日間の最高気温を、
① 30℃以上、② 25~30℃、③ 20~25℃、の3つのグループに分けて勘定した。結果は
① 東京:1日、倉敷:8日、② 東京:20日、倉敷:18日、③ 東京:9日、倉敷:4日
という結果となり、私の経験的感は、まだ当てはまると思われる。昔なら当然の事だが、
現代は大都市における温暖化ガスの発生は無視できない。今後の追跡調査が必要だろう。

気候などだけでなく、昔の様々な経験知、あるいは真実と思われていたことも今や、通用
するのかしないのか?下手なことをいうと、“化石だ”、“ミイラだ”等と言われかねない。
昔、“世のため人のために禅の修業をしている”という赤軍派の転向者を叱った禅僧がいた。
禅僧いわく「自分をととのえずして何が出来る!」。 昨日も書いたが、昔は、
「自分を自覚する」とか、「自分本来の務め」ということは、当然のことであった。
しかし現代の「無自覚」「無責任」の風潮をみるとき、口当たりの良い言葉が先行し、言葉を
発した責任者が「自分をととのえているかどうか」を問われなくなっている?如何なものか。
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