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プロゴルフ賞金女王 [社会]

このところ、晴天や快晴の日が続いて、心地よい散歩を楽しめる。スロージョギングの試走も
11.18から今日まで8日間実施した。6割強の実施率で再開宣言をしいたいところであるが
若干の不安も残っており、今後の推移を気長に見守ってゆきたいと思っている。

昨日のプロゴルフは、男女とも賞金王・女王絡みで面白かった。
結果論かも知れないが、横峰さくらの健闘が光った。テレビ放送開始直後に、14番のチップイン
そして15番ホール、まるでピンがボールを吸い寄せるようにあわやイーグルという神懸り第二打で
連続バーディを取り一挙に二位タイへと躍進した。その後、首位の飯島が後退し、二位タイで
並んでいた連中もスコアを崩して、結局、横峰さくらが優勝。初の賞金女王に輝いた。
男子ゴルフの石川遼もよく頑張ったが、小田孔明の方が一枚上だった。それにしても、遼が
2009.10.15-18男子の「日本オープン」でやはり二位に甘んじた相手も小田龍一と「小田」姓。
「日本オープン」優勝は小学6年当時の18歳までに優勝という目標。今回は賞金王決定の一戦。
共に非常に重要な節目で、「小田」姓のご両人に敗れたのは不思議な気がする。
スポーツ紙でジックリと回想するのはテレビで見るのとは異なる面白さがある。
そこで、今日はスポーツ紙を数紙購入して読み比べてみようと散歩のついでに駅の売店に
寄ったら、どのスポーツ紙もボクシング記事が第一面だった。私は世間知らずだから全く予期
していなかったので随分落胆し、1紙も購入することなく引き上げた。

日本では盛んに、最早、西欧的価値観が崩壊し、多様な価値観を大切にする時代になった。
日本は多神教の世界で、これからは日本の時代。という説もあるが、多様性よりも画一さが
目立つ様に感じるのは私の僻み根性か? 日本人が、本来、多様な心情を持っているのに、
現実の社会現象、例えば新聞やテレビ報道の画一性等という現象が生じる理由は何か? 

それは昨日2009.11.29のブログ「コペルニクス的転回?」で解説した“静的安定社会”の
ルールに従っているからだ。日本は今もって、“動的安定社会”への移行を恐れている。
“静的安定社会”では、‘察しの文化’を大切にする。この“察し” が各所に働き、混乱を
回避する方向で、常に画一的な情報操作を行い、民衆を常に抑圧する。このような手法で
社会をコントロールするのである。この習い性が日常茶飯事だから、民衆自らも‘気配り’を働かせ
「KY」を回避するのである。西洋でも‘気配り’はあるだろう。しかし彼らは、本当に
言いたい事があれば堂々という。世間から抑圧される割合は低い? 如何なものか。
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コペルニクス的転回? [物語]

日本的たこ壷型社会ということを考えてきて、行き着いた一つの着地点が日本中心主義(天動説)
という心のあり方、生き方、社会のあり方である。
私の大大大・・・・先生の福沢諭吉は、「文明論の概略」で、西洋文明を動的安定社会と喝破した。
即ち多様な価値観が競い合うところに生れてくる“安定”のある社会だ。法律も絶対的に正しい等
と考えない。だから憲法改正も頻繁に行われる。それでいてダイナミックな安定感がある(安定感
を維持する)というのが西洋文明社会である。仏教の‘無常(変化せざるものなし)’という概念が
動的安定社会という概念と妙に一致するのが面白い。

日本は島国で比較的外敵が少ない平和な地域、適度な外来文化による刺激と共に、地震や噴火
台風や洪水という災害などと戦う環境条件から、高度な日本的文明社会を形成してきた。
様々な経緯を経て鎖国政策を採用した。鎖国当時、日本は中華思想を見習い、社会を日本中心
主義、即ち日本を中心に社会は動くと考えた。地動説ではなく、天動説である。様々な工夫を
凝らして、社会の変化速度を日本人を基準に制御しようと試みた。この日本中心主義志向は、
260年の長期平和という成功を収めた。

そして明治維新と繋がるが、この激動を日本人は、天動説から地動説へのコペルニクス的転回と
して理解していただろうか?「富国(動的安定社会)→強兵」という計画のはずが、「強兵→弱国
(静的混乱社会)」という結末になったことを考えると、天動説から地動説へのコペルニクス的転回
を承知していたとはとても思えないのである。「富国=強兵」程度の認識しかなかったのでは?
そして戦後60余年経過した現在で相変らず日本中心主義(天動説)でしかない?

ご承知のごとく、“憲法”という概念は、動的安定社会である西洋文明の「要」に当たる。“憲法”が
なければ、只の混乱不安定社会だろう。然るに、西洋社会では“憲法”をイとも簡単に改正する。
これが‘動的安定社会’の極意であり特徴だ。ところが、明治憲法は“不磨の大典”と偶像視され
一度も改正されなかった。そして、戦後民主主義日本の憲法もいまだかつて一度も改正されて
いない。勿論“憲法”改正すればコペルニクス的転回が出来るのではない。
日本人が、“静的安定社会”と“動的安定社会”の違いを認識して、日本という国が、どのように
対処すべきかの基本認識を打ち立てる事こそ大切である。しかし日本の‘静的安定社会志向’
という伝統に由来する「政治音痴」、「軍事常識の欠如」、そして「抽象的思考の欠如」などが、
国民的議論を阻害し、危うい政治家による跳梁を許す事になる? 如何なものか。
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‘子供手当’という愚策 [社会]

‘子供手当’が愚策であると私が考える理由を以下に整理しておきたいと思う。中学生迄の
子供1人当り年額:31.2万円(月額:2.6万円)、総額:年・約5.3兆円をかけるこの政策が、現在
進行中の‘事業仕分け’にかけたらどんな結果になるだろう?6人のノーベル賞受賞者が廃止に
反対した「スパコン開発費」は約0.27兆円。まずスパコン予算を例にして‘子供手当’の杜撰さを
数字の上から明らかにしたい。スパコン予算は‘子供手当’の約1/20、故に1人分の‘子供手当’
に相当する額は年間:1万5千6百円、月額:1300円。各家庭に支給された‘子供手当’1人分の
月額:1300円の使途が、無駄遣いか否かを判定する手段があるのだろうか?

次は‘子供手当’の目的である。政策目標は“子ども1人ひとりの育ちを社会全体で応援する”と
なっているが、曖昧模糊として要領を得ない。少子化対策と勝手に‘察しの文化’を発揮しても、
調べてみると、「少子化」は既に、1970年代から開始されている。昔から日本には、「貧乏人の
子沢山」という言葉もある。経済理由が「少子化」と直接的に関係ない事は明確である。しかも
‘1人ひとりの育ち’という事に関して何らの具体的な考え方も示されてない。経済的に余裕ある
家庭に育っても、凶悪犯も出るし、様々な問題児もいる。ただ単にお金を支給しただけで、現在
よりも、より良く未来を担う人間が育つという保証など何も無い。

こうして見て来ると、‘子供手当’は、戦前の2.26事件における「大御心を察して<大忠>を焦った
軍部の大愚挙」と構造的に酷似している。即ち‘子供手当’は、‘察しの文化’ による「民衆の心
を察して<大忠>を焦った民主党の大愚政策」といえないだろうか?私のいう‘日本的たこ壷型
社会’の“起承転結”サイクルにおける“結”の時期を示す明らかな兆候と言える。

なぜ“結”の時期には、このような大愚挙や大愚策が国民の目には見えず、‘事業仕分け’の様な
スタンドプレーしか目に入らないのか?その大きな根底には、現実を重要視しなくなった世間の
風潮というものがある。そしてマスコミは視聴率や販売部数を‘偶像’として崇拝し、幻想願望の
人々を対象に売れる情報を、虚実ない混ぜて報道する。時流という事に敏感な日本人は、「KY」
と思われたくないから、正常な現実感覚のある人でも、世間に遠慮する様になる。特に伝統や
貴種に弱い日本人は、鳩山首相の様に9億円を母親から借りているのも知らないお坊ちゃんに
弱い。自民党が、あ○う元首相で失敗した様に、鳩山首相の未来も明るいものではない。
しかしそれ以上に心配なのは、このような茶番劇を繰り返す政界に愛想をつかした国民が
ますますたこ壷に沈潜してしまうことである。今こそ、国民が「KY」と思われることを恐れず、
悲劇的な結末の防止に立ち上がってもらいたいものである。如何なものか。
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続5・たこ壷型社会 [社会]

昨日、私は「KY」が流行語=‘空気支配’のような書き方をしたが、2007年に「KY」が流行語
になった背景には様々な理由があるだろうし、社会が、即、‘空気’の支配に屈したという
のではない。流行語「KY」は、古い日本人的体質を喪失した人々が市民権を得た現状への
アイロニーという面もあった。即ち流行語「KY」自体は、「KY」を否定した訳ではない。

しかし日本社会は重層的な複雑な構造をもっているが故に、「KY」の流行から複雑な反応を
起こし、人々の意志とは無関係の大きな流れを作る可能性がある。その下地が、日本独自の
“察しの文化”である。主人に忠義を尽くすのに、主人の言うことを忠実に実行することを
「小忠」と言い、主人の言外の言を心の耳で聞き取り、その心を察して、忠義を尽くすことを
「大忠」と言った。昭和11年(1936)の2.26事件を起こした青年将校らが、大御心を察した
「大忠」と思って実施した事は有名である。ご承知の様に昭和天皇の大御心は、青年将校の
察した内容とは違っていた。しかし流れは、第二次大戦へと傾斜した。

私は、“察しの文化”や「大忠」を非難するつもりはない。人間は不完全な動物だから過ちも
ある。それを咎めても、完全を要求するようなものであり、理想主義でしかない。また
“察しの文化”や「大忠」は、正しく運用すれば素晴らしい。そういうものを否定する事は
何の益にもならないだろう。昨日紹介した中島義道の本の<対話>や<論争>を取り入れる事も
否定しないが、“察しの文化”を抹殺するのも良くない。中島義道は、日本的優しさと思いやりが
日本で<対話>を圧殺してしまっていると説いているが、時と場合、個別的人間関係の中には
対話も会話も論争も、いい意味での葛藤もあると私は思っているし、現実に体験もしてきた。
しかしそういったものが、社会的、文化的に普遍的に存在しているか?と問われれば、やはり
‘No’といわざるを得ない。それが、「日本的たこ壷型社会」と呼ぶ理由となっている。

「日本的たこ壷型社会」は世の中の“起承転結”状況によって変容する。危急存亡の“起”の時は
皆、壷から出て‘激論派’、‘思いやり派’、・・・それぞれに、自分流で活発に活動する。
世が落着く“承”の時期は、自己の‘壷’の繁栄にいそしむ。そして一応の安心を得た“転”では
広角アンテナを張る必要がないと思い、現実の社会で活動しながら‘壷’の中(自己)に沈潜し、
ある種の現実遊離の世界に生きる。勿論、1億数千万人が一様にそうなるというのではない。
ある程度社会的にそういう変化が生じた時に、人々は様々に反応して、政治的に起こした波が
現実認識の欠如から思いもかけぬ方向に動いていくという仮説である。如何なものか。
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続4・たこ壷型社会 [社会]

日本的たこ壷型社会について論じた本として今、丸山真男「日本の思想」(1961)、中根千枝
「タテ社会の人間関係」(1967)、山本七平「空気の研究」(1977)、中島義道「<対話>のない
社会」(1997)などが思い出される。いずれも西欧と日本とを対比させながら、日本の課題を
論じている。論旨は、世界における日本に関して‘客観的現実認識’をすることが重要である
ことを指摘するに留まっていて、方策に関しては明確に示されていない。

上記の書物が明確な方策を示さなかったのは、日本人の読者が自分達の著作を読めば、課題は
解決される、即ち、‘日本的たこ壷型社会’から脱却できると考えたのではなかろうか。しかし
上記の4冊の36年にわたる出版過程を見ても、そんなに簡単に日本人の意識改革ができるとは
思えない。ましてその後は売れなくなっている?
山本七平は、「空気の研究」の中で、‘日本人は現実的な体験無には未来を予測できない’と
書いている。現実体験も、他人の体験では用をなさないのだろうか?
第二次世界大戦の体験も、今や“文字”、“話”のレベルである。「喉元過ぎれば暑さ忘れる」
という諺があるとおり、日本人は、個人的体験すら忘れっぽい、楽天的性格なのである。

上記の著作の利用の経緯と、明治維新以来の140年の歴史を振り返ると、日本人が集団として
世界の‘客観的現実認識’欠如、すなわちリアリティを喪失する現象を避けられない感がある。
「日本的たこ壷型社会」は、個人レベルなどで、日本や個人に関する‘客観的現実認識’を
持ったとしても、日本全体として、即ち政治的に正しく認識できない運命なのか?
日本的たこ壷社会は、一昨日のブログ「続2・たこ壷型社会」の“起承転結”の連鎖の中で、
際限なく循環していく運命なのか?

「KY」が流行語大賞になったのが2007年。今、日本は完全に‘空気’に支配されつつある。
その閉塞感が、鳩山内閣信仰へと傾斜している。しかしそれはお門違いも良いところだろう。
‘空気支配’は、誰かが作り出したものではない。それはリアリティを喪失した人々の心の
中に巣食っている“臆病風”から発しているのではなかろうか?
「幽霊の正体見たり 枯れ尾花」という川柳がある。現実に根ざした生き方をしていないと
様々なものが障害に見えてトンでもない過ちを犯す事になる?如何なものか。
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続3・たこ壷型社会 [社会]

今朝は寒かったが、仕事も途切れたので早朝割引ゴルフ練習にいった。気温が低いので
球の飛びも悪くなっているだろうし、まあまあの出来ではないだろうか?

欧米ではプリンシプルが尊重され、政権交代でも継続性が保たれる工夫がなされている。
プリンシプル尊重という仕掛けが、人間の陥りがちなたこ壷化を防止する装置になっている。
欧米ではプリンシプル尊重で基本路線は明確だから、欧米のマニフェストは短期指標で良い。
それに引き換え、日本には、‘プリンシプル尊重’の習慣、風土がない。事例に事欠かない。
例えば民主党・小沢幹事長の「企業献金問題」、現今の「普天間基地問題」等、数え上げれば
限りがないだろう。全く日本の習慣・風土というものを考えず、木に竹を接ぐような欧米流の
‘短期指標’のマニフェストとやらを掲げて、純良な国民をその気にさせた。

論理的、合理的に考えて全く辻褄の合わないトンでもないマニフェストでありながら、民衆が
民主党に政権交代をさせたのは、何でなの?何でなの?その背景がよく理解できない。
私の勝手な推論は、次のようなものである。

日本人は焦土と化した国土から、僅か40年間で奇跡的な復興を遂げた。アメリカに次ぐ超大国
しかも次代はアメリカを抜いてNo.1になるという(Japan as No.1)。それからまた20数年、
既に、現代の現役には奇跡的復興に貢献した世代はほとんどいない。豊かな日本しか知らない
現代の現役の20~30%?は少しの不遇も辛抱できない。彼らは、‘たこ壷志向’である。
日本人は“判官(義経)びいき”といって、弱者に同情する優しい人々である。従って、
たこ壷志向の人々への同情票も20~40%?位あるだろう。その矢先に、政権交代という何か
幻想的な‘甘い言葉’! 日本の民衆は、国家(政府)を信じたがる純良な国民である。
正にゼロからの改革という大仰な謳い文句で、「事業仕分け」という派手なスタンドプレーを
する人気取り政府は、たこ壷志向型人間とその同情派にとり願ってもない絶好の‘信仰対象’
になったのではなかろうか。

私の憶測では、既に民主党の中では、鳩山内閣の先行きは危ういのではないか?と思う。
いろいろな不協和音が、われわれ庶民にも漏れ聞こえてくるのだから鳩山首相も大変だろう。
しかし今の民衆の熱烈な信仰心から考えると、細川内閣・羽田内閣の短命では終わらない?
鳩山首相で延命できるか?それとも次期首相は誰になるのか?見ものである。如何なものか。
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続2・たこ壷社会 [社会]

司馬遼太郎は、日露戦争にまつわる小説「坂の上の雲」を書いている。その小説に関連して
“明治時代には日本人にリアリズムがあった。しかし日露戦争に勝って現実感が薄れ、時代は
そこから悪くなって今の日本の問題にも連なっている。”、と書いている。(文芸春秋11月号)
‘リアリティの喪失’=現実認識の欠如=たこ壷化、という風に言えるのではないか?

2009-05-15のブログ「米国留学少女物語・E」で、明治維新から第二次世界大戦敗戦までを
起:明治維新(1868)~大日本帝国憲法発布(1889)、自由民権運動の盛り上がり
承:大日本帝国憲法発布(1889)~日露戦争講和(1904)、富国強兵
転:日露戦争講和(1904)~金融恐慌(1927)、リアリズムの喪失
結:金融恐慌(1927)~第二次世界大戦終戦(1945)、現実認識の欠如の連鎖
という風に区分して、戦後日本の歩みを、次のように
起:日本国憲法発布(1946)~東京オリンピック開催(1964)、労働運動の激化、安保闘争
承:東京オリンピック開催(1964)~バブル全盛(1985)、経済発展、日米貿易摩擦
転:日本株価最高準バブル全盛(1985)~世界金融恐慌(2008)、リアリズムの喪失
結:世界金融恐慌(2008)~?
と区分して、その共通性を指摘した。

日本は、外圧によって丸で、釜の中の湯が沸騰するように‘たこ壷’から出て、相互に激論し
リアリティの把握に努め、一生懸命に努力する。しかしある種の頂点に登りつめたと思った
瞬間から、リアリティを喪失していく傾向にあるのではなかろうか?司馬遼太郎も指摘する
ように、いや夏目漱石が同時代に既に指摘していたように、日露戦争後一等国になった等と
浮かれている場合ではなかったのである。それと同様に現代も、バブルで米国に次ぐ超大国に
なった等といって、我儘放題をいう輩に好き勝手させるような状況では無いだろう。

日本国民は、‘たこ壷’に入りたがる習性を持ち、かつ、司馬遼太郎も書いているように、
国家・政府をいとも簡単に信じてしまう単純な人々の群れなのである。諸外国では常識である
「軍事的教養」が欠如している国民であることも政治家たるもの決して忘れてはならない。
然るに現在の「普天間基地問題」にしても、「核密約問題」にしても、政府の指導力は愚か
政府自らが、自己の‘たこ壷性’、‘軍事的教養の欠如’、‘リアリズムの喪失’を演じているのではないか?そのような恥を世界に曝している事に気付かぬ事が恐ろしい。如何なものか。
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続・たこ壷型社会 [歴史]

今日も63分のスロージョギングを織り交ぜた散歩。妻も付き合って、彼女も随分頑張った。
心臓の負担はそう感じなかったが、4日連続だったので足の筋肉に疲れが残っているかな?
三日坊主で終わらなかったので、そろそろ再開宣言?いやまだまだ慎重に試走、試走!
さて、朝刊に「核密約 裏づけ文書」という4段抜きの記事がデカデカと載っていた。
この件については、2009-09-21のブログ「敬老と核密約」でも取り上げ、以下の様に書いた。
“内密で調査すれば済む話にもかかわらず、大声で喚き立てるのには、計算しつくされた
素晴らしい意図があるに違いない。そうでないなら、蛸壺的思考の社会認識の甘い国家で
あるということを世界に曝していることになる。”

‘秘密文書’とやらが出てきたのは良いが、これから歴史的意義を検討するという。
何か、肩透かしを食ったような感じがするのは、私だけだろうか?以下の様な歴史的な経緯
(次段からの“”の中)からみて、既に、日米間の解釈の違いは明確である。
“60年安保条約改定で始まった「核持込事前協議制度」で、日本側は当初、寄港・通過を協議
対象になると理解。米国側は対象外と解釈していた。その後日本政府はひそかに解釈を米側に
合わせ、寄港・通過を黙認(即ち核持ち込みの事前協議対象外)。1972年沖縄が日本に返還”

従って、事前協議で、「核持込」の問題を修正したいなら調査も何もいらない。
「事前協議対象にこれこれを追加したい」と要求すればいいのではないのだろうか?
何を目的に、半世紀も前の‘秘密文書’探しをやっているのか、意味がわからない。
私の推測では、民主党は‘この件が「普天間基地問題」でアメリカと交渉する切り札になる’
と思っていた?しかしそれは、上記の歴史的経緯からも無理筋である様に思う。

在日米軍施設は、1都1道27県にわたって、134施設 1,027,049,000m²(日米共同?)あり
その内の米軍専用の施設は、85施設 308,825,000m²あるという。
半世紀近く前の‘秘密文書’を今頃ほじくり出して議論する暇があるならば、米軍基地・施設の
あり方を、大げさに騒ぎ立ててどうこうするのではなく、地道にコツコツと改善していく方策を
立てるべきではなかろうか?自民党にも落ち度はあったかも知れない。しかしお互い国のために
働いている仲間ではないのか?互恵・互助の優しい心が無いと真の切磋琢磨にはならない?
ゼロベースで改革するなどと言っていたら、何も実効が上がらないのでは?
日本で最も偉い政治家位、たこ壷的コミュニケーションから脱皮しようではないか?如何なものか。
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たこ壷型社会 [社会]

今日もスロージョギング主体散歩で効率的な歩数増産を行った。60分強のスロージョギングを給水無で
強行したためか、若干疲れたが、あまり問題もなく回復した。
さて民主党の政権交代以来、約2ヶ月、いろいろ批判してきたが、それは党派的利得のため
ではない。私の心配しているのは、国民が、民主党に過大な期待をしているという点にある。
それは、小泉元首相の郵政民営化に対して抱いた期待と同質のものだ。

この様に国民が過大な期待をする背景には、日本国内でのコミュニケーション活動のお粗末さがある。
私は、“日本は仲間内以外のコミュニケーション活動がお粗末なたこ壷社会”で、個人やグループは
各々が己のイメージのみで物事を判断しているからだと思われる。政党然り、マスコミ然り、
民衆また然り、である。

国際的なコミュニケーション活動もお粗末なたこ壷社会で、国を代表しているごとく見えても、
それは、党派的な付き合いであって、すべては、いわゆる私的なコミュニケーション活動なのである。
それを最も端的に表しているのが、今回の民主党、特に鳩山首相の「普天間基地問題」関係の
一連の発言である。自らの抱く‘アメリカ’関連のイメージから混乱が生じている。
私は、‘たこ壷社会’を悪いとばかりいうつもりはない。それは日本の文化であるから。
‘たこ壷社会’日本は、多様な社会であり、それを自覚していれば大きな問題に発展せず、
多様性は様々な知恵の源泉となるだろう。対外的には経済的発展などに寄与するだろう。
また個人的には、社会と適当な距離を保った身近な仲間の温もりの中で、深刻な問題もなく
唯我独尊的な生き方が出来るだろう。個人として孤立した欧米人に味わえない生き方だ。

だが、そのような日本社会に対して、現代日本人は飽き足りない思いがある。
その背景には欧米からの思想や技術が導入されてすでに百数十年の時が経過し、自分達は
欧米からの思想や技術を体得したという思いがあるからだろう。
そういう思いは私にも理解できるが、残念ながらコミュニケーション活動において今も‘たこ壷’だ。
従来の自民党には、まだ日本社会が‘たこ壷社会’だという認識が残っていた。
しかし民主党が政権をとった後は、自民党の若手にも民主党に追従する動きがでてきた。
‘たこ壷社会’という認識を欠き、過大な期待をかけて迷走する姿は、第二次世界大戦前の
日本社会を彷彿とさせる。政党の票欲しさの甘い汁に惑わされて、再び悲劇の道を進まぬ様
に、それぞれが、たこ壷的コミュニケーション社会に思いを馳せて貰いたい。如何なものか。
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閑話091119 [希望]

今日も冷え込んだ。冬がドンドンと近づいて来る。午後から曇りがちの中をスロージョギング
主体(約60分)の散歩をした。スロージョギングでも汗ばんで結構爽快だった。心臓の調子も
まあ大丈夫そうで、これならスロージョギングの再開もありかな?しかしまだまだ歩数量産の
ためのものである。なんだかんだと用事が重なり、散歩の時間がドンドン短くなる。

スロージョギングを昨日再開して歯の調子がいい事に気付いた。9月中旬に行った歯医者の検診
で、医者から歯の健康状態が良くなっていると言われ、それが筋トレか?スロージョギングか?
どちらの効果か?その時には判別がつかなかった。最近また歯が少し不安定になった様に
感じていたが、昨日のスロージョギングで、少しは安定してきたようだ。やはりスロージョギングと
筋トレとの相乗効果によるものか?筋トレはスロージョギング休止後も継続していた。

筋トレは身体各部の筋肉を増強するために血管や神経も増強するが、歯茎増強には及ばない?
スロージョギング後の足の張りがほとんど感じられなくなり、またスロージョギングを50~60分間継続
するのに、それ程身体に負担を感じなくなったのは、筋トレの効用だろう。
では何故、スロージョギングは1日で歯茎に‘活’を入れてくれたのか?それは良く分からない。
ただ筋トレは、15~20分程度の時間に対して、スロージョギングは倍以上、時には3倍の時間を
かけるという違いが、脳の活性化のレベルをアップするからではないか?と思う。何故なら
運動実施後の脳がカッカした状態は、筋トレよりもスロージョギングが長引いているから。

このような体験から、人間の体は、基本的には、臓器や細胞の単位で、遺伝子記録や隣近所
とのお付合い・バランスで自立的に活動していると思う。‘脳’は、そういった身体各部の
バランスの上で、調整する能力しかない?即ち身体各部の能力の範囲内での調整力のみ?

筋トレは身体各部の能力増強によって自立的活動のレベルを向上させる事ができるのだろう。
真夏期のスロージョギングが続かなかったのは、幾ら‘脳’が激励しても身体各部のバランスが
とれなかったからか?そして、1日のスロージョギングで‘歯茎’に‘活’を入れたのは、
筋トレで身体各部がレベルアップしたお陰?スロージョギングによる身体各部活性化は、余裕の
身体各部によって、神経や血液を活性化し、‘脳’の調整能力を引出し、歯茎に‘活’を
入れた?身体各部に余裕ができてこそ‘脳’の調整出番もある。如何なものか。
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