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生きる力・愛の力 [希望]

天気予報では雨とか曇りだった。朝方こそ雲が多かったがどんどん晴れ間が広がり、午後の
散歩の頃には空いっぱいの青空!快晴だった!近所の幼稚園も無事に運動会を終えたかな?
午後3時過ぎに通りかかったが、既に何事もなかったように、いつも通りの様子だった。

今日は「貯蓄の日」というらしいが、その理由を知らなかったので調べてみた。
簡単にいうと、伊勢神宮の秋の式典・その年の稲の収穫を感謝する「神嘗祭(かんなめさい)」に
あやかって定めたらしい。1952年に日本銀行貯蓄増強中央委員会(現・金融広報中央委員会)
が国民に貯蓄を奨励するために、神嘗祭で内宮の奉幣が行われる10月17日を「貯蓄の日」
と定めたとのことのようだ。そしてまた、今日は娘の誕生日でもある。アラフォー年前だ。

娘の誕生日だから、昨日ゴルフのショット・パットに譬えた,生きる力の話を続けたいと思う。
生きる力には、個人差があると共に、個人においても、時と場合によって波があるという事だ。
こういう波が、大波になった時の防波堤の役割として、「貯蓄」という事も重要になってくる。
自分の勤労収入からの貯蓄額/収入=貯蓄力、は収入に比例しない。人間は生れた時も死ぬ
時も無一物だといわれる。即ち生きる力とは、体力、知力を蓄えること。そしてその延長線上で
貯蓄力もまた生きる力となる。貯蓄力は保険や様々な形態で世の中の役に立つ形が望ましい。
タンス預金でないと安心できないとか、大金はスイス銀行へ、などは政治の貧困ではないか?

現代の赤字国債大増発政治の問題は、この貯蓄力を有効に活用する才覚がなく、また真っ当な
仕事をつくり、働きにあった収入を得られるような仕組みを作れないからではないか?
官僚政治を批判しても、結果的に赤字国債大増発になるのであれば、批判倒れである。

今の日本が、豊かでないなら発展途上国の大勢の人々はもっと大変だろう。
私は、日本は、今よりももっと貧しい時代であっても、愛の力の豊かな国であったと思う。
今の日本が、生きる力と愛の力のバランスが少し悪い様に見えても、それは政治の問題で
日本人の本質は、生きる力も愛の力も豊かな人々であると信じている。
愛の力と生きる力のバランスの問題もまた、ゴルフのショット・パットに譬えられる。
人により、地方により、国により、時と場合により、さまざまなバラツキがある。
きめの細かな、愛の力の豊かな政治こそが、幸せな日本に導いてくれる。如何なものか。
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ゴルフ閑話’09.10 [社会]

今日も素晴らしい秋晴れ。午後、庭に出てゴルフの素振りをしたが、爽やかな秋風に誘われ、
夕方の予定を繰り上げて散歩に出た。近所の幼稚園の運動場には万国旗がはためいていた。
明日が運動会のようだ。天気予報では雨?さてどうなるか?関係者は気が揉めることだろう。
稲刈りは半分くらい終わったようだ。全部刈り取られてしまうとまた淋しくなる。

国内男子メジャー第3戦「日本オープンゴルフ」の初日、石川遼が好スタートを切ったので、
2日目の放送の録画予約していたが、ネットの速報によると
“ドライバーショットが安定せず、前半は1バーディ4ボギー。後半も、2番でバーディを
奪った直後の3番パー3で3オン2パットのダブルボギー。結局、今日は4オーバーの「76」
通算2オーバーとスコアを崩した。” という。ゴルフは思い通りに行かないから面白いのだ。

先日、100歳でゴルフをしている人の話題がNHKの「百歳・バンザイ!」という番組で
放送された。関心のある方は、以下のURLを参照いただきたい。
http://www.nhk.or.jp/100banzai/file/2009/1010/index.html
私は、チャンネルを回している時に、放送途中から見たが、知人が偉く感激していた。
またその知人は、合計年齢177歳(夫:91、妻:86)のご夫婦が二人ともボーリングで活躍
しているというニュースも聞いており、盛んに、“人生観が変わった”、を連発していた。
その知人は、現役を退いた後、多少、生きる意欲が減退していたのではないかと思われる。
生きる意欲が回復して何よりである。

個人の生きる力と人に対する配慮や愛の力が、バランスしていればこの世に問題はない。
それは、ゴルフのストローク毎のショットやパットがナイスであるということと同じだ。
しかし名人上手といえどストローク毎にバラツキがあり、成績の良し悪しの変動もある。
そしてプロの中でもピンからキリまでの実力のバラツキがある。生きる力や愛の力も同様。

ウッズのゴルフの力が金で買える?同様に生きる力や愛の力が金で買えるのか?
知人の例でも明らかなように生きる力や愛の力は金では買えない。自己変革なのだ。
赤字国債増発政治は、生きる力や愛の力を金で買おうとしている。いや自分達の権力奪取の
ために、金という飴玉で国民を真実から目をそむけさせ騙そうとしている。如何なものか。
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新種の鬼退治? [希望]

今朝は随分冷え込んだが日中は暖かく、午後の散歩は残暑の頃と変わらぬ服装にも拘らず
汗をかいた。明日から仕事が来るので、何とか早起きして10/1と同様早朝ゴルフ練習へ。
こういう時に昔は良く、“鬼の居ぬ間の洗濯” というフレーズが使われたものである。
最近はあまり使われない様だから、この種の鬼は絶滅種族かも知れない。
この絶滅‘鬼’族は、「渡る世間に鬼はなし」といわれていた時代に生息していた‘古い鬼’で
“鬼の居ぬ間の洗濯”と敬遠されていた。古い鬼とは、上司、教師、父親、旦那、その他の
道徳やルールを押し付ける古い型の「権威者」だった。

現代の橋田寿賀子のドラマ 「渡る世間は鬼ばかり」で描かれている‘新種の鬼’が‘古い鬼’
に取って代わった。この鬼は変幻自在でつかみ所がないからドラマも延々続いているのだろう。
新種の鬼は、「神」を始め、「親」、「教師」その他の‘古い鬼’達の幅が利かなくなったのを
幸いとばかり、人々の心の中で、“鬼の居ぬ間の洗濯” だと偽って現われでてくる。
新種の鬼は、ねたみ、復讐、強欲、不平・不満、強引な自己主張、その他ありとあらゆる形で
現れでてくる厄介な存在である。‘古い鬼’達が幅を利かせていた時にも、みんなの心の中に
棲んでいたが、‘古い鬼’達の「権威」に押さえ込まれていて、おおっぴらには現れなかった。

ニーチェは既に19世紀に現代文明の行き詰まりの根本問題を考察し、その要因分析と対策を
述べている。しかしこれは哲学的次元であり、世俗的次元では、この根本問題は、世界中が
既に従来から分っていた問題であり、そのために権力、道徳や権威が存在していたのである。
イスラム圏と西側諸国との衝突は、根本問題解決手段の「権威」の変化速度に関する摩擦だ。
しかし権威の問題は精神的・内的問題であり、偏狭な道徳主義で解決できる問題ではない。

今や鳩山内閣になってますます日本の「権威」から、「自民党」、「天下り官僚」、その他が
古い権威の中に組込まれていくようだ。「アメリカ」という権威も今や地に堕ちかかっている。
第二次世界大戦後の日本における「権威」の変化速度は、最近、とみに加速しているようだ。
‘新種の鬼’退治では外圧的対策は難しい。しかし政治が、金・金・金に振り回されて、予算の
振分けばかりで、急激な「権威」の変化と共に、それに対応する新しい考え方、例えば“友愛”
を具体化する政策を推進しなければ、「正直者はバカを見る」とばかりに、内発的に自らを省み
自らをととのえる人々が減少し偏狭な道徳主義が蔓延るのではないだろうか?如何なものか。
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芭蕉と秋散歩’09 [散歩]

今朝は曇り、天気予報は午後・雨だったので、午前中から散歩に出た。
しかし、その頃から晴れ間が見えたので用心の為に日焼け止め。案の定、日差しが背中を暖め
少し汗ばむくらいの快適な秋散歩になった。もう秋も深まる寒露の頃で、引用に相応しくないが
次の芭蕉の句を引いて、最近の散歩の感慨を述べてみたい。
◎ あかあかと 日はつれなくも 秋の風  ばせを  元禄二年(1689)

上の句は、芭蕉が「奥の細道」で数々の名句を詠みながら行程の3/4程度を経過し、終盤に近い
北国行脚の時に詠んだものである。季節は立秋を過ぎた残暑の頃であるが、毎日歩いている
私には、すごく分るような気がするのである。
長い夏を歩き続けてきた身には、秋とはいえ残暑の厳しさに、お日さまのつれなさを恨みたく
なる。しかし萩・すすきに吹く僅かな風に慰められて、その気持を切り換え有名なこの一句を
ものにする芭蕉は、生の苦しみを支え人生を豊かに生かす力を備えていると思う。

人間はかけがえのない恵みの源であるお日様という存在さえも、“つれない(思いやりがない、
むごい、薄情だ)”と、私など凡人は恨みがましくなることがある。
だから理由もなく最愛の人を殺されたら復讐する。或いは不正の温床になりやすい天下り等を
全面禁止する。そういう行為は正当である、ということを主張したいわけではない。
そうではなくて、恨み、ねたみ、反感などの感情は、人生を豊かに生かす力にならず、却って
人生を害し、貧しくする力になってしまうということである。

私の様な凡人が散歩の途中で、お日様をつれないと思ったとしても大した事はないと思う
かもしれない。しかし、そのような些細な恨み・辛みでも、そんなものを長引かせては、
私にとってかけがえのない散歩、即ち自分を活かし自己の人生を有意義なものとする力を
失ってしまう。芭蕉のように爽やかに、素晴らしい気分転換を成し遂げる心がけが大切だ。

さて、私の生甲斐である散歩を継続する大切な道具・‘新しい運動靴’の履き心地や如何に?
今日は運動用の厚めの靴下をはいて、初日の散歩に使用してみたが、おおむね良好だった。
ただ、1万歩程度歩いた時点で、足の指の分れ際辺りに圧迫感があり、靴の紐を緩めてみた。
しばらくして圧迫感は少し弱まった。まあ履き慣らす範囲内?如何なものか。
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閑話’091013 [散歩]

今週からまた仕事がないので、早朝割引のゴルフ練習に行きたいのだが、宵っ張りの朝寝坊で
今朝も行けなかった。筋トレ・素振り後に、散歩でイオンまで行き、誕生月の割引を利用して
つましい生活のために、散歩で草臥れた運動靴の予備、その他、無駄のない買物をしてきた。
経済的にどういうカラクリになっているのか、こういう量販店では、セール品と誕生月の割引
を合わせると30%も値引きされて、私の必需品等は年々安くなって来ているように思う。

現役引退後、当地に転宅した後の散歩用運動靴の購入についての変遷を振り返ってみよう。
私は元々、あまり靴一般に対して難しい注文をつけない主義だった。私は足を靴に合わる、
即ち多少の齟齬は使い慣らしてしまうことができた。運動靴の選択は若干のクッション性と
簡単なフィット感以外には、基本的に経済性(即ち低価格)を、殆ど最優先としていた。
従って最初の頃は2千円・3千円の運動靴を愛用していた。毎日1万歩以上歩いていると、
靴の底が割れるとか、底が剥れる等でダメになった。恐らく生産技術の海外移転当初の初期
トラブルだったように思う。近年の運動靴は随分改良されて、耐久性等の品質の改良と共に、
低価格も維持されてきているように思う。

毎日1万歩以上歩き続けていると、私も何時の頃からか履きなれた靴でも足が痛くなってきた。
足を靴に合わせる能力が衰えてきたのだろう。その頃から経済性と共にフィット感を大切に
しだした。すると、やはり無名のメーカでなく、ブリジストンとかミズノなどのブランド品が
よりフィットするように思った。そこで、その中では安いクラスのもので、しかもセール品等
を狙って購入するという戦術をとっている。

最近では、ブランドの安いものも、無名のものも価格に差はない。
従って今日もブランド志向で、自分の足に合っているミズノの運動靴(セール品)を選択した。
まあ私の購入する運動靴などは、世間でいう超高価なブランド品とは月とスッポンの違いだ。
そんな超高価なブランド品を欲しがらず、つましく生活すれば、それなりに結構な生活が
できるからといって、満足できるのは、既に欲望が枯れかかっている人間だからだろうか?
それはさておき、年金暮らしの身にインフレや消費税の値上げ等が心配だ。これからの日本は
その国力をバックに政策的にも市場的にも、食品等を含む庶民的な必需品の諸物価は、適切に
コントロールされるメカニズムが働くようになっていくのだろうか?如何なものか。
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秋の和歌’09 [歴史]

今日は少し冷え込んだ朝から青空が広がり、そのまま秋らしい天気が継続した。
散歩は軽く済ますつもりだったが、青空に誘われてか、つい頑張って時間をかけてしまった。
鳩山内閣の最初の秋ということで、今日は、古今、新古今の和歌を数首お借りして、
「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」 という感慨も込めて、政権交代と絡めてみたいと思う。

○ 色見えで移ろうものは 世の中の 人の心の 花にぞありける 小野小町
小町が、花は変化すれば、色が変るから分りやすいが、人の心の変化は、人には見えないので
分りづらいと、恋人の心変わりを嘆いている一首。この一首を現在の民衆の心に当て嵌めても
十分通じる感想である。今回の政権交代に伴う人の心の変り方も、なかなか見え難い。
本当に、政権交代に伴って、民意はどんな色に変ったのだろうか?私のつたない頭で考えると
光がプリズムを透過すると七つの色に分光するごとく、民意は、政権交代というプリズムを
経過して、やはり、それぞれ多様な色合いに変化していくのではなかろうか?

○ 世の中は 何か常なる飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる 読み人知らず
飛鳥川の形は日々変化しているという状況にことよせて、作者は世の中の無常を嘆いている。
鳩山内閣になったことによって、相当多くの人々が、無常を嘆いていることであろう。
高級官僚の天下り禁止やダム工事中止等に関係ない一般の民衆には、喝采している人も結構
いるだろう。“驕れるものは久しからず”というところだろうか?だから与党も喝采している
人も驕ってはならないと思う。どうかその辺のところを宜しくお願いしたい。

○ ながらえば またこの頃やしのばれん 憂しと見し世ぞ 今は恋しき 藤原清輔
昔、憂うつだった頃のことでも思い返すと今は恋しく思われる。だから憂うつな現在の事も
生きながらえて振り返ってみれば、また懐かしく思い出せるのだろうか?という意味だろう。
鳩山政権になったことで、大変な思いをする人々も、将来、振り返ってみればあの時は必死で
頑張ったなぁ!と懐かしく思い出せるように難局を切り開いて欲しい。諦めないで下さい。

こうやって古今集、新古今集という800~1000年以上の時の流れを隔てた和歌を紐解くと
様々な感情や、常識や、美意識などが、気の遠くなるほどの時空を隔ててつながっていることを
まざまざと思い知らされる。伝統と改革、常識と英知との連携が大切?如何なものか。
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カオス?コスモス? [希望]

朝方は快晴だったが午後には雲が多くなった。この頃の天候はコロコロ変わりやすい。
今日の散歩も、日照と曇天を繰り返す猫の目天気で、傘を携帯したが、降雨は無。
今日は目の愛護デー。目の愛護デーの標語大募集 入選作を見た。私が一番気に入ったのは、
○ いたわろう 目は一生の パートナー
最近とみに目が疲れる。パソコンを使う時間が、ブログのために長くなっている?
目を労わるために目薬補給してマッサージしているが、その他に何をすればいいのかなぁ~!

今日の新聞一面トップ記事は、「オバマ氏 ノーベル平和賞」。この出来事には、様々な意見、
見方があるだろうが、私は、カオス?コスモス?という視点から、少し論じてみたい。

核の脅威と環境問題で、今求められている事は、革新的英知を創造することではなかろうか?
その期待を込めてオバマ氏にノーベル賞を授与するのだと私は考えた。オバマ氏は、自分自身
及び核の脅威と環境問題を左右する人々の心に訴え、自らおよび彼らの英知を引出し、彼らも
また関係者の心に訴えて人々の英知を引出す。その英知が問題を解決してくれると信じる。

核の脅威、環境問題は、人間が強大な力を獲得した事に起因する。秩序化してきたコスモスと
しての地球の歴史が、またもとのカオスの世界に逆転してきているような恐怖を覚える。
そして多くの人々は、立ち止まり、我慢するべきだと考える。“我慢”という言葉は、仏教語
では、‘自分の力や才能をたよりに人をバカにして威張ること。’、‘自分の考え方を頑固に
押し通すこと。’という意味で、日本特有の使い方と真反対になっている。
この含意をどの様に読み解くべきだろうか?

私は、コスモロジーという思想に望みを託したいと思っている。
コスモロジーとは、一般に宇宙論と訳し、他の意味は日本では殆ど省みられない。
別の意味のコスモロジーとは秩序あるコスモス(宇宙)のために共有する知恵の総体である。
近代の賢人達はこの知恵を大切に育ててきた。この概念が一般に普及していない理由は、
近代科学の浅薄な理解により、胡散臭い考え方と決め付ける批判的な意見が多いためである。
私は、別に人々に声高にこういう概念の価値を押し付けるつもりは無い。しかし私自身は
秩序あるコスモス(宇宙)のために共有する人類の知恵(英知)を信じたい。如何なものか。
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閑話’091009 [希望]

台風一過というが、晴れたり曇ったり。午後の散歩は既に雲が大空の大半を覆っていた。
雲は今にも雨を降らせるぞ!と言いたげに真っ黒になっている。傘携帯散歩となった。
今週土曜までの週間万歩目標に5千歩弱と迫っている。余裕で今日は1時間強で切り上げた。

今日は世界郵便デー。万国郵便連合(最も古い国際的専門機関)が、1874年10月9日に、
国際郵便条約によって設立された事に由来するらしい。万国郵便連合憲章によって、切手を
貼った郵便物は、どの国の切手でも国際的に配達されることが保証されているらしい。
貴重品、秘密文書その他の配達の安全がどの程度まで保証されているか詳しい事は知らない。
先進国では、郵便事業の民営化が進んでいる国も多いだろう。宅急便等との関係は?
文書だけであれば電子メールもある。歴史的に見て万国郵便連合の重要性が増大しているとは
考えられないが、いざという時には無くてはならぬ基本的インフラ。空気のようなものか?

さて昨日の続きであるが、“西洋を超える”とか、“近代の超克”、“ポストモダン”などを
軽々しく言う大人には気をつけた方が良い。西洋や近代の上澄みをすくっているだけで、西洋や
近代に真正面から取組まない不甲斐ない大人たちがオピニオンリーダとして目立ちすぎるのだ。
日本とは少し違った様相だが、米国にも混乱はある。だから日本に混乱があるのは当然である。
米国では1970年頃から中年の精神的危機に対応するための大人の発達心理学が盛んになった。
これは、米国の中年も、更に精神的に成長しなければならないことを意味していたと思う。

日本においても少し遅れて同様の問題が顕在化しつつあり、それは更に加速されるだろう。
何故なら、形骸化しながらも維持されてきた従来の伝統や習慣が、今やあからさまな形で、
打ち破られるだろうからである。今回の政権交代の理由は、行きすぎた小泉構造改革に対する
批判ではない。政権交代の真の理由は、従来の道徳に対する過度な批判と、個人の偏狭な道徳
主義とがドッキングするという、近代化で陥りやすい罠にかかったということである。
小泉構造改革選挙における自民党の大勝も、その兆候があったのかも知れない。もしそうならば
選挙の度ごとに、個人の偏狭な道徳主義を煽ることで勝とうとし、奈落へ落ちるだろう。

近代の精神・思想は、この罠を回避し、或いは罠から開放されるための知恵の泉である。
汲めども尽きぬこの知恵の泉を見過ごす手は無い。如何なものか。
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寒露(かんろ)’09 [希望]

台風18号は、東海・関東などに大きな被害があった。お見舞いを申し上げる。
当地では午前は風もなかったが、正午頃から風が強くなり、間欠的だが夕方まで続いている。
今日は24節気の1つ寒露(かんろ)の日である。また次の節気・霜降(そうこう:10.23)迄の
期間も寒露の期間。夜露に冷たさが加わり、秋もいよいよ本格的になる頃ということらしい。
少なくとも今日のところは寒露らしさを感じるまでには至っていないような気がする。

さて、雑誌「正論」11月号の日下公人の記事に関する批判をもう少し分りやすくするために
私の考え方を少し整理した。私の考える近代化の精神とは、
○ 既成の権力と闘って、政治的な自由と制度的改革の道を開いたのである。
○ 現代に迄、その進歩を継続させる原動力であり、その影響は今後も継続すると考える。
科学とそれに伴い創発された思想の発展が問題ではなく、科学や思想を使いこなす人間の側
に大きな問題があるというのが、私の主張したい大切なポイントである。

自由を獲得し、科学や思想をベースにして、既成の道徳を批判するのは問題ではない。しかし
昨日も書いたが、行過ぎた批判は、偏狭な(自己中心的な)道徳主義を主張する事につながる。
偏狭な道徳主義がモンスターペアレントや無差別殺人や自殺の原因という途轍もない自己主張
という形で現れるのも問題だが、もっと問題なのは、「民意」という飾りを付けた時である。
偏狭な道徳主義が、それぞれの民衆にとって、玉虫色に輝いて見え、素晴らしいユートピアに
導いてくれると期待するとき、紆余曲折を経て、途轍もないことが起こりうるのである。

権力による道徳の強制や禁欲的道徳の否定、或いはそれらからの開放に関しては、18世紀から
19世紀のマルキドサド侯爵やニーチェが論じている。それらは間違っていないと思う。
しかし世俗の道徳と個人的理想のギャップ、または理想の道徳を見出せないストレスを、
途轍もない自己主張、偏狭な道徳主義(不可視の途轍もない自己主張)へ変貌させてはならない。
そういうことを避けるのもまた政治の役目であって、適当な飴玉で誤魔化すことではないのだ。
先日、映画「さまよう刃」主演の寺尾聰と鳥越俊太郎のテレビ対談の時に、鳥越が、「自分の娘
が同じような目に会ったら絶対自分で復讐する、と自分の中で何回も何回も思いを繰り返した」
という意味のことを言っていた。自分の中で空想する限り何の問題もない。しかしその思いを
現実に実行してしまったら、それは途轍もない自己主張である。如何なものか。
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秋雨’091007の繰言 [希望]

朝方からの雨は今も降り続く。非常に大きな台風18号が近づいている。風速15m/s以上の
暴風圏は午前3時頃には当地に達するようだ。各地に大きな被害がでない様、祈るのみである。

久しぶりに雑誌「正論」を読み、民主党政権に対して、様々な懸念や意見があることを知った。
私もいろいろなことをブログに書き綴ったが、私の書いている立場はどういうものか?
振り返ってみた。私の立場は、
1.人間は言語や文字などによって、「暗黙知」を備え、個別的事項を統合する範囲を拡大した。
2.社会において、絶対的道徳の強制=幻想、暴力を招くのみ。完全主義は破壊を招く。
3.近代の批判的精神は、無制限に許されず、無制限な道徳的要求と調整されるべきである。
4.伝える人と伝えられる人との間には、伝える事の全てが明らかになっている訳ではない。
5.この「暗黙知」を伝えるためには、相互の信頼関係が必要である。
6.不完全な人間が自由・対等で絶対的道徳の強制がない社会は無責任・利己主義で混乱する。
7.しかし私は、「暗黙知」によって、相互の関連付けを行っていける、と考える。
8.そして統合が進み、人々が、自分の使命を自分自身で設定できる共同体を形成できる。

私もいろいろと民主党を批判したが、それは老婆心からであり、無制限なものではない。
例えば亀井静香金融・郵政改革相(72)の6日の閣議後の会見をどう解釈するか?述べたい。

5月に対談した日本経団連の御手洗冨士夫会長に対して、「家族間の殺人事件が増えている
責任は大企業にある」と言う話を、10/5の都内の講演会で紹介し、10/6の閣議後の記者会見で
「取り消す気は全然ない」と語ったという。

私は、この大企業批判はあまり大きな問題にはならないと思う。それは財界側が大人だから。
しかし、亀井氏の批判は、チョッと行き過ぎており、彼の道徳の強制が強すぎると思う。
彼が守りたい道徳が、どういう性質のものか、分らない訳ではないが、そういう問題は権力で
押し付けると必ず歪みがでてくる。権力者の座にある身は、己を抑制するべきだと思う。
かのゲーテも、“すぐれた人は、抑制によっておのれを証明する。”と言っている。
そして、このゲーテの言葉は、現在の民主党全般についても言える事である。権力をタテに
自己の道徳(或いは価値観)を押し付けず、抑制によって説得すべきでは?如何なものか。
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