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寒露(かんろ)’09 [希望]

台風18号は、東海・関東などに大きな被害があった。お見舞いを申し上げる。
当地では午前は風もなかったが、正午頃から風が強くなり、間欠的だが夕方まで続いている。
今日は24節気の1つ寒露(かんろ)の日である。また次の節気・霜降(そうこう:10.23)迄の
期間も寒露の期間。夜露に冷たさが加わり、秋もいよいよ本格的になる頃ということらしい。
少なくとも今日のところは寒露らしさを感じるまでには至っていないような気がする。

さて、雑誌「正論」11月号の日下公人の記事に関する批判をもう少し分りやすくするために
私の考え方を少し整理した。私の考える近代化の精神とは、
○ 既成の権力と闘って、政治的な自由と制度的改革の道を開いたのである。
○ 現代に迄、その進歩を継続させる原動力であり、その影響は今後も継続すると考える。
科学とそれに伴い創発された思想の発展が問題ではなく、科学や思想を使いこなす人間の側
に大きな問題があるというのが、私の主張したい大切なポイントである。

自由を獲得し、科学や思想をベースにして、既成の道徳を批判するのは問題ではない。しかし
昨日も書いたが、行過ぎた批判は、偏狭な(自己中心的な)道徳主義を主張する事につながる。
偏狭な道徳主義がモンスターペアレントや無差別殺人や自殺の原因という途轍もない自己主張
という形で現れるのも問題だが、もっと問題なのは、「民意」という飾りを付けた時である。
偏狭な道徳主義が、それぞれの民衆にとって、玉虫色に輝いて見え、素晴らしいユートピアに
導いてくれると期待するとき、紆余曲折を経て、途轍もないことが起こりうるのである。

権力による道徳の強制や禁欲的道徳の否定、或いはそれらからの開放に関しては、18世紀から
19世紀のマルキドサド侯爵やニーチェが論じている。それらは間違っていないと思う。
しかし世俗の道徳と個人的理想のギャップ、または理想の道徳を見出せないストレスを、
途轍もない自己主張、偏狭な道徳主義(不可視の途轍もない自己主張)へ変貌させてはならない。
そういうことを避けるのもまた政治の役目であって、適当な飴玉で誤魔化すことではないのだ。
先日、映画「さまよう刃」主演の寺尾聰と鳥越俊太郎のテレビ対談の時に、鳥越が、「自分の娘
が同じような目に会ったら絶対自分で復讐する、と自分の中で何回も何回も思いを繰り返した」
という意味のことを言っていた。自分の中で空想する限り何の問題もない。しかしその思いを
現実に実行してしまったら、それは途轍もない自己主張である。如何なものか。
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