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「カーネーション」第五週・雑感 [大家族]

今日は、ほぼ一日中雨が降っていた。事情があって午前と午後に分けて散歩した。
午後の散歩は、運のいいことに、傘を携帯したが、差さずに済ますことができた。
差さずに済む程度の降りで、雨が降らなかったのでは無い。明日も雨模様である。

連続TV小説「カーネーション」の第五週では、糸子(尾野真千子)が、2つの大仕事をした。
1番目は、新聞記事を読んで、自ら発想し、女性百貨店員の洋装の制服を売り込んだこと。
2番目は、職人が居なくて納期寸前で困っている商売人を助ける仕事を請けた事である。
これらの仕事をやり遂げる過程には、様々な見どころがあったが、私が最も注目したのは
父・小原善作(小林薫)の一見、どうかと思われる無理難題の数々である。

1番目の仕事では、折角、糸子が仕事にして、(母方の祖父母を頼り)ミシンの手当てを
したのに、善作は祖父母の家に行くな!と立ちはだかる。しかし、その代わり自分の店の
商品である呉服反物を全て売払って、ミシン1台を買ってきた。
2番目の仕事では、妹・静子(柳生みゆ)が取ってきたパッチ100枚を一晩で仕上げるという
超短納期の縫製の仕事を糸子が家族の窮状を救おうと引受けたことに、善作は異を唱えた。

百貨店の制服の時も納期が短かったので家族総出で仕事をしたのに、今回のパッチ仕事は、
断れと言い、糸子が一人前の大口を叩くと家族の手助けを禁じ、「一人でやれ」という。
善作には善作の仕事に関する哲学があるだろうが、糸子は、まだ二十歳になるやならずの
小娘でっせ!厳しいですね!しかし善作のやり方は、現代では少々乱暴に感じるけれども、
彼を理解しようと努力すれば、それほど無茶な事を言っているのではない。現代人が、
善作の言動を乱暴に感じるのは、論理的ではない、或は説明が親切ではない等という理由
から来るのであろう。しかし、人間は決して論理的でも合理的でもない。人間が論理的、
合理的、理性的に見せる時は、自分を高く評価してもらうためであり、利己的である場合
が多く、利他的であるという保障は何もないのである。

兎も角、善作と糸子とのやりとりを視聴していると、それが、昭和シングル時代を忠実に
再現しているか?否か?という議論もあるが、それと比較して現代がふやけて見えてくる。
現代の親子関係等は、昔と比べると、時間が経過してふやけてしまったうどんに思える。
平均寿命が長くなったのだからジックリ勉強すればいいというのかも知れない。しかし
「鉄は熱い内に打て」という諺もある。ふやけたうどんは後から手の施しようがない。
ふやけた人間も、またふやけた人間を増やすだけではないか?如何なものか
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散歩つれづれ'11.11_(2) [閑話]

今日は、薄曇後快晴後晴れで、昨日の曇天に比べて圧倒的に暖かで、夏姿で散歩したが
大汗をかいた。それでも、今日は散歩途中の秋を鑑賞し、何枚か写真を撮った。
NEC_0079倉敷川.JPGNEC_0081芸文館.JPG
最初の写真は倉敷川の堤に群生している黄色い花である。
背高泡立ち草に似ているが裾の広がりが少ないから別種かも?兎も角、私は生物音痴だから。次はアメリカハナミズキに似た木である。既に紅葉の盛りは過ぎているが、鮮やかな色だ。これは芸文館で撮ったが、街中の街路樹としてあちこちにある。NEC_0084鯉.JPGNEC_0085鯉.JPG
次の二枚は、新渓園の池の鯉である。こんなに色とりどりの立派な鯉がたくさんいるとは知らなかった。この池は倉敷川とつながっているのだろうか?
後の横長の二枚は、同じく新渓園で撮った紅葉である。
NEC_0086新渓園紅葉.JPGNEC_0083新渓園紅葉.JPG
「生物音痴」で思い出した。散歩道で奇妙なものを見かけたが、スロージョギング中で、急な停止もママならず、数分後、「あれは脱皮最中に昇天した昆虫(バッタの親玉級)」ではないかと気付いた。寒天のようなぶよぶよと柔らかそうに見えたのである。しかし、先を急いで引返さなかった。今思うと残念無念である。今ではバッタではなく、ムカデかげじげじの様な段々が付いていた事を思い出した。幅・1センチ以上、長さ・4~5センチはあったと思う。相当長寿を全うした脱皮の必要な節足動物であったに違いない。写真を撮っていれば一大スクープだったかもしれない。本当に残念だった。脱皮については、ブログ「2011-10-12生命に関する感慨」で、グレートスパイダークラブの奇妙な脱皮行動について取上げた。人間の精神的・心理的な脱皮は、文字通り脱皮をする動物達の様々な脱皮行動と同様に、大変な苦労・苦心、大変な思いをして成し遂げねばならないのだと思う。

今日の連続TV小説「カーネーション」では父・小原善作(小林薫)が、またまた糸子(尾野真千子)に
難題を吹っかけてきた。妹が取ってきた仕事を断れと言い、やるなら一人でやれというのだ。
糸子が脱皮するための環境作りなのか?単なる頑固親父なのか?楽しみだ。如何なものか
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散歩つれづれ'11.11 [大家族]

今日は文化の日であるが天候は生憎、曇り空だった。歩いても大して汗もかかず、
じっとしていても寒くも無く、雨にも降られず、散歩には丁度良い日和であった。

今朝、途中からだが、NHKで、「さど・まさし 題名のある音楽会」を聞いた。
この音楽会は、東日本大震災の被災者を元気づけるイベント「さだ・さど音楽会」として
2011年9月30日に兵庫県立芸術文化センターで開催されたものだそうである。
いまや、世界的指揮者といわれる佐渡裕は、NHK総合テレビで毎月1回放送中の番組
「今夜も生でさだまさし」の大ファンだそうだ。
さだまさしと佐渡裕が、さだはギター、佐渡はフルート?で演奏しながらデュエットで歌った
『案山子』で、さだまさしは歌詞を間違えたと、演奏の後、正直に話していた。その間違いに
感動した人も多かったのではなかろうか?さだまさし本人が、今まで一度も間違えた事がない
稀有なハプニングだったという希少価値だけではないような気がする。

音楽の力によって呼び覚まされた会場の人々の魂が、東日本大震災や阪神・淡路大震災等
に関する様々な静かで激しい思いを呼び起こし、さだまさしの魂に共鳴したのではないか?
さだまさしは、(亡き人々を含め)人々の激しい思いに圧倒され、しばし言葉を見失った
のではなかろうか?

私は「魂」は大切な概念だと思っている。戦前は、「大和魂」を誇大に宣伝して好戦意欲を
あおり、悲惨な戦争で多くの若者を亡くしたために、戦後は「魂」の概念そのものが廃れた。
戦後は、そのあおりで道徳そのものも否定され、平和と民主主義を国民道徳の根幹とした。
平和と民主主義は政治的概念で、道徳的概念ではない。要するに理性偏重となったために、
人間という動物の不条理、非理性的な側面を切捨てて生きなければ「人でなし」となった。

「魂」という概念を説明する事は難しい。余り良い例えではないが、手近な所で言えば、
連続TV小説「カーネーション」の糸子(尾野真千子)と、父・小原善作(小林薫)や、母親・
小原千代(麻生祐未)の生き方だと思う。世俗的な財産等にこだわらず、自らの魂の叫びに
従って生きているのではないか?

閑話休題:私は、'11年下半期は連続TV小説を題材にしないと宣言してきたが、ブログを書く
題材に窮してきた。そこでこれからは、「魂」とは何か?「魂」の生き方という観点から、
連続TV小説「カーネーション」を適度に取上げて行きたいと考えている。如何なものか
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