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散歩つれづれ'11.10_(E) [大家族]

今日で今年の10月もEndだから、'11.10の付く「散歩つれづれ」もEnd
今日の天候は、早朝・雨、午前・晴れ、その内に曇り後また晴れと、変化した。
それでも、今日は暖かで、昨日よりも更に気温が高かったような気がする。
散歩の開始時刻が早かったから、夏並みの薄着で、心地よいスタートを切った。

今日は、新しい散歩道を開発して、初めて歩いた。
イオンに車を止めて散歩を開始。酒津貯水池に向かい、北側配水樋門から流れ出る用水路沿い
にカフェ「三宅商店」、浄水場の横を通り、青江神社への坂を上る。宮下の踏切(伯備線)を渡り、
青江神社には行かず、線路沿いの小道を行く。そして用水路が二つに分かれるところを、北側の
用水路沿いに歩くのである。伯備線路沿いで少し南下するが、二股に分かれた後の用水路は、
ほぼ東に向かっている。目立った建物は、親和パッケージ倉敷寮や龍昌保育園位で、私にとって
目新しい田園風景が広がり、丸で別世界を彷徨っている様な感覚だった。
しかし見慣れた道(浅原の安養寺に向かう道)に出くわして、僅か数十分の夢散歩に終わった。
その少し先・平田交差点近くの429号線に出た。
NEC_0077稲荷.jpg
暫らく酒津貯水池に戻るの道を変えてみた。すると面白い稲荷神社(写真)
に出くわした。稲荷鳥居の額に、石臼を使い、「正一位稲荷大明神」と
彫られていた。鳥居の額は、それなりの決まりがあるのではないかと思う。
稲荷神社の総元締めである伏見稲荷に行ったが、数ある鳥居の額に石臼が
使われていた例はない。そういえば、稲荷の鳥居といえば朱塗りと相場が
決まっているが、この鳥居は石造り。型破りの稲荷神社のようである。

散歩で良い汗をかきながら、少し家族の絆について考えた。私たち夫婦も当地に引っ込んでもう
10年近くなっている。子ども達と七百数十キロの距離があることが、家族の絆を細くしている?
豊かになった事や社会福祉の充実等が、気苦労の多い地縁・血縁の絆を‘ほだし’と勘違いして
日本のみならず、西洋各国も地縁・血縁の絆が、切れ掛かっているのだと思う。

西洋社会は、「神は死んだ」といわれて久しいが、決して死に絶えてはいないのではないか?
しかし日本社会では、心に神を抱いている人々の数は、わずかではなかろうか?
もし神も地縁・血縁の絆も見失ったら、日本社会は物欲の野獣社会、さもなくば幻想社会、
そして精神異常の社会と化す? あるいは今のギリシャのようになるのだろうか?
如何なものか
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散歩つれづれ'11.10_(6) [閑話]

今日の散歩開始時は、晴天で、毎度のことながらスロージョギングでは薄着でも汗が出た。
しかし次第に雲が広がり、空一面の曇天となり、ランニング一枚着込んで丁度よくなった。
さて連続TV小説カーネーションであるが、今日は糸子(尾野真千子)が一週間泊込みで洋裁を教えて
くれた根岸先生(財前直見)を見送る感動場面で10/21,24,27のブログ写真で紹介した場所が
またまた背景に採用されていた。そこでチョッと気になったのが、
物語の中と、実際との位置関係に矛盾があることだ。10/21放送分では糸子が
自宅からパッチ屋に向かう方向は、10/21の写真→10/27の写真の方向だったのに、今日は
見送る場所が、10/27の写真近くで根岸先生のTAXIは、10/21の写真の方向に走り去った。
ドラマに実際の風景を取入れる際にはこういう事は日常茶飯事?なのだろう。

閑話休題
先日出席した中学の同窓会をキッカケに、クリスチャンの知り合いが増えた。
その中の一人に教わったのが、「聖書をヘブライズムで読む」という考え方だった。
そして、その人曰く、「生命の光」という小冊子がどこにでもあると思う。
それを、一度読んでみたら!といわれた。

それを聞いて、そういえばそんな冊子が雨ざらしになっているのを何度も見たな、と思った。
いつもバス停にある冊子が、帰途見つかれば、ご縁があったという事で少し調べてみよう。
なければご縁がないということで、友人の勧誘は聞き流そう、と、某バス停に近づいた。
遠目には何も見当たらなくてホッとしたが、よく見ると地べたにビニール袋に入った一冊が、
落ちていた。冷たくあしらわれた冊子が哀れに思われ、拾い上げて汚れた袋はゴミ箱に入れ
冊子「生命の光 2011・10 No.707」を持ち帰って読んだ。少し興味を引かれた。

私は、宗教に関してはニュートラルである。既に高齢者の仲間に入っているから関心はある。
我々現代日本人の心のあり方は、大変、難しい問題を抱えているのである。最近、福田恒存著
「日本を思う」の日本近代化にまつわる諸問題、を読んでいる。以下はその引用。
◎ 日本近代の担い手は、利潤追求の商業勢力に過ぎず云々。
◎ 神と理想的人間像なくして、個人の確立も、その超克もありえぬ云々。
西洋の近代化は社会と個人との対立を解決しようとした革命の失敗作である。しかしその失敗
の要因は、合理主義、科学主義に依存したからで、わかりやすい。「社会と個人との対立」を
解決するのは、個人の内面からのアプローチしかないのではないか?現代の我々同年輩が、意外と
多くクリスチャンになっている要因は、その辺りにあるのではないかと推量する。如何なものか
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散歩つれづれ'11.10_(5) [閑話]

昨日に続いて今日も快晴、しかも散歩中全く雲を見かけないという完璧な快晴だった。
10月24日霜降(そうこう)の二日遅れの昨朝は、気温がグッと下がり、今朝も更に下がったが
今日の日中は昨日よりも暖かかったのは、一瞬の日のかげりも無かったからだと思う。
今頃の季節は、日がかげると気温が下がり、汗をかいた体に風の冷たさが身に沁みるのだ。

今日は「読書の日」と暦に書いてあったのでネットで検索したが、「子どもの読書の日」という
のは出てくるが、10/27の方は、「読書週間」の最初の日というだけで、詳細は不明だった。
「読書週間」も、何かクダクダしい説明があったが、あまり要領を得なかった。
「読書週間」で思い出すのは神田古本屋街の古書祭りである。まだ横浜に住んでいた頃に
たまたま通りかかって、物珍しさに色々と見て回った記憶がある。
古本屋の場合は、本の種類によって置いてある場所が大体わかっている。古書祭りでは
本の置場所をよく知らず従って、あまり見たり読んだりしない本でも自然と目に付くので、
興味を引かれ、あれやこれやと手にとって見たのも面白かった。

「読書の秋」という言葉がある様に、枯葉舞う公園のベンチや、喫茶店や、秋の夜長、机に
向かって、本を読む姿を想像するだけで、読書好きの私は、何だかうれしくなってしまう。
私が最も好きな読書の場所は、外が眺められる町中の二階以上の喫茶店で、読書しながら、
外を眺めて、それからそれへと連想を巡らせて、瞑想にふけることができるところである。

自宅で一人読書するのも悪くないが、私の場合、読書にのめりこみ過ぎて、読書から得られた
情報をストレートに取り込み過ぎる傾向にあるため、読書を有意義にする工夫が必要である。
それに引き換えて、外での読書は適度な雑音があって、それが読書内容を吟味するキッカケと
なり、余り身構えることなく、内容を多面的に捉えることを可能にするのではないか?
従って、調べものは自宅や図書館、新たなアイデア発想の場合は喫茶店等という事になる。
NEC_0075石橋.JPG
さて今日の締め括りは、連続TV小説「カーネーション」の岸和田に見立てた撮影現場で、今まで紹介をしていなかった写真である。10/21の糸子(尾野真千子)が出勤途上、駆け抜けるシーン、10/24、パッチ屋の職人・山口(中村大輝)が、首になった糸子(尾野真千子)の見舞いに来て立話するシーンに出てきた石橋(写真)だ。今日の散歩で撮ってきた。
真っ青な秋空だったが、逆光で色が飛んでいるのが残念だった。
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散歩つれづれ'11.10_(4) [閑話]

昨日、今日と曇天続きで、傘携帯散歩だった。稲穂の殆どは刈取られ、残りは10%以下?
刈取りが終わると晩秋? そしてもうすぐ立冬、初冬である。
今日の散歩も、スロージョギングで、汗をかくことはかくが、気温も最高20℃で風も冷たく、
もうそろそろ、夏の出で立ちでは風邪を引きそうである。結局、今日も傘は使わなかった。

さて昨日、アルボムッレ・スマナサーラ著「怒らないこと2」の内容を事例として、人間の生き方に
ついて考えたが、その内容が中途半端だった様に思い、もう少しだけ書き加えたいと思う。

本源的な「怒り」、即ちエントロピー増大に抵抗する本来の目的、とは何か?
それは、様々な表現・考え方があると思うが、私は、「生命の生まれた意義を高めること」
だと、考えている。生命は、食物連鎖などによって、他の生命の命を貰って生きている。
人間も現代のような強大な力を持たない時代には、他の動物の餌食になってきた。
現代でも、様々な細菌、微生物、生物に食物を提供したり、共生したりしている。
人間は、生物との共生のために、農林水産業で、人工的育成という方法を考えた。そして
力を蓄えた人間は、生物界の王族・貴族として、生物界に君臨し、それらを統御してきた。
それらの事跡の中では、暴君として自然破壊に至ったケースもあったが、そう言うケースは
局所的に自然から人間の生存意義に「ノー」を突きつけられる事によって解決されてきた。

兎も角、地球上は人間の努力によって、少なくとも人間にとっては楽園へと近づいてきた。
しかし現代では人間という生命の生まれた意義を、食物連鎖の中に見出す事は困難?だし
現代の人間は益々膨張し、他の生物の生命を益々必要としている。その問題解決ができず
従来の生物界の支配者という意義?も、通り越し、局所ではなく地球規模の暴君と化した。
現状を冷静に評価するならば、人間の生まれた意義はなくなっているのではなかろうか?

人間は、地球上における存在意義を見失っている事に気付かず、地球生物という同志を
見捨て、宇宙に脱出することを夢見て悦に入っている、実に醜い生物(怪物)と化した。
地球と地球の生物達は人間の親であり、先祖であり、先祖伝来の故郷である。現代社会は
恩も義理も、道徳観もないのか?あるのはエゴの塊なのか?地球の暴君と化した人間社会の
醜さに気付こうともせず、世渡に使う汚らわしい人間同士の道徳・倫理しかないのか?
本源的な「怒り」、エントロピー増大に抵抗する本来の目的を忘れ、人間社会がエゴに
憂き身をやつしている姿は、私には、恐龍の巨大化と何の変りもない様に見えてしまう。
人間の知性や理性も、恐龍の脳みそと変わりはないということなのか? 如何なものか
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散歩つれづれ'11.10_(3) [閑話]

今日は霜降(そうこう)、二十四節気の第18、立冬(今年は11.8)の前の節気である。
露が冷気によって霜となって降り始めるころ、ということだが、今日も昼間は暖かだった。
NEC_0069屋敷.JPG汗を滴らせながらの散歩だったが、今日も朝見た「カーネーション」の
場面を確認に某所を経由した。
今朝、最初の画面に出てきたのが写真の屋敷である。TVの映像
は斜め上からのカメラアングルだったから気付きにくいが私に
はよく分かった。物語の中でパッチ屋の職人・山口(中村大輝)
が、パッチ屋を首になった糸子(尾野真千子)の見舞いに来る。
その時に、石橋の上で二人が話す場面があるが、あの橋も、地元では有名な橋である。NHKTV小説「カーネーション」は、物語的な興味もサルことながら、時々でてくるわが町の映像を見分けることが、非常に楽しみになってきた。TV鑑賞にも様々な楽しみ方があるものだ。

全く話は代わるが、最近、読んでいたアルボムッレ・スマナサーラ著「怒らないこと2」サンガ新書043
について、私の読み方、考え方を少し、まとめておきたいと思う。
著者は、スリランカの小乗(上座ともいう)仏教の偉い坊さんとのこと。なかなか良い事を書いている
が、「いわしの頭も信心から」と、書いている内容を、頭から信じるのは危険である。如何なる書物も批判的に読まないと、自分にとって役に立たない、間違った生き方を採用しかねない。

本書の底流には、当り前かも知れないが、小乗仏教がある。本書を最後まで読み、統合的に著者
の考え方を読み取ればわかると思うが、大部分は小乗仏教の解釈が前面に出過ぎているので
古い考え方として切捨てられかねない。また小乗仏教的視点だけを後生大事にして、バランスを
欠いた理解になりかねない。せっかく良い事を書いているのに、それは勿体ない。
古い事が悪いわけではない。ただ新しい仏教や知見も取り入れて、考えるべきだと思う。

私が一番引っかかった点は、怒りを「悪」の様に扱い過ぎている点だった。
生物がエントロピー増大の法則に抵抗する営みを、怒りという言葉で表現するのには多少問題が
あると思う。生物が、エントロピー増大の法則に抵抗する営みを続けている事は明白である。
「エントロピー増大の法則」が、神の意思なら、生物は、神の意思に逆らっていることになる。
「エントロピー増大の法則」はマクロな法則で、エネルギーレベルが高い間は部分的に減少する
現象も一般的である。地球は地球自身のエネルギーレベルと、太陽光線のエネルギーによって
生物が、エントロピー増大に抵抗できる環境にあるのである。

さて、著者が云いたかった事は、人間の傲慢に対する警告だと思う。
大昔は、エントロピー増大に抵抗するために、人間は毎日、毎時間、命を削る思いをした。
命の火を絶やさぬように様々な精神的な活動があり、「怒り」もその一つであろう。


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散歩つれづれ'11.10_(2) [閑話]

午前からの散歩は素晴らしい天気。少し雲はあったが、青空と眩しい太陽で一杯だった。
この一週間ほどで、田圃の稲刈りも7割以上刈取られていた。10.15のブログで
今年は例年より遅れているのでは?と書いたが、その後、頑張ったのだろう。
昨日は、お天気がよかったのに都合で1万歩を大きく下回ったので、今日は頑張った。

話は変るが、今朝見た連続TV小説「カーネーション」の撮影現場が、どうも岸和田ではなく見慣れた
場所の様な気がした。今朝の撮影現場とは、ラジオ体操を終えた糸子(尾野真千子)が、
出勤途上、幼馴染の安岡勘助(尾上寛之)を見かけて追いかけるシーンの事である。
このシーンは糸子が走っているのを追いかけるカメラワークで、背景が早く切替り、
景色は判別し難い。だから私の様に見慣れた人間でも、視聴した時には、まだ半信半疑だった。恐らく大多数の視聴者は、私の様な不審を抱く事は、無かったと思う。

NEC_0065.JPGその不審を解くために、今日は散歩コース中に、撮影に使われた
と思われるわが町のある場所を含めた。「ある場所」の名称は
あるのだが、それを書くと多くの人が気付くから、あえて伏せて、
此処にその場所の写真を掲載した。思わせぶりに場所を敢えて
明らかにしないのは、写真の場所が、岸和田から相当隔たった
場所だからである。
昭和5年(1930)という時代をTVで再現するには、岸和田に適当な場所が無ければスタジオで
行う事になるが、追いかけるシーンは大掛りなセットになり、制作経費が膨大になるだろう。
ちょいと隣町でといっても、適当な場所がなく、某有名地方都市の一角を使ったのだろう。

NHK関係者も、余り知られたくないと思っているのではないか?と推察する。
私のブログを丹念に読めば私の住む町の名前はすぐわかるが、そんな物好きも居ないと思う。
関係者に迷惑もかかるまいと、自分の新発見を細かに書いた次第である。
昭和5年という80年以上前の町並みを表現するのに、自慢の我が町の一角が採用された事は、
大変喜ばしいことだと思う。ご笑読いただきたい。

最後に一言。昨日のブログの題を「歴史の興亡は茶番劇?」と付けた理由が、後で少し??
と思ったのだが、今日の散歩中に「サンガ新書043 怒らないこと2」という本を読んで、
何故、こんな題を付けたのか?合点がいった。私も中々のものではなかろうか?
この調子で怒らないことを続けたい。 如何なものか
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歴史の興亡は茶番劇? [歴史]

一昨日から、小冊子「尼子氏と戦国時代の鳥取」を基に、戦国時代の地方豪族と、その上に
君臨する守護や守護代の興亡を通じて、社会秩序の崩壊と再建について、考えてきた。
戦国時代を経て変化したのは、貴族社会(天皇・公家)の明らかな政治的地位の低下である。
それは、寺社にも通じる。祭忌や芸術、趣味を扱う専門家集団への解体である。
それに伴って、守護、守護代といった中央政府の出先機関と、地方豪族による三重・四重の
搾取構造ではなく、地方大名や地主による二重の搾取に変った。勿論、重税だったが。
貴族社会が没落した原因は、武士社会の貴族文化への憧れが薄れたことではなかろうか?
以前、山口の方に旅行した時に入手した小冊子「大内義隆の光と陰」を思い出して読んだ。
大内氏の遺産を継承した大内義隆(ヨシタカ)は、中国地方の大部分と九州北部に跨る室町幕府で
最大の守護大名だった。大内氏が、表面的には毛利氏にとって代わられたのは何故なのか?

大内義隆(1507-1551)は天文11年(1542)、尼子氏の本拠・月山富田城を攻めた。この時は
まだ小領主であった毛利元就は大内軍に従軍している。無能な大内軍は地理、ロジスティクス戦略
など、無い無い尽くしで城を攻めあぐね、味方から裏切りが出て惨めな敗北を喫した。
元就も九死に一生を得て帰郷する。その後、義隆は一度も戦争をしない平和・文化愛好者?
大内義隆は、室町幕府の上級武士の公家文化に対する強い憧憬の伝統を引き継いだ。
義隆が平和ボケしている間に、大内家は、武断派と文治派の対立が激化し、武断派の重臣・
陶隆房のクーデターになり、天文20年(1551)、義隆は、あえなく自刃したのである。
9年の歳月をトップリーダが無為に過ごせば、どんな立派な組織も崩れてしまうのだろう。
この間、毛利元就は粒粒辛苦して、吉川、小早川の両川に次三男を送り込んで自陣営とし、
家中においては、専横を極めていた井上元兼とその一族を粛清している。

こうして歴史を大雑把に見ると、農林水産、製造業等の一次産業は、一見、搾取が軽減され
社会改革が成されているように見えるが、果たしてそうなのだろうか?
一次産業は縮小し二次・三次産業へと移行する先進国程、食うに困らなくとも不平不満分子が
増大し、現代のギリシャの様に、国家規模の暴動に膨れ上がる。国を運営管理する官僚組織迄「収入の削減等トンでもはっぷん!もっと金よこせ!」と叫ぶのは商業への課税の仕組の問題
ではないか?商業では労働者の賃金が正当に評価されず、課税評価も曖昧で資本家だけが
ぼろ儲けという構造に、「全ての問題」があるような気がするが? 米国でも証券取引の
打壊しの動きもある。証券取引に累進課税しても、強欲な金持は取引を止めない? 
現代までの歴史の興亡は、命がけの戦いで大変だったが、次元の低い戦いではなかったか?
物質的に豊かになった今後こそ、先進国の興亡が、後の世に問われるだろう。如何なものか
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信頼を得るには? [歴史]

今日も昨日と同じ、いやそれ以上に真っ青な快晴で爽やかだった。風も涼しかった。
それでも、日中のSJ(スロージョギング)では、たっぷりと汗が出た。
 戦国時代(1467-1575)が長引いた理由は、室町幕府の政治的権威がなくなり、各地勢力が
互いの信頼を失い、勢力争いをしたためである。しかしそういう混乱の中で、秩序を樹立する
方法として、集団間で信頼関係を築くようになった。
 その事が小冊子「尼子氏と戦国時代の鳥取」を読んでわかったのである。信頼を得る方法は
多種多様だと思うが、戦国時代にも信頼関係を築く事を心掛けていた武将が居たのだ。
それは三本の矢で有名な毛利元就(1497- 1571)である。
元就の戦略(自軍を信頼関係のある集団とし、信頼関係のない集団を自軍に吸収する)は、
戦国時代の乱闘騒ぎとは一線を画するものだ。毛利元就の戦略と対照的なのが、それ以前の
武将達の戦略(力による支配・侵略)である。小冊子に出てくる旧式武将の代表例は、
月山富田城(島根県安来市)を本拠とする守護大名・京極氏の守護代・出雲尼子氏である。

毛利元就は、安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)の小規模な国人領主から
中国地方のほぼ全域を支配下に置くまで勢力を拡大、中国地方の覇者となった。
数々の戦いを経験したが、小冊子では尼子氏の盛衰に伴って毛利氏との関係を語っているので
此処では、その記述内容を基に、元就以前の武将と、元就の戦略の違いを考えた。

尼子氏は、近隣の伯耆そして因幡(現在の鳥取)に攻め込み領地を拡大した。負けた領主で
生延びた人々は再起を図る。尼子氏は昨日のブログにも書いたが、叔父-甥の内紛等があり
山陰地方に毛利氏の勢力が拡大する。尼子氏に追出された地元領主が、自分の領土を取戻す
に当たり「毛利氏のご威光」と書かれた文書も残っている。本拠復帰に毛利氏が大きく関わって
いたという。毛利軍の尼子氏の本拠・月山富田城の包囲網は、元就が築いた人脈によって、
徐々に絞られて、永禄9年(1566)尼子義久(?-1610)は元就に降伏した。しかし、義久は
富田城を退去後、何らかの刑を受けたろうが1589年以降は客分として余生を送ったと言う。

尼子氏の本拠・月山富田城の背後の山は砂鉄の産地で、その資源による豊かな家柄だった。
戦国時代の前・中期の各地の領主は代々の資産家であった。そういう金持のぼんぼんでは、
資金を使って戦争に勝つ事はできても、新しい秩序を構築できないのである。
次男に生まれ、父親の死で相続した領地を家臣に奪われ、貧乏な少年時代を送った毛利元就は
人の情けを知る人間として育った。徳川家康等もそうだが、若い内に苦労して育っていないと
信頼関係の構築、引いては新秩序の樹立等、なかなか出来ないのでは? 如何なものか
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信頼が崩れる時とは? [閑話]

今日は昨日と異なり、真っ青の秋晴れで爽やかだった。
しかし当地の太陽光線はエネルギッシュなのか、日中の気温は高かく、散歩で汗をかいた。
 鳥取散歩で入手した資料の中に、戦国時代の様子が、わかるものがあった。
「尼子氏と戦国時代の鳥取」という小冊子である。
戦国時代というのは、下克上と表現されているが、その実態は私にとって謎に満ちていた。
この本を半ばまで読んで、少しわかったことをメモしておきたいと思う。

戦国時代は、室町幕府による支配が機能しなくなったための社会的混乱で、改革ではない
と思う。幕府政治は明治まで継続されたことが、それを、何よりも雄弁に語っている。
例えば現代日本の政治的混迷は、制度的な問題ではなく、自民党の政治統制力が無くなり、
政党間の信頼関係がないから、社会的に混乱しているのに似ていると思う。

戦国時代が、社会的混乱であり、群雄割拠したのはわかるのだが、その状況が百年以上も
なぜ継続したのか?という事が、今ひとつわからなかった(勉強不足に過ぎないのだが)。
この本を途中まで読んで、その理由の一端をうかがい知ることができた様な気がする。
その理由は、信頼関係の崩壊である。
例えば、応仁の乱のキッカケは、有力守護大名の跡目争いによる内紛が、発展した。
また、有力守護大名・大内氏は、重臣・陶隆房(スエタカフサ)のクーデターで滅びてゆく。
尼子氏も、叔父-甥(総領)の意見対立から、自軍の最大軍団である叔父の軍団を滅ぼす。
意地なのか、見得なのか、獅子身中の虫ではなく、自らの手足を食ってしまう愚かさだ。
また群雄がなかなか纏まらないのは、様々な国が流動的に連携して、大国を牽制するためだ。
要は、様々な国々が、相互に真の信頼関係を築けないためであると思う。現代日本で話題の
大連合等は戦国時代の流動的連携。現代の政党も、戦国の群雄によく似ていると思う。

信頼関係崩壊の理由は色々あると思うが、私は「価値観が共有できない事」だと思う。
そしてその障害は、「欲」だと思う。異なる価値観の上に、それらを統合できる価値観を
描けるかどうかは、相互の「欲」の調整が可能かどうかにかかっていると思う。

今日、録画していた映画「お引越し」(1993年制作)という古い映画をみた。
可愛い娘は、父母の喧嘩を我慢しているのに、父母は何故、離婚しないと我慢できない?
父母が離婚するのか?しないのか? 実は、都合で最後まで映画を見ていない。
親子の価値観を統合できるか否かは、親子の「欲」の調製可否で決まる。如何なものか
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骨蔵器よ語れ! [歴史]

日本史上の謎の時代を解く鍵が、これから、次々と明らかになっていく?先日の鳥取散歩で得た資料から、一人の女性の骨蔵器について知った。女性は「伊福吉部(イホキベ)」「臣(オミ)」、「徳足比売(トコタリヒメ)」。略歴は地方豪族の娘で朝廷に仕えた「采女(ウネメ)」であった。推定生年は天智天皇3年(664)。鳥取市国府町から発掘された骨蔵器の銘文によると、和銅元年(708)に亡くなり、和銅3年(710)に火葬されて埋葬された。彼女は、白村江の戦(663)と同時代に生まれ、天智天皇の即位(668)、壬申の乱(672)、飛鳥浄御原→藤原京遷都などを経験している。DSC08994骨蔵器.JPG
朝廷に仕えたと推定される677年以降、天武、持統、文武の三代の天皇に仕えた事になる。
徳足比売の生涯は、今で云えば随分と短い44年間の人生だった。しかし骨蔵器(写真)の銘文と最近の研究で明らかになってきた彼女の歩んだ人生は、1300年の時空を超えて、何かを訴えている様に思えるのである。何故なら、日本史の中でも、蒙古来襲や、明治維新に匹敵する国難の時代と重なる彼女の人生は、今まで闇に葬り去られていた様々な真実が、明かされていくキッカケになるのではないか?と、期待できるからである。

徳足比売の時代は、異様に多く遷都が繰り返されている。667年、近江大津宮に遷都。 
672年、飛鳥浄御原に遷都。 694年、藤原京に遷都。そして、710年、平城京に遷都。
また日本史上の女帝は10代、8人だが、655年以降、770年までの第37代~第48代までの
12代の内、6代、5人が女帝であるという事実である。天皇家が、相当混乱していた?
従来のこの時代の歴史的事実は、多くは、古事記、日本書記の記述に負っているが、
これらの書物が、相当、政治的なものであり、大変、謎めいている。

因幡の豪族の娘・徳足比売が、銘文では都で卒した後、二年を経て郷土で火葬・埋葬されたというが、写真の様な立派な青銅器に丁重な銘文を入れて葬るという事が当時、普通だったのか?
ある資料によると、「火葬の風習は文献による限り、700年の僧・道昭が最初。火葬が普及するのは8世紀になってからで、持統天皇(702)、文武天皇(706)と伝えられる。」とある。DSC08993骨蔵器.JPG
わが家の近く・吉備地方には、昔、吉備真備(695 – 775)の出身豪族・下道(シモツケ)氏が住んでいたという。吉備真備の祖母・骨蔵器(写真、銅製)が、矢掛町から発掘された。この銘文によると、和銅元年(708)に火葬された事がわかる。骨蔵器の主は、吉備真備の父親と叔父の二人の姓名を書き、その母親と書かれて、本人の名前や、年齢は明らかではないが、徳足比売と同年に亡くなった事になる。当時の因幡や吉備の豪族は、中央の天皇家と肩を並べるような状況にあったのではないか? この時代の歴史の解明が益々、進む事を祈りたい。如何なものか


補足情報


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