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カーネーション:糸子の啖呵 [大家族]

今日は、糸子(尾野真千子)の胸のすく啖呵で終わった。踊り子・サエ(黒谷友香)が
安物の生地で作った試作品を気に入ってしまう。「そんな安物を高う売るわけにいかない」と
洋裁師のプロを自任する糸子は、サエも同様に踊り子のプロとして遇したのである。
しかしサエは、自分はそんな大層な踊り子ではないと、自嘲気味に言ってしまう。
それを聞いて糸子がガツンとかます。「ほな帰り!そんな女の着るドレスを作りたくない・・」
「・・・・・さっさと着替えて帰って!」と言い捨てて、糸子は試着室を出て行ってしまった。

私は、この啖呵は決して糸子の我儘・気儘から出たものではない、と思う。では何処から
出てきたのか? 相手・サエに対する気遣い、思い遣りから出たとも言いづらい。そこで
私は一連の出来事を、「心の自由」という観点から少し、考えて見たいと思う。

子どもの頃は皆、自由な心を持っていた。だんじりの大屋根に乗りたい、洋服を着たい等の
糸子の思いは、自由な発想から生まれた。しかし父・善作の反対にあって制約される。
これらが社会と個人との対立の始まりである。人間は成長するに従って制約が増えるために
個人の自由を束縛されていると感じる様になる。現に糸子も、それを認識している。例えば
パッチ屋時代、神戸の祖父・松坂清三郎(宝田明)が、心斎橋の喫茶店でご馳走してくれた
時に、祖父の美味しい話を断って喋った話が、祖父を唸らせた。その時の糸子のセリフが、
「お祖父ちゃんウチに甘いさかいな。すぐ甘えてまうと思う。そしたら勉強にならへん」
「・・・・一生懸命に勉強して、一人前になったら、お祖父ちゃんの所へ行くわ。」である。
これはパッチ屋に行くのを許可された時に、善作(小林薫)から100回も「勉強」を繰返し
聞かされた結果、祖父の美味しい話を選択する自由を奪われたと解釈する事も可能である。
人間が成長するという事は、選択を伴い、選択は制約を伴う。自己責任で選択しないと
結果的に、選択に伴う制約が、自由を奪い始めるが、選択に責任を持てば、その制約は
自分の成長であって制約ではなく、自由は一向に奪われないのである。
DSC09059椿.JPG
糸子は善作の話を、悪意即ち束縛として受取らず、善意に
自己の成長に役立つ様に聴くという選択をし、糸子の心の自由も
保たれているのだ。そしてそこに祖父は感心しのである。今日の
糸子のサエに対する啖呵も「自由な心」から発していると思う。
「自由な心」から発する言葉は、世俗的な利害を超えた魂から
発する言葉であり、キッと良い結果を生み出すだろう。
如何なものか
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