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散歩・免疫・思い出 [思い出]

DSC09111足高大銀杏.JPG今日も気温が戻り暖かな一日で散歩途中、写真を色々撮った。左の写真
は足高神社の大銀杏。まるで仏像の光背の様に、神々しく輝いていた。
この黄葉は三本の銀杏で形成されているが、真ん中の一番高い銀杏は、
私の腕で二抱えはあろうと思う大木だ。石段が銀杏の木の間に見えるが、
これは神社参道の石段で、現在東北楽天の星野監督が倉商時代に
足腰を鍛えた伝説の石段という。(写真の上でクリックすると拡大する)

さて免疫の事を調べていて面白い情報を得た。
生まれたばかりのパンダ、コアラ等の赤ちゃんには、笹を消化する酵素やユーカリを無毒化する
酵素を持っていないという。腸内細菌が消化してくれるそうだが、その為に赤ちゃんは土壌菌等
を体内に摂取して、腸内細菌を増やすのだそうだ。人間も野菜のセルロースを分解する酵素を
持ってなくて、腸内細菌がせっせと分解するという。
赤ちゃんが何でも舐めるのは、土壌菌等を体内に取入れて腸内細菌を増やすためだ。

それで思い出した事がある。私の小さかった頃はよくお腹を壊して、柔弱な体質だったが、
その原因は、亡き母が、懸命に私を衛生的に育てたからではなかったか?事情があって、
私を是が非でも成人するまで育てなければならないと思い詰めた母は、私を無菌状態に
近い形で育てたのではないかと思う。私自身が潔癖症に育った事が何よりの証拠だろう。
免疫力の本・藤田紘一郎著「免疫力をアップする科学」の著者は、今でも様々な土壌菌を
カプセルに入れて毎日飲んでいるという。私が小学生時代迄お腹を壊した腺病質だったのは
何でも舐めたがる赤ちゃんの特性を押さえ、無菌に近い状態で育てた事が原因ではないか?

私は当時の母は当時の知識で懸命に頑張ったんだと思う。感謝こそすれ、恨むなんてとんでも
ない事だ。しかし現代の様に、既に科学的に腸内細菌の働きが明らかになっているのだから、
無菌状態の養育は良くないと思う。幸い、わが家は妻も娘たちもよく心得ている。
私だけが遅れていた。人間、自分の間違った経験から自由になるのは難しい? 如何なものか
DSC09116メタセコイア葉.JPG
左の写真は、メタセコイアの黄葉。
用水路の水面のキラメキが映えて美しかった。
◎ 煌めきぬ メタセコイアの黄葉(もみじ)かな
(写真の上でクリックすると拡大する)
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幸福感とGNH [健康]

今日は、気温は昨日同様に11月末にしては暖かかったが、薄日の差す曇天だった。最近、
幸福感との関係で免疫力を勉強しているが、散歩やスロージョギングは、免疫力の維持にも
良いそうである。適度な運動は、若い人たちには、免疫力の増進にもつながるだろう。

免疫力との関連から幸福感の基本要素を考察しようと、免疫の勉強をしている内に、
幸福感(感覚)と、ブータン王国の国民総幸福量(GNH)でいう幸福量との異同を余り
整理していない事に気付いた。心(精神)の状態と、その人の免疫力との関係について
当初私は、幸福感が良好なら免疫力が活性化されると、解釈すればよいと思っていたが、
幸福量が多ければ、免疫力が活性化されるとも解釈可能である事に気付いた。

そこで先ず、ブータンのいう幸福量とは、何か?を調べてみた。そして、御手洗瑞子著
「お金は「幸せの国」の大切な一要素です 「国民総幸福度」はGDPの対立概念にあらず」http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110610/220679/
という記事から、ブータンのいう幸福量とはどういうものか?という事を考察した。
記事は、「(GNHは)自然、伝統文化を壊さないようにしながら、人のワークライフ
バランスを保ち、産業育成し、国として自立可能な形で「幸せの国」を実現するため
の指標である」と述べている。

この定義から、ブータンの幸福量を、超簡単に要約すると、「経済的、物質的に自立して
自然な生き方をすること」と、言えるのではなかろうか?しかし、これは実現できない?
なぜなら、長い人類の歴史の中で、我々日本人やブータンの人々の様に、平和を愛する
DNAの人類は少数派で、競争する事、戦う事、殺戮する事を愛するDNAを受継ぐ人々が
大勢いるからだ。現代の自立(過去も同様?)は、競争し戦う事の好きな人々が獲得した。
しかし国として見た場合、先進国の多くは借金まみれで自立しているとは言い難い?
この事は、先進国でも、大勢の人々が、競争し戦う事に疲れてきているからではないか?

そこで、私の幸福感とGNHとの違いが、明確になってきたと思う。
GNHのハッピネスは、それを支える環境が整わなければ、達成できない。しかし
私のいう幸福感の基本要素は、幸福を見分け、幸福を感じる為のものであって、
環境に左右されずに、ハッピネスを活性化するのである。幸福感覚で大切な事は、
環境に流されない事、幸福のための競争であって、競争の為の競争ではない事、そして
それ以外の基本要素を学ぶ事によって幸福感覚を磨くことである。如何なものか
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快晴散歩'11.11(2) [散歩]

11.26に花の写真を撮ったが、何に付けてもど素人の私には、名前がわからなかった。
昨日、たまたま植物図鑑に遭遇した機会に、調べたところ、大体の見当が付いた。
一枚目はネリネ。ネットを使って、更に念押しをして、以下に紹介する次第である。
DSC09094○桃.JPG
図鑑を見た時、直感的に、撮った花がネリネでは?と思ったが、
後で考えると写真とは随分と花の形が違う。そこでネット上で
ネリネの写真を多数検索したがズバリのものに出会わなかった。
諦めかけたが、ネリネ由来の幾つかの記事を読んで、悟る所が
あった。ネリネが、園芸植物として、17世紀頃からヨーロッパに
渡り、20世紀初頭から英国で改良が始まって多くの交配種があるというのである。
従って私の撮った写真はキッとその一種と確信して、ネット検索を熱心に繰り返している内に、
以下のURLの記事に到達した。http://d.hatena.ne.jp/hantubojinusi/20081220
写真の花をネリネと推定した根拠は、実にこの記事に由来する。(以下はその引用)
ヒガンバナ科ネリネ属のボウデニー(Nerine boudenii) という。ネリネは、ギリシャ神話
の水の妖精、ネリネ(Nerine) の名にちなむ。ボウデニーは、人名にちなむ。
ネリネボウデニーは、1904年にイギリスに紹介され、日本には1912年に渡来した。
その他ネリネ参考情報(http://www.kamoltd.co.jp/kakegawa/nerine.html
DSC09090白花大.JPGDSC09089白花.JPG
左の花は、私の推定では、ツメ蓮華。
これも植物図鑑で当りをつけて、ネットで
検索して確信がもてた。
図鑑では頭部が細くなっているし、
いろいろ違って見えたので、図鑑だけでは
確信がもてなかった。確信がもてたのは、以下に示すURLの記事による。
http://photo.air-nifty.com/blog/2008/11/tsumerenge.htm
この記事によると、ツメレンゲは、環境省RDBでは、準絶滅危惧種に指定されているとの事。
環境省RDBは、URL(http://www.biodic.go.jp/rdb/rdb_f.html)を参照のこと。実際に
環境省RDBのリストを調べたらツメレンゲのランクは、確かに準絶滅危惧(NT)となっていた。

ネットでは、様々な豊富な知識を持った人々が沢山存在する事を、改めて思い知った。
今回の写真検索によって、戸外散歩の楽しみ方が、無限に広がる様な予感をもった。
ど素人の悲しさ、品種に間違のある場合、ご叱責を賜れば幸いである。如何なものか
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快晴散歩'11.11 [散歩]

DSC09079快晴.JPGDSC09086銀杏.JPG今日は手順よく、比較的早い時間から散歩に出かけた。昨日以上の冷え込みだったが、快晴なのでお天道様のエネルギーを頼りに、昨日よりも若干薄着で散歩した。最初は寒く、スロージョギンで体を温めるも、なかなかヒートアップしなかったが、お天道様はありがたい。徐々に快適になってきた。
写真は山の端まで真っ青な快晴の写真である。どんなに快晴でも地平線近くは乳白色になるのがほとんどで、空気が乾燥した冬でないとこういう写真はなかなか撮れない。

散歩の最初は、日なたが有難く、日陰になるとゾクリとなる。暑い頃はあんなに日陰がいとしかったのに、寒くなると厭わしくなってしまう。所が、スロージョギングで体が温まると、日陰がまた有難くなる。人間の体感は同じ様な状況でも、環境や自分の体調で随分と受取り方が異なるものだ。
◎ いとしいと、いとわしいとは、1字の差 わの働きに驚かされる  自作

次の写真は、黄葉した銀杏の木である。銀杏の黄葉する時期になると、この時期に逝った友と、友を散り行く黄葉の銀杏に見立てて詠んだ奥さんの追悼和歌を思い出す。読むものの魂を揺さぶる言葉、そして和歌の威力を改めて思い知らされる。

閑話休題:幸福感を考える上で、音感との対比だけでは不十分である。そこで言語能力について幸福感と対応可能か検討した。しかし言語力は、認知能力の総合化の手段で、幸福感のような人間の生存にとって有用な認知か?無関係かを識別するという一種の価値観を有していないので不適格だと思う。そこで思いついたのが、免疫力である。免疫力は、人間の生存にとって、有害なものを識別し、排除する能力で、人間生存に関わる価値観を有した能力である。これは幸福感を正しい道に導くためのアイデア発想に役立ちそうだと思う。

現代は、人間の免疫力が低下してアトピー、うつ病、がんなどの病気が増加しているとの事。原因は、過剰な清潔社会、快適で便利な文明社会による活性酸素の増大、過大なストレスなどである。幸福感という幸福認知力が低下しているのに相似するではないか?免疫力を増大し、回復させる事と、幸福感という感覚を取り戻す事には、重要な関係があるようである。今後とも、考察を続けて行きたいと思う。如何なものか
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冬の寒さも優りける [大家族]

立冬過ぎも、まだまだ暖かく軽装で散歩を楽しんでいたが、一段と厳しい冷込みとなった。
◎ 山里は 冬ぞさみしさまさりける 人めも草も枯れぬと思えば 源宗干朝臣(古今集)
意味:山里は冬になって、人も見かけなくなり、草も枯れて、尚更さびしくなったなあ!
◎ わが里の 冬の寒さもまさりける ジョギングしても風に冷え込む 自作
スロージョギングをすれば、体が温まり、歩きに切替えた時、軽装でも冷え込まなかったが、
今日は昨日と違い、厚めのパーカを着用したにも関わらず、徒歩では風の冷たさに冷込み
スロージョギング後も、ほとんど、小走り(早足)で、なんだか忙しい散歩になった。
つい先日まで妻は、夕餉の支度に火を使うから暑いと言っていたが、今日は涼しい顔で、
部屋を暖房しながら火を使っていた。まさに、冬の寒さも本格化してきた。

しかし、この季節の変わり目の、気温の変化に対する体感温度は、相対感覚である。
私は、春から夏への気温変化は、暖かくなるのは余り気にならないが、三寒四温などで
一旦暖かくなってからまた寒さが戻るのは、非常にこたえる体質である。
秋から冬の場合も、気温変化が冷え込む時には、非常にこたえる体質である。
絶対気温的には、これからまだまだ寒くなるが、寒くなったら寒くなったで何とかなる。
人間の体は、変化には弱くとも、安定すれば、結構、適応範囲は広いのだろう。
仮に、厳寒と酷暑の気温を日々繰り返すような場合だと、私の場合、酷暑→厳寒・時期に
耐えられるか?が心配である。いずれにしても、そんな過酷な環境変化に体が持たない?
それは老人が思う事であって、若い人には、過酷な環境が人を育てるという側面もある。

幸福論の難しさは、常に幸福量が多ければ良い、と割切れないところにある。
私が幸福感を大切だと思うのは、幸福量調査だけでは、本当の幸福の追求にはならない
と、思うからである。幸福感は、幸福量が少なくとも、幸福を感じられる能力だ。

今日は余り書く事を思いつかなかったので、いつもの様に暦をみた。
今日は、「OL」と「ハイビジョン」の日だそうである。この二つを一緒にすると
「ハイビジョンOLの日」となる。ハイビジョンは、絶世の美女、という意味にもとれる?従って
今日は、「絶世の美人OLの日」と、解釈できるのでは?と、私設記念日を考案した。
そこで、この二つの記念日が揃った時期を調べてみた。「OLの日」は、1963年制定
「ハイビジョンの日」は、1987年制定、従って「絶世の美人OLの日」となったのは1987年。
私の娘達が、世間に出て働き出す少し前だ。娘達が絶世の美人か否か?
まあ親ばかとして、私設記念日・「絶世の美人OLの日」を、娘達のために祝おう!
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幸福感と幸福度(2) [閑話]

繰返しになるが、私は、幸福感を「音感」と同様の感覚として考えたいと思う。
西洋音楽の音感の基本は音階という特定の波長の音を聞き分ける能力である。
同様に「幸福感」は「幸福」を視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、直感等の六感を通じて、
幸福度という幸福の基本要素を認識する能力、幸福感=幸福認知力だと考えるのである。

素晴らしい音感がないと素晴らしい作曲や演奏を創造出来ない様に、素晴らしい幸福感が
ないと素晴らしい幸福を創出する事はできないと思うのである。何かを創造する才能を
磨きたいならば、その何かの基本となる要素を認識する感覚、感受性、能力を磨くべきだ。
そういう幸福感=幸福認知力という風に捉え、その対象となる要素=幸福度と考えるのと
ブータン王国の国民総幸福量(GNH)と、その72の調査項目とは、だいぶ隔たりがある?

ブータン王国の国民総幸福量(GNH)の72項目の調査項目を調べてみた。
その詳細はわからなかったが、9つの構成要素からなっているという。それらは、
1.心理的幸福、2.健康、3.教育、4.文化、5.環境、6.コミュニティー、7.良い統治、
8.生活水準、9.自分の時間の使い方、という事であった。
これは国民が生活、環境、政治等に、どの程度満足しているか?というアンケート調査である。
詳細は不明だが、商業主義のアンケート調査の様に、お客様は神様として調査するのではなく
国民の「幸福」に関する認知力、素養・経験のバラツキを考慮し、絶対幸福感を育成する
基本要素の開発に役立ててもらいたいものである。しかし道は遠そうである。

そこで、もう一度、音楽に立ち返った時に、何故、西洋音楽が世界を席巻しているのか?
民族音楽の復活も、西洋音楽の基本要素を取り入れる事によって成し遂げられている。
これは、商業主義のみでなされたのではなかろう。西洋音楽の基本要素が世界中の人々の
「音感」を磨き、音楽に慣れ親しみ、音楽を学習しやすく、感覚を大きく成長させるから
ではないか。人類にとって音楽の歴史は長く、あらゆる民族に音楽の歴史はあった。
その中で、西洋音楽の強みは、学びやすさにあったのである。

だから私は、幸福感を感覚として、幸福を認知・識別する感覚を学びやすくする基本要素を
幸福度として開発すべきであると思うのである。古今東西の権力者をはじめ政治家、そして
商業主義にまみれた悪徳商人らは、何時の時代も民衆を搾取し続けている。民衆の幸福等
誰も本気で考えてはくれない。民衆自身が、幸福認知力を学びやすくして、搾取する人間に
騙されない絶対幸福感を身につけない限り、永遠の泥沼でしかない?如何なものか
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幸福感と幸福度 [希望]

昨日は音感を例に、景気感、幸福感等の感覚の重要性と共に、相対感覚と絶対感覚の相違、
絶対感覚の重要性等を述べた。様々な感覚を正しく身につける事が大切である。
昨日の説明では不十分だった幸福感とそれを感じやすくする要素である幸福度を考える。
その為に、最初に音感と、音感を豊かに育て音楽を楽しむための要素・音階を例に話す。

西洋的音感は、西洋音楽に幼い頃から親しみ聴き慣れ、訓練して育て、体得してきた。
西洋音楽に馴染みのなかった日本の古い世代や、私の同世代にも、絶対音感は愚か、
相対音感もない「音痴」が居た。西洋音楽を聴く機会が少なく、西洋的音感を獲得できる
機会がなかったからだ。西洋音楽的音痴が、日本的音楽(謡曲、民謡、浪曲等)でも
音痴かどうかはわからない。

西洋音楽の音階は物理的な「音」という世界で、西洋的・合理的方法で発明(発見)された。
日本を始め世界各国、各民族の音感と民俗音楽の要素(西洋音楽の音階に相当するもの)は、
西洋的・合理的に発明(発見)されていないかも知れないが、各々、何らかの要素はある?
しかし現代の趨勢では、西洋的音階の音楽、即ち西洋音楽によって、各国・各民族の音感は
征服されつつあるのではないだろうか?それは、人間共通の音感に対して、西洋音楽が他の
民族音楽より楽しませてくれるからだ。しかし最近、民俗音楽も見直されてきた。

そこで幸福感も音感同様、西洋的合理主義による幸福度が世界各地を席巻しているか?
答えは残念ながら違うといわざるを得ない。西洋的幸福度の中の「物質的幸福度」という
要素だけが突出しているが、精神面・心理面の「幸福度」に関しては、西洋以外の国々
のみならず、西洋自身も破壊されつつあるのではないか?

音感に関しては、確かに西洋の合理主義が優れていた。また物質的に豊かになるためには
合理的方法は有効であった。しかし物質的な豊かさは、過剰になると人を不幸にする事も
明らかになっている。西洋的合理主義が、役に立つ局面もあるが、それを「金の牛」に
する事は、大きな間違いである。ブータン王国が、幸福度を構築するという考え方は、
西洋文明の行き詰まりを打開する大きな手掛かりになるだろう。世界中の人々は
今や経済追及、勢力争いをしている場合ではない。戦争のDNAを消滅させるために
西洋文明の悪しき習慣を改め、非西洋社会の智慧を傾けて、それぞれの実情に合わせて、
幸福感の要素である「幸福度」を明らかにしよう!そして地域、国家、民族の幸福感を
充実させる事こそ、大切ではないか? 如何なものか
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相対感覚と絶対感覚 [閑話]

毎朝使うシェービングクリームの残量が、数日でなくなると思って既に二週間。まだ残っていた。
髭をそりながら、この予測ミス原因を人間の相対感覚と絶対感覚に関連付け考察した(笑)
音には、絶対音感というのがあり、音楽のプロは皆、絶対音感が発達しているという。
訓練すれば、ある程度一般人でも絶対音感を会得できるだろうが、なかなか大変なようだ。
動物の感覚は、相対的な変化を感じる相対感覚の方が一般に発達しているのではないか?
相対感覚と絶対感覚の問題は重要にも拘らず、意外と忘れられているのではないだろうか?

暑い寒いの体感温度、熱い冷たいの触感温度、生活が楽か苦しいかの景気感等は、全て
相対感覚が主流?相対感覚が敏感なのは、人間が自然に支配されていた時代の名残?
相対感覚の鋭敏さは、現状に対する危険予知能力だと思う。危険予知になぜ、絶対感覚を
用いないのか?それは、人間(動物)の環境適応力の幅が広いためではなかろうか?
絶対感覚でアラームを設定するとやたらアラームが出て、アラームの役に立たなくなる?

現代は、人間が自然に完全に支配されていた時代とは異なっている。従って危険予知も
昔とは違って幸福感等には、相対感覚だけでなく絶対感覚の発達も大切だと感じる。
現代は、相当数の人々が、景気感や幸福感について絶対感覚を身につけていると思う。
にも関わらず、古い体質のまま相対感覚で景気感等に、いきり立っている人もいる。
感度が良いのは、フェールセーフの安全サイドだから、大目に見るべきなのだろう。
しかし問題なのは、古い体質の不平分子を食いものにする輩(悪党)の存在だ。
悪党は、マネーゲームにおける勝者になるために、古い体質の不平分子を焚き付けて
問題を殊更大きくする事で、相場の変動を起こし、その上前を撥ねて大儲けするのだ。

ブータン王国の「国民総幸福量(GNH)」が、旨く機能しているとすれば、それは
民衆の景気感や幸福感について絶対感覚を身に付ける様に旨く指導しているからでは?
そしてまた、ブータンの市場が小さく悪党の興味を引かないからではないか? 

財物や地位・名誉等の裏づけがないと得られない幸福感は、相対幸福感である。
相対幸福感は、様々な環境条件の変動によって、幸福感が失われてしまうのである。
絶対音感によって、様々な状況変化に惑わされず、その場で最良の演奏ができるように
絶対幸福感によって、人生の様々な状況変化を、幸せに過ごして行けるのである。
幸福感の絶対感覚の獲得は、音楽における絶対音感と同様に「鬼に金棒」である。
如何なものか
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平和を愛するDNA [歴史]

平凡社新書522「全体主義」を読み終えた。発行は、原書2002年。日本語版は2010.05。
難しい本だった。著者はエンツォ・トラヴェルソ。訳者・柱本元彦のあとがきによると
著者は、フランス在住のイタリア人で、ドイツを専攻しユダヤ問題に取組み続けており、
六ヶ国語をあやつるポリグロット(多言語話者)で、論文はフランス語で書くそうな。
著作の内容が、多様な資料を渉猟して、実に多岐にわたって検討されているのも頷ける。
内容の話に入る前に、ポリグロットという言葉から、チョッと寄り道をしようと思う。

最近、「国民総幸福量(GNH)」で話題のブータン王国の言語はどうなっている?
ブータン王国は、やはり多言語国家であった。公用語はゾンカ語(国語)のほか英語、
ネパール語、多数のブータン語方言があるという。様々な民族の集合体?
ブータン王国の人口は、70万人弱。国土の面積は九州より少し大きい程度という。
ブータンにも、明治維新期と同様の、国家アイデンティティ問題があるようだ。
チベット系(ブータン北部)とネパール系(ブータン南部)の南北問題もある様子。
英語の公用語化は最近始まったため、中年以上の世代にはあまり通じない。逆に
英語教育を受けた若い世代は、ゾンカ語で話せても、読み書きができないものもいる?
インド製娯楽映画やテレビ番組が浸透しているために、ブータンで通用性が高い言語は
ヒンディー語やそれに類するネパール語であるという。

ブータンの超簡略概要を紹介したが、我々がブータンに親近感をもつ理由が見えてきた。
恐らく、ブータンも日本と同様に平和を愛する国だと思う。ブータンは山の中、日本は
海の中だけれど、国を構成する人々は、殺戮を繰返す世界にうんざりして、ささやかな
平和を求めてたどり着いた場所なのだと思う。ただ、世界と出会うタイミングが違った?

「全体主義」を読んで、民族のDNAに平和を愛するDNAの多寡があるという事を、
深く考えさせられた。本書の様に、問題を分析しなければ、ナチズムやスターリニズムの
悪行を防止し得ないならば、中々、歴史から学びとる事ができず、噴火、地震、津波等
自然災害と同様に、これからも、次々と、世界を揺るがす大事件が起こるだろう。
それでも我々、平和を愛するDNAをもつ人間は、そのような悪魔の所業に惑わされず
自分たち本来の責務を果たして雄々しく生きて行くべきだと思う。絶対の安全や安心等、
物理的には何処にもない。それを求め続け、戦い続けてきたのが人間の歴史ではないか?
そしてその要求が性急に過ぎるから殺戮が起こる。平和を愛するDNAは急がないのだ。
あくせくせず穏やかに物事を進めるのである。それが日本の保守本流。如何なものか
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「カーネーション」第7週・雑感 [物語]

今週のカーネーションの話は、今週だけでは、糸子(尾野真千子)と善作(小林薫)との
葛藤の意味がわからないと思う。今週の物語の意図はなにか?順次、述べたい。

今週の最大の見所は、「紳士服ロイヤル」と生地店「末松商店」における修業にも
合格した糸子の洋裁店開店の申し出に、善作は、何故、糸子を殴り飛ばしたか?
昔の親父とは、自分の気に入らない事は、何でも殴り飛ばす粗暴なDV男だったのか?

思えばパッチ屋の桝谷幸吉(トミーズ雅)から糸子の評価を聞き、善作が糸子を一人前の
洋裁店主に育てて、店を譲ろうと考えたのが、昭和五年のだんじり祭りの日であった。
その後、根岸良子(財前直見)に洋裁の技術を糸子に教えて貰うよう土下座して頼んだのも
百貨店の見本を実物で勝負しろとアドバイスしたのも善作だった。そして、短納期商品の
仕事も立派にこなし、もう一人前になったと、小原呉服店で洋裁の商売を許したのだった。
思えば、店を譲ろうと善作が決意してから三年。「石の上にも三年」という言葉がある。
やっとの思いで過ごした善作にとって、芸妓・駒子(宮嶋麻衣)の洋服代を受取らなかった
事に、善作は、糸子の商売人としてのみならず、人間としての甘さを見たのである。
この善作の直感に関して、是非を問うことは可能だが、人生は一度きりである。
生きるという事は、他人事として扱う評論家とは違う、自分自身の主体性の問題である。

善作は、自分の直感を信じて、糸子を再度、「紳士服ロイヤル」と生地店「末松商店」に
修業に出したのである。この一年余りの糸子の修業は、善作にとって余計な時間だった。
一年余りの糸子の修業は、糸子にとってプラスだが、善作にとってはマイナスなのである。
それにもかかわらず、親に向かって生意気な口を利いた糸子に、酒も入っていたために
カチンと来たのではなかろうか?善作を庇うつもりはないが、人生の一寸先は闇である。

糸子には、頑固な父親に、自分の思い、志を阻まれているという被害者意識があったろう。
だから、「親の心、子知らず」で、生意気な口を叩いてしまったのである。しかし
糸子が善作との修羅場後、顔も見たくないと母方の祖父母の家に逃げて行った時の事だ。
祖父母の老いを感じ取り、最早、自分が守られる立場ではなく、守る立場に気付いたのだ。
その伏線には、吉田奈津(栗山千明)の父親が亡くなり、時の移ろいを感じた事がある。
糸子と奈津は、育った環境は異なっても、健気に一家を盛立てようとする気持は、同じ?
奈津が、父親を失っても健気に頑張っている姿に、糸子も自分を重ね合わせるのだった。
そして、父親の権威を誇示しながら、その拠って立つ根拠の薄弱さを知るが故に、酒に
紛らわせて生きる善作の苦しい心の内を、何となく察するのである。

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