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言語による疎外 [歴史]

幸田露伴が、明治24年(1891)に書き残した“言語”という短い評論の最後の言葉は、
“「言」は「礼」の声なきなり。「礼」は「言」の形あるなり。「言」にして「礼」に違わば
あやういなり。”という言葉で締め括られている。実に簡潔に事の本質を突いた言葉である。
「礼」は「言」によって形は明らかだが、「言」には「礼」から直接、忠告される事はない。
しかし、もしも「言」が、「礼」の声なき声を聴かなければ、社会はあやうい、という忠告の
ように私には読める。この忠告は、益々、現代の日本社会に大きな意味を持つに至っている。

情報化、グローバル化によって、地域共同体が不安定になっている現状で、社会や個人の利益
とは何か?が分かりにくい。様々な利害が絡み合う個人、団体・組織にとって、社会秩序とは
何か?見えにくくなっているからだと思う。例えば、最近、グローバル企業では、“英語”を
社内共通言語にするという流れにあるようだ。グローバル社会で日本人企業が勝ち抜くために
必須の事かも知れないが、それで良いのか?様々な角度からの議論も必要であろう。

言語の元々の起源は、個人の「社会化」、「共同化」にあったという。しかし、言語機能は
「社会化」、「共同化」に止まらず、「個性化」をも育む複雑さを有している。旧約聖書の
皆で力を合せて立派な塔を建設する途中で、神が言語をバラバラにさせたという“バベルの塔”
の物語はそれを象徴的に語っているとも読み解ける。個人や集団が「社会化」、「共同化」を
極めていくと、個人や集団は「個性化」、「自立化」を志向し、高次元の世界へ向かうのだ。

しかし、「個性化」、「自立化」の道は、不安定であるために、折角の志にも拘らず孤立状態
を維持できず、自立性を放棄して不穏な言説に惑わされ、転落するケースも多いのだ。
第2次世界大戦中のファシズムは、このような観点から見るときよく理解できる。
日本の社会は明治維新以降、国や地域共同体の概念を強固なものとして確立した上で、
“科学技術”という近代言語を入手し、「社会化」、「共同化」という道をひた走った。
しかし「社会化」と「個性化」の緊張関係(即ち「礼」)を見失い、「自立」ではなく、
「孤立」という疎外化によって、ファシズムに堕落した。罠にはまってしまったのである。
敗戦後、“自由・民主主義”という現代言語を併せ持ち、「社会化」から「個性化」へと
進んできている。だが今の民主党政権の政治やマスコミの言説を見ると、「社会化」の基盤が
脆弱である。にも拘らず、砂上の楼閣の様な議論が横行し、「個性化」、「自立化」に対する
緊張感がなく、人々は再び「孤立状態」、「疎外化」に堕落する懸念が大きい。如何なものか。
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