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「ゲゲゲの女房」18週 [物語]

「ゲゲゲの女房」第18週のテーマは「悪魔くん復活」。第11週の「貧乏神をやっつけろ」で
マンガの「悪魔くん」は、取り上げられた。昭和38年(1963)に書いたマンガ「悪魔くん」
が、昭和41年に、アニメではなく、実写のテレビ番組になって復活した。
武良布枝は著書の中で、TV番組の「悪魔くん」について水木しげるは原作に拘らなかった、
と書いている。女房が、「あれほど心血を注いで書いたのに」と言わしめる程、精魂込めて
書いた「悪魔くん」の原作に旦那がなぜ拘らなかったのか?不思議に思っているようだった。

「悪魔くん」が、水木の戦争体験の精神浄化作用における最終的段階の作品だと考えると納得が
いく。今、思えば「悪魔くん」は、水木しげるの人生のターニングポイントではなかったろうか?
貧乏神にとりつかれそうになって(貧乏神にとりつかれると一生貧乏?)、「貧乏力」を振り絞って
頑張っていた時期であり、ノルかソルか人生の岐路だったのではないか?
そのマンガに対する真剣な取組み姿勢が、多くの人々の心を捉え、メジャーへの道を拓いた。

しかし、水木がメジャーになって、「悪魔くん」が再び実写のTV番組になる時に、当時の作者の
真意を忠実に再現する事は、そぐわない事に気付いたのである。マイナーがメジャーになる為の
製作態度と、メジャーになってからの製作態度は異なるのである。マイナーがメジャーになるため
には、その道の専門家を納得させる必要があるが、既に世に出た作家は、大衆に対する心構えも
自ずから異なった次元になるのだろう。人間的な幅が広がるのである。

「ゲゲゲの女房」の茂(向井理)と布美枝(松下奈緒)夫婦を見ていると、男女相互の「異質性」が
浮き彫りにされている。今週例えば、仕事によって茂は、急な出産の布美枝や誕生日の藍子を
ほったらかしにしてしまい、妹のいずみ(朝倉えりか)からヒンシュクをかう。
だが、ゲゲゲの夫婦の相互信頼関係は揺るがない。互いに愛を育み合ってきたといえばそれまで
だが、結婚以来、底なしの貧乏生活の修羅場で、信頼関係を築けた要因は何だったのか?

例えば、新「悪魔くん」への挑戦に茂は成功しないと思ったが、布美枝達の説得に応じた柔軟性。
またアシスタントに味噌汁を出すことについて布美枝が倉田(窪田正孝)を説得した時に示した
謙虚さ。それは社長の深沢(村上弘明)の気持を理解できず、不満を感じる加納郁子(桜田聖子)
とは正反対の心の使い方である。日本人が経済成長を追うとき、「異質性」に対する感受性が
鈍り、精神成長は停滞するだけではなく、退歩してしまうのではないか?如何なものか。
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精神成長と経済成長 [希望]

昨日、政治が、経済成長に偏って、精神成長を蔑ろにしているのではないか?と書いた。
政治家は、国民の不満は物質的欠乏感が原因だと思って経済成長優先のようだが、果たして
物質的欠乏感だろうか?
私は、国民の不満の原因は精神的豊かさに対する欠乏感(精神的欠乏感)だと思っている。

例えば、日本国憲法の第三章に 「国民の権利及び義務」 という章がある。例えばその中の
第十四条 すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地に
より、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。
栄典の授与は現にこれを有し、又は将来これを受けるものの一代に限り、その効力を有する。

この第十四条が有効に機能しているだろうか?または機能していなければ是正措置を取ろうと
しているだろうか?二世議員その他、様々な問題をこういう観点から検証する価値がある。

中国人弁護士・厳 義明(イエン・イーミン)が、“今の日本社会や日本人に必要なのは、
良い意味で「変人」を許容する土壌をつくることではないでしょうか。”、“日本人は
「異質な考え」、「異質な人物」に対する拒否感が大きい。”、“同質的な社会は、なかなか
革新的な「創新」は生れにくい。”と、「文芸春秋」7月号・「極貧日本留学生がエリート
弁護士になるまで」に書いてある。イエン氏の執筆意図は、日本の経済成長に資する忠告で
あるが、私は、それはそのまま、日本の精神成長にも資するものだと確信している。

現代日本の閉塞感は、信条、性別、社会的身分又は門地その他の「異質性」によって、
暗黙の差別をされるのでは?という得体の知れない恐怖感に打ちひしがれた人々が増大した
結果ではないか? 日本人が憲法に保障された個性的な個人として、のびのびと生きられる
環境を作ることによって、日本人の精神成長を成し遂げることが、何よりも大切ではない
だろうか?内閣の最も大切な職務は、法律の誠実な執行である。憲法という根本法規が
どの程度、守られているか?様々な形で検証し、誠実に執行できる対策を講じるべきでは
ないだろうか?日本人の精神成長の障害を取り除くことが、経済成長にもつながっていく。
一石二鳥の素晴らしい政策アイデアではなかろうか。(我田引水?) 如何なものか。
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民間人大使 [希望]

先日TVで中国大使に民間人を起用したと大仰に報道していた。民主党の色あせた脱官僚路線の
修復というような見方もされていた様である。月刊誌「Will」8月号の記事「丹羽宇一郎大使で媚中
から屈中へ」では2009年12月の小沢幹事長引率の600人を越える訪中団の延長線上に
位置づけていた。私は「文芸春秋」7月号の丹羽宇一郎氏の書いた「2015年中国バブルに
日本の勝機あり」を読んで、民主党は市場主義に戻ったのか?と疑わざるを得なかった。

伊藤忠出身の丹羽・新中国大使は前述の記事で、中国の巨大消費市場を日本経済復活に利用
する為には日中韓で関税等を取払うETA(自由貿易協定)の締結を強く主張している。10年来
議論されながらも進まなかったETAだが、民主党は自由貿易を主張する民間人を中国大使に
抜擢してまで市場開放を強行するつもりなのか。小泉改革の上を行く市場開放論者を
初の民間人大使にして、自由貿易を推進するというなら、小泉改革を市場主義だと非難した
のは一体なんだったのか?また菅首相の最少不幸社会とは一体何を意味するのか?

民主党は脱官僚と言いながら、参議院過半数獲得のために、国民新党と野合し、脱官僚のはず
が郵政民営化を後戻りさせ、参院選で大敗したら、今度はみんなの党に擦り寄っていく。まったく
信念も、覚悟も、一貫性も無い千葉法務大臣と、民主党は一緒である。“類は友を呼ぶ”というが
恐らく、辻元議員も民主党の“類(たぐい)”だろう。権力の味が忘れられない“同じ穴の狢”。
政党の中で丹羽新大使の意見に最も近い政党は「みんなの党」であろう。渡辺喜美党首の著書
「“みんな”の力」の<第2章 ヨッシーの日本再生計画>の“「30億人のアジア市場」を内需として
取り込め”という節には、「アジア域内の規制改革を推進していく」、と書いている。

民主党は子ども手当に代表されるような“大きな政府”による福祉社会を目指しているのかと
思ったが、「みんなの党」に影響されたのか、急に経済成長戦略に舵を切ろうとしているようだ。
どちらにしても金で解決しようとしている?「みんなの党」も官僚制度改革など、いろんな
ことを言っているが、結局、経済成長戦略で解決する、即ち金で解決する、というように見える。
しかし現代日本の根本的な問題は、金で解決できるのだろうか?日本はリーマンショックで一時
混乱し、そのドサクサに紛れて政権交代が起こり、浮ついた議論で方向性を見失っている。
人間の欲望に限界は無いが、欲望を物質的な方面から精神的な方面へ転換すれば、また違った
風景も見えてくる。欲望を抑えるのではなく、欲望を上手に転換する事も、政治の重要な課題では
なかろうか?経済成長ではなく、精神成長の政策も大切である!如何なものか。
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武勇伝的物語 [物語]

昔の「武勇伝」というのは、戦の後、戦陣で、或いは凱旋した自宅の炉辺での手柄話である。
こういう話を聞き伝え、書き伝えたものが、「武勇伝」という書物として伝えられる事もある。
つまらない手柄話もあったかも知れないが、多くは、家族や知人にとって、活きた知識として
生きるための智慧として、活かされたのではなかろうか。手柄話は戦場のものとは限らない。
女性の場合、掃除・洗濯等の家事、育児、家庭のやりくり、男性も、狩猟、漁労、農作業での
収穫、趣味、庭の手入れ、家畜の飼育や道具の製作・手入れなど、様々な手柄話があろう。

認知科学の分野に、“状況論的アプローチ”方法論という分野があり、状況を認識するため
「武勇伝的物語」を利用するというのがある。例えば、複写機修理技術者の修理の記録には
この「武勇伝的」記述がある。複写機修理技術者の「武勇伝的物語(修理記録)」を分析する
事によって、様々な現実が見えてくる。例えば、会社側と修理技術者とでは修理についての
認識にズレがあり、管理者は修理技術者のマニュアルにない実践の重要さを理解できない。
その結果、会社側は技術者が非協力的で能力が低いと思い、技術者側は会社側が自分たちの
能力を低く見積もっているために、訓練プログラムが単純すぎるのだと思っている。

会社側が、定形業務と思っている仕事でも、様々な否定形部分を内包しており、企業の業務
を改善していくために、「武勇伝的物語」を通して労働者側との相互理解を促進すべきである。
増して家庭内のコミュニケーションは、子育てや、家庭内の平和と福祉の増進のために行うもので
複写機のような機械以上の繊細で複雑な人間関係を扱うのだから、相互の「武勇伝的物語」を
謙虚に受けとめて、相互理解に役立てなければならない。

最近の世の中では、この「武勇伝的物語」自体が、衰退しているのではないだろうか?
時代にそぐわない自己中心的、自己陶酔的な話と考え、自他共に、戒め合っているのでは?
「武勇伝的物語」とはそういうものではない。成功した場合も失敗した場合も、その原因を
振り返り、その背景にある真の原因を探るための叙述であり、聞き手の反応によってさらに
深く掘り下げてゆく作業なのだ。自らの問題に真剣に取組めば取組むほど、その結果から
更なる学びを得るために、何かをせずには居られない。その発露が「武勇伝的物語」である。
「社会化」が進展し「個性化」が広がる中で、「疎外」を防止するには、語らう喜びの中で
個性化と社会化を共に達成することが必要である。自分の為でもあり、組織の為でもあって
組織全体が活性化する自らの活動とは何か?皆で「武勇伝」を語り合おう!如何なものか。
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閑話'10.07.26 [閑話]

今日は久しぶりにゴルフ練習に行った。日頃庭先(猫の額)でのアプローチ練習成果を定着させるべく
350球も打った。いくら短いクラブでも夏の盛りだから疲れてしまった。隣で練習していた人は
大柄で昔は相当、筋肉もあったろうと思われる人だった。しかし飛距離は私より劣る位なので
私より年配だと思ったが、後から来たその人の知人との会話から、私よりも、4歳半も若いこと
が分かった。最近の筋トレやスロージョギングの効果なのだろうか?と、少し嬉しくなった。
先日のある飲み会で自分の年齢を披露した上で、スロージョギングの効能を紹介したが、その時に
女性陣から、「お若い!」という驚嘆の声が上がった。私は、「お世辞でしょう?」と本気で
言ったのだが、今日は、その事も併せ、心中、ニンマリしてしまった。

午後は夏の高校野球・岡山県大会・決勝戦をTV実況で見た。小学生バッテリの始球式があった。
小学生バッテリと同じ年頃の孫・Ryu(少年野球で真っ黒になっている)の事を思った。始球式の
小学生バッテリの爺・婆たちは、きっと大変な喜び様だろう。良い夏の思い出になった事と思う。
決勝の結果は、倉敷商業6‐1玉野光南で、倉商の三年連続、9回目の甲子園出場を決めた。
2回;先攻の光南は四球、バント、安打で1・3塁とした時に、倉商の投手・島田慶太(3年)のワイルド
ピッチで一点を取った。倉商にとって最も悪い点の取られ方である。しかし、その裏、植田周馬
(キャプテン)の先頭打者安打を西谷が送りバント。一死後、長安の適時打で同点とした。これが島田
を立直らせた。倉商は3回;江草・川合の連打。4回;西谷・二塁打、福居・犠打、長安・スクイズ
成功で着実に加点。7回も長安・先頭打者安打、島田の着実な犠打、妹尾・三遊間安打で、
1・3塁になった所で、左翼の悪送球で1点、畳田の左中間の大きな当りで、レフトとセンターが
接触落球で1点、そして江草のスクイズ成功でこの回、一挙、3点を獲得。試合を決めた。

倉商の森光淳朗監督は優勝インタビュで涙を見せた。2009年秋は県大会出場もできなかった
のに今大会優勝できて感激したらしい。この一年間、日本で最も成長したチームではないか?
といっていた。主将の植田は監督を泣かせてよかった!との事。「先輩を越える」という思いで
チームが此処まで来られたのは主将や監督の良さもある。選手達が野球を楽しんでいた?
皆がチームの為ばかりではなく、自分のため野球を楽しむ為に役割をキッチリと果たしていた?
進塁の為の犠打やスクイズを全て決めていた。当たっているやつも、4番バッターも決めた。
昨日、TVで中田英寿が言っていた。チームの為に犠牲になって自分が面白くないサッカーをしても
詰まらないと。倉商の選手達はチームの為にもなり自分の為にもなるプレーとは何か?
皆で話合い納得していたのではないか? そんな気がする。如何なものか。
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みんなの党とは何者?② [社会]

みんなの党の主張(アジェンダ)を簡単にまとめると、1)増税の前にやるべきこと(「小さな政府」
国会議員自ら身を切る等)、2)経済成長戦略、3)地域主権の道州制の導入、4)戦略的な外交
5)財源の捻出、という事になる。そして主張を実現するための草の根運動による「みんなの党」の
発展と、政界再編による政治的第三極を形成し、弾力的な政治運営の機構を構築して行きたいと
いうことだろう。これを民主党のマニフェスト、1)ムダ使い根絶、2)子ども手当等、3)年金・医療
4)地域主権、5)雇用・経済、6)消費者・人権、7)外交、と対比させた。

大きく違う点は、‘みんな’の小さな政府と、‘民主’の大きな政府である。その象徴的なものが
「子ども手当」という‘民主’の発想だ。‘民主’の教育方針は国家主導でやる様に見える。
「教育の質」というわけの分からない概念を掲げ、国家が仕切る発想は全体主義・社会主義的で
人間本性の「個性化」、「自立化」の道ではない。‘みんな’は、国の役割は最低限の教育水準維持
にとどめ、地域の教育現場主導で選択肢の多い教育を実現すると謳っている。教育者を含む
教育現場に主体性を持たせる事は大切だ。「個性化」、「自立化」の道を拓く方向性を持っている。
国旗掲揚や国歌斉唱に反対する日教組の教師を「個性化」、「自立化」と勘違いしてはならない。
彼らの行為は体制への反抗心から出た一種の「退行」現象である。地域の教育委員会その他が、
開かれた組織になれば、そういう幼児に等しい反抗は影を潜め、真の「自立化」が進むだろう。

もう1つは、‘民主’にある“6)消費者・人権”が、‘みんな’には取り上げられていない。
また地域主権に関する取組み方が、大きく異なる事である。‘民主’のやり方は、国が直接、カネを
ばら撒いて、地域に恩を売る形である。ガソリン税減税や高速道路の無料化等も、地域主権の
政策になっていたが無残な結果に終わった。‘みんな’は、「3ゲン(財源、権限、人間)」を移譲し
消費税は地方の財源に!と謳っている。渡辺党首も著書「“みんな”の力」で、一節を割いて
民主党の地域主権は“イカサマ地方分権改革”と書いている。全く同感だ。

みんなの党の「アジェンダ」と民主党の「マニフェスト」をざっくり比較して見えてきたのは、木に竹を
接ぐ様な民主党政策の一貫性の無さ、思想の無さ、覚悟の無さである。井の中の蛙ではだめ。
みんなの党も著書に明治維新になぞらえる様なことを書いているが、そんな時代感覚では、将来
危ういだろう。世界的秩序と日本的よさを両立させ、かつ過去の反省を踏まえた一貫性のある
政治が必要なのではないか?民衆も、利益誘導だけではない政治への主体性な関与が必要?
改革志向の人々は人類の明るい未来の礎なのだ。政治家も民衆も頑張ろう!如何なものか。
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みんなの党とは何者? [社会]

現代日本を一度少し突き放して見るために、人間の条件ともいうべき「言語」を取り上げて、その
“発生”や“発達”と共に、それに伴う“疎外”という視点を借りてみた。そこから見えてきた事は、
「民主党政権」は、「自民党政権」からの発展形態ではなく、自民党政権以下の“幼稚政権”だと
いう事である。政策レベルは「個性化」どころか、「社会化」、「共同化」の思想も十分検討されて
いない、お粗末な思いつきに過ぎない。自立なき労使馴れ合いの日本的労働組合体質への
「退行」現象である事は明らかである。国民の多くは、自民党に戻るのも「退行」現象と考えて
いる様だ。私は必ずしもそうは考えていないが、皆さんの考え方を優先したいと思う。そこで、
今回の参議院選挙で大躍進した「みんなの党」は、今後の希望足りえるのか?検討した。

党首の渡辺喜美は、自民党がまだ政権の座にあった2009.1月に、奥方にも相談せずたった
一人で飛び出したという。自民党内でも一匹狼的存在だったから「個性化」志向である事は間違い
ない。彼の著書「“みんな”の力」には、様々な異なる党派による第三極、“アジェンダ屋台村”を
形成したいと書いている。“アジェンダ”を掲げた政治を、自民党、その他の政党や、
“嘘つきマニフェスト”政治と区別した責任政治を確立したいという意欲が読み取れる。
この辺り、従来の政治から進化しているという匂いがしなくもない。

著書「民主党政治の正体」、「“みんな”の力」で力を入れているもう1つのポイントに、“1940年体制
からの脱却”がある。分かりにくい議論であるが、“ジャパンアズNo.1”で賞賛された1980年前後の
日本経済成功の根元に“1940年体制”があり、それが制度疲労しているのに成功体験に噛り
付いている、というのだ。“1940年体制”は、戦争中に総力を結集するために考え出された
貧しい庶民には優しい政策であり、それは戦後の農地改革や、護送船団方式を生み出した。
これは「社会化」、「共同化」の言語の発達であったが、現代にはそぐわないというわけである。

紙幅の関係で今日のまとめに入りたい。著書の「民主党政治の正体」p28に婉曲的にではあるが
小泉構造改革をそれなりに認めて、それを乗り越えた真の改革を構築すべきだと述べている。
控えめな表現だが、この事に触れていることを評価したい。民主党の「退行」路線と一線を画し
ている事は明らかである。そういう意味で期待をしたいところである。しかし渡辺喜美が立向おう
としている改革は単なる経済政策に止まらない。人間の「自立」等にかかわる部分まで踏み込ま
ないと実践が困難である。その覚悟の程は分かったが「自立」にも様々なレベルがあり、「尊厳」
などの心の領域をも含む問題の解決には、時間が掛るだろう。優先順位や如何に?(続く)
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言語による疎外② [物語]

言語は、テレビ、ラジオ、映画、新聞、雑誌、インターネット等々、巷に溢れ返っている。日常的な直接
対話の比較的平凡で在り来たりの言語情報に比べ、それらマスコミの情報は大量で刺激的である。
一昔前の直接対話による情報と比べて、マスコミ等による情報の比率は、圧倒的に増えている?
情報量だけではない。以前は新聞やNHK放送等が、国民の常識を形成する様な「画一情報」を
作製していた。例えば紅白歌合戦や大河ドラマ、朝の連続TV小説が高視聴率だった時代である。
今も新聞も含め継続されているが、その影響力は低下している。

この様な変化は言語の持つ「個性化」という機能が発揮されるからである。言語の持つ「個性化」
の機能は「社会化」、「共同化」という機能によって生活基盤を維持するだけでは飽き足らなくなる
ことから発生してくる。多くの人々に余裕ができてくるからである。「格差社会」を大きく取り上げて
如何にも弱いものの味方面する人々は、社会的にできた余裕を「悪」と決め付ける類の人間で
ある。社会にできる余裕は「悪」ではない。逆に言えば「格差」は悪ではない。富の格差を悪だと
いうなら、健康や寿命の格差はもっと悪ではなかろうか?どうだろう?

言語機能の「個性化」は体力、気力、智力等の総合力で発揮される機能である。「自己実現」と
いう言葉を使う場合があるが、今現在では、人間として生きる究極目的だろう。勿論、その人の
体力、気力、智力に応じた形があり、財力や地位や名誉で測れるような物ではない。そのような
「個性化」の機能を発揮することは、何人も妨害することは許されない基本的人権である。しかし
社会にそういった「個性化」を追求する人々が目立ってくると、日本人的な島国根性の狭い了見が
顕在化してくるのだ。そしてそれが小市民的政党と結びつく事によって、一種のファッショ的集団が
台頭してくる。これは必ず暴力を伴うものとなり、自由は束縛される。そういう一連の運動が、
「個性化」への反感であることを理解していない無関心な一般市民は、混乱した社会に嫌気が
さして、ファシズムの流れに乗っかってしまうのだ。これを言語による疎外化という。

グーグルが現実的な路線を選択したのは当然だと思う。成熟しない「個性化」は、前述したように
ファシズムへと逆行するものだからである。さて、そこで現実の菅政権の今後の見通しである。
有識者には、短命政権は良くないとおっしゃる方も多い。しかしマスコミでは、菅政権の短命を期待
するような党内事情を煽る記事や放送も散見される。私は、民主党は、このままでは、「個性化」
という路線からは外れた政党だと思う。日本はイランや中国のような国になりたいのか?それとも
「みんなの党」など、他の選択肢によって未来に希望があるのか?如何なものか。
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言語による疎外 [歴史]

幸田露伴が、明治24年(1891)に書き残した“言語”という短い評論の最後の言葉は、
“「言」は「礼」の声なきなり。「礼」は「言」の形あるなり。「言」にして「礼」に違わば
あやういなり。”という言葉で締め括られている。実に簡潔に事の本質を突いた言葉である。
「礼」は「言」によって形は明らかだが、「言」には「礼」から直接、忠告される事はない。
しかし、もしも「言」が、「礼」の声なき声を聴かなければ、社会はあやうい、という忠告の
ように私には読める。この忠告は、益々、現代の日本社会に大きな意味を持つに至っている。

情報化、グローバル化によって、地域共同体が不安定になっている現状で、社会や個人の利益
とは何か?が分かりにくい。様々な利害が絡み合う個人、団体・組織にとって、社会秩序とは
何か?見えにくくなっているからだと思う。例えば、最近、グローバル企業では、“英語”を
社内共通言語にするという流れにあるようだ。グローバル社会で日本人企業が勝ち抜くために
必須の事かも知れないが、それで良いのか?様々な角度からの議論も必要であろう。

言語の元々の起源は、個人の「社会化」、「共同化」にあったという。しかし、言語機能は
「社会化」、「共同化」に止まらず、「個性化」をも育む複雑さを有している。旧約聖書の
皆で力を合せて立派な塔を建設する途中で、神が言語をバラバラにさせたという“バベルの塔”
の物語はそれを象徴的に語っているとも読み解ける。個人や集団が「社会化」、「共同化」を
極めていくと、個人や集団は「個性化」、「自立化」を志向し、高次元の世界へ向かうのだ。

しかし、「個性化」、「自立化」の道は、不安定であるために、折角の志にも拘らず孤立状態
を維持できず、自立性を放棄して不穏な言説に惑わされ、転落するケースも多いのだ。
第2次世界大戦中のファシズムは、このような観点から見るときよく理解できる。
日本の社会は明治維新以降、国や地域共同体の概念を強固なものとして確立した上で、
“科学技術”という近代言語を入手し、「社会化」、「共同化」という道をひた走った。
しかし「社会化」と「個性化」の緊張関係(即ち「礼」)を見失い、「自立」ではなく、
「孤立」という疎外化によって、ファシズムに堕落した。罠にはまってしまったのである。
敗戦後、“自由・民主主義”という現代言語を併せ持ち、「社会化」から「個性化」へと
進んできている。だが今の民主党政権の政治やマスコミの言説を見ると、「社会化」の基盤が
脆弱である。にも拘らず、砂上の楼閣の様な議論が横行し、「個性化」、「自立化」に対する
緊張感がなく、人々は再び「孤立状態」、「疎外化」に堕落する懸念が大きい。如何なものか。
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「ゲゲゲの女房」と自浄作用 [物語]

「ゲゲゲの女房」16週“来るべき時が来た”は、茂(向井理)がいよいよメジャーになる話。
茂が少年雑誌から再び声が掛った。それも前のように「宇宙もの」といった条件なしである。
彼の閃きで、テレビに自由に出入りできる少年「テレビ君」という物語を着想する。
茂は家中の金をかき集めてテレビの質流れを買って帰ってくる。相変わらずの独断専行である。
そんなことに不平も言わず、ご近所から古雑誌を回収し健気にテレビ関係の記事を集める。
そして雑誌記事を見せる時にも、日頃言われている「仕事には口を出すな」を気にかけて
恐る恐る申し出るのである。旦那の言うことを決して悪意に取らず、一生懸命信じて支える。

私は以前のブログ「2010-05-06ゲゲゲの女房・34」で茂が漫画を書くことは一種の浄化作用だ
と書いた。多くの人命を奪い、心身を傷つけた第2次世界大戦という過酷な戦争を体験し、
自らも片腕を失った。その不条理な巨大なストレスに雄々しく立向うには、不条理な漫画を
描くしかなかったのではないだろうか?世の不条理さを、漫画を創作しながらトコトンまで
追求したのであろう。だから印刷すれば分からなくなる細かな部分まで書き込んだのである。
そうした自浄作用の中で、人間として、また漫画作家として成長して行ったのである。

今週の「ゲゲゲの女房」物語で、茂個人の自浄努力は一応の終了式を迎えたということか。
今まで茂個人の過去に溜め込まれたストレスは、質草を全て受け出してきたように浄化作用に
よって、一応、綺麗に清算されただろう。しかし茂の浄化は、個人的なものではない。大勢の
人生の仲間、即ち、両親、兄弟、仕事仲間、ご近所付き合いなど多くの人々に支えられ、勇気
付けられ、或いは鍛えられてきた賜物である。茂の浄化作用で布美枝(松下奈緒)を忘れては
ならない。貧乏にも、また茂の時には冷たい態度にもくじけず、茂を信じて、支え続けてきた
布美枝(松下奈緒)の姿は、現代女性と対比する時、信じられない思いに囚われるのである。

振り返って、現代は豊かで、栄養が行き届き、みんなの生命は輝いている。あの大戦後の
生きていく事も大変だった時期と比べると、ストレスを浄化することは簡単な様に思える。
しかし現代のストレスは浄化作用と相まって平衡状態を維持するというよりは、段々と
増大しているように見える。終戦後の混乱期よりも、体力も気力も充実しているはずだが?
ストレスの繁殖力と、ストレスを浄化する能力とは、裏腹の関係にあるのではなかろうか?
体力や財力・気力がストレス繁殖力の温床になる場合である。そうだと浄化力は減少する。
この逆転現象を何とか防止しないと日本はまた崩壊の悲劇に会う?如何なものか。
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