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言語による疎外② [物語]

言語は、テレビ、ラジオ、映画、新聞、雑誌、インターネット等々、巷に溢れ返っている。日常的な直接
対話の比較的平凡で在り来たりの言語情報に比べ、それらマスコミの情報は大量で刺激的である。
一昔前の直接対話による情報と比べて、マスコミ等による情報の比率は、圧倒的に増えている?
情報量だけではない。以前は新聞やNHK放送等が、国民の常識を形成する様な「画一情報」を
作製していた。例えば紅白歌合戦や大河ドラマ、朝の連続TV小説が高視聴率だった時代である。
今も新聞も含め継続されているが、その影響力は低下している。

この様な変化は言語の持つ「個性化」という機能が発揮されるからである。言語の持つ「個性化」
の機能は「社会化」、「共同化」という機能によって生活基盤を維持するだけでは飽き足らなくなる
ことから発生してくる。多くの人々に余裕ができてくるからである。「格差社会」を大きく取り上げて
如何にも弱いものの味方面する人々は、社会的にできた余裕を「悪」と決め付ける類の人間で
ある。社会にできる余裕は「悪」ではない。逆に言えば「格差」は悪ではない。富の格差を悪だと
いうなら、健康や寿命の格差はもっと悪ではなかろうか?どうだろう?

言語機能の「個性化」は体力、気力、智力等の総合力で発揮される機能である。「自己実現」と
いう言葉を使う場合があるが、今現在では、人間として生きる究極目的だろう。勿論、その人の
体力、気力、智力に応じた形があり、財力や地位や名誉で測れるような物ではない。そのような
「個性化」の機能を発揮することは、何人も妨害することは許されない基本的人権である。しかし
社会にそういった「個性化」を追求する人々が目立ってくると、日本人的な島国根性の狭い了見が
顕在化してくるのだ。そしてそれが小市民的政党と結びつく事によって、一種のファッショ的集団が
台頭してくる。これは必ず暴力を伴うものとなり、自由は束縛される。そういう一連の運動が、
「個性化」への反感であることを理解していない無関心な一般市民は、混乱した社会に嫌気が
さして、ファシズムの流れに乗っかってしまうのだ。これを言語による疎外化という。

グーグルが現実的な路線を選択したのは当然だと思う。成熟しない「個性化」は、前述したように
ファシズムへと逆行するものだからである。さて、そこで現実の菅政権の今後の見通しである。
有識者には、短命政権は良くないとおっしゃる方も多い。しかしマスコミでは、菅政権の短命を期待
するような党内事情を煽る記事や放送も散見される。私は、民主党は、このままでは、「個性化」
という路線からは外れた政党だと思う。日本はイランや中国のような国になりたいのか?それとも
「みんなの党」など、他の選択肢によって未来に希望があるのか?如何なものか。
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