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Golf閑話_0804'09 [希望]

この週末は、日本のゴルフ界では、サンクロレラ・クラシック杯で盛り上がったが、海外では
全英女子オープン(ロイヤルリザム・アンド・セントアンズGC(6472ヤード、パー72))で
宮里藍が前週の米ツアーの勢いに乗って、3位タイと大健闘した。またPGAツアーでは
ビュイックオープン(米ミシガン州グランブランのワーウィックヒルズ・クラブ(7127ヤード、
パー72))でタイガーウッズが今季4勝目の優勝、通算69勝目を挙げた。
私は、たまたま昨日の昼にBS1で放送されていたのを見た。

私が特にゴルフに興味があるのはゴルフの精神性である。私は、“集中した無意識の状態”で
行ったゴルフスイングがその人の最高のスイングであると常々思っている。テニスをはじめ
普通の球技スポーツと異なって、ゴルフの球には、相手の力は働かないで止まっているから
却って“集中した無意識の状態”ができないのだと思う。ゴルフの球の行方はすべて自己責任。
それが明確なために余計にプレッシャーがかかるのだろう。
そういう観点から新聞紙上で読んだ宮里藍、テレビで見た最終日後半のウッズ、それに
サンクロレラで優勝した石川遼の三人の違いについて、ひまばなしを書き留めておこう。

結論からいうと、ウッズが最も私のいう“集中した無意識の状態”でスイングしていると思う。
真のトッププロになれば、テレビ解説者のいうような小賢しい戦略等ということはない。
そんな小賢しい事を考えていると“集中した無意識の状態”を保つ事が難しくなる。
ウッズはINの13番ロングホール、第2打・ツーオン狙いで池ポチャ。彼は3番ウッドを地面に
叩きつけて悔しがった。しかしその後は素晴らしいアプローチでパー。
なぜこんな事ができるか?それは日頃の練習やトレーニングその他による自分への信頼だ。
13番ロングホール、第2打は右前方に大木、球は深いラフ、並みのトッププロならスライスで
グリーン右に池のある2オン狙いはしないだろう。しかしウッズは2オンを狙っていった。
しかし宮里藍の最終日17番のように賭けに出たのではなかろう。この違いが分るだろうか?

石川遼は今、ウッズを見習って練習に打ち込み、自分の実力向上のみを考えて余念がない。
ゴルフの成績というのは、自分の実力をはっきりとあらわしている。ゴルフに強くなるには
練習や、体力の増強、或いは精神修養など自分の実力を上げて自信を持つしかないのだ。
石川遼は並みのトッププロではなくウッズのような真のトッププロになれるか? 頑張れ!

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Golf_0802'09 [希望]

189_204272Bジョーンズ.jpg北海道・小樽CC(7535ヤード、パー72)で行われたサンクロレラ・クラシック杯で石川遼が優勝。今季2勝目を挙げた。初日から単独トップを守っていたが、4日目の今日は2番5番でボギーを叩き、怒涛のバーディラッシュの片山晋吾と一時ならばれた。並みの選手、いや相当の名選手でもこの流れに抗し切れず崩れていくのが普通(下の写真は遼優勝の瞬間)。ALB20090802遼.jpg
しかしその後の6番から遼は気持を切り替えたのか、14番まで、ブレンダン・ジョーンズ(オーストラリア)と互いに一歩も譲らず6つのバーディを重ねていく(Top写真はジョーンズ)。この辺の時点で、晋吾も届かなくなる。そして15番、石川はボギーを叩きついにB・ジョーンズに並ばれた。テレビ解説者は遼のショットの乱れから流れが悪いという。もう負けるような予感を思わせた。しかし此処からも両雄、一歩も引かず最終ホール、ついにバーディで決着をつけた。

昨日の石川遼の「優勝するには上にいた方が有利」という言葉どおりに、競争者とのハンディを活かし、恐れることなく、最後まで揺るぎない精神で戦い通したのは見上げたものである。優勝した瞬間のガッツポーズは、なんだかウッズそっくりのような気がしたが?
優勝インタビューで、「戦ってくれたBJ(B・ジョーンズ)がいなかったらここまで良いプレーはできなかった。彼は素晴らしい選手だ。彼と戦えたことを誇りに思っている」、と死闘を演じたジョーンズへの感謝と共に、達成感の涙々。34歳と17歳、年は倍半分だが、飛距離はほぼ同じの飛ばし屋同士、本当に記憶に残る名勝負だった。

私が残念に思うのは、テレビ解説者が再三指摘していたギャラリーのマナーの悪さである。
行き詰るデッドヒート最中、BJのバーディパットが外れそうになった時に拍手する。
最終ホールのBJのバーディパットが外れた後に、観客から笑い声が聞こえ、さすが温厚なBJも
ムッとして振り返った程である。観客に悪気はなく、何か別のことで笑ったのかもしれない。
日本人ならそれ程気にしないかもしれない。しかし文化の違いのある外国の選手に対して
集中力を欠く日本の観客は戦前の“鬼畜米英、日本万歳”的な唯我独尊的体質、
島国根性的体質を今もって脱する事ができないのであろうか?日本人は、自分のことばかり
考えるのではなく、もっと広い世界を理解しなければならないと思うが、如何なものか。
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あおばずく物語 [物語]

今日の午後は曇天といえど蒸暑い夏とあっては、スロージョギングも楽ではない。
途中、一休みもあったが通算で約45分。最近、粘りが出てきたような気がする。
先日の講演会のご縁で、井上太郎著「大原總一郎」という本を読んでいる。
大原總一郎は、明治42年(1909)生れ、私の母より1歳年長、父より2歳後輩に当たる。
没年は昭和43年(1968)、私の母より1年後になる。彼は私の両親の世代に重なる。
總一郎の母親・大原寿恵子(おおはらすえこ:1883(明治16年) - 1930(昭和5年))は、
広島県の東端(現在の福山市)の出身で、実家は代々庄屋、父・石井英太郎は地域の名士。
寿恵子は、18歳で孫三郎と結婚、なかなか子供が授からず、5日間の断食をした翌年、26歳で
長男でただ一人の子供を授かった。このことを大きくなって父親から聞かされた總一郎は、
大きなショックを受けたという。「母にとって私がすべてであり、希望のすべてである」と
總一郎は書き残しているという。母親の重圧を感じながらも總一郎は立派に大成した。

この本は、様々な人々とのインタビュや本人、関係者の著作を参考にして書かれている。
この辺りでは既に有名な話のようだが、母と息子のほほえましい話を紹介したい。
話の大意は以下の通り。「幼稚園時代、夏に遊びにいった明石の別荘で、巣立ちしたばかりの
“あおばずく(フクロウの一種)”の雛をつかまえる。總一郎坊ちゃんとしては大手柄。帰宅後、皆に自慢したい。翌日の帰宅まで、その夜は納屋に、木箱で伏せて、上に大きな石を置いて寝ることにした。しかし翌朝、箱の中にいるはずの雛がいない。母親に聞いたが“知らない、不思議だ”と答えるばかり。總一郎坊ちゃんは諦めるしかなかった。そして二十年間、そのことを思い出しながら、いつも不思議なことがあるものだと思っていた。二十年経ったある日、突然謎が解ける。そして、それまで母の言ったことを一度も疑わなかった自分に驚きの気持を感じた。」

この話は、總一郎の随筆集「母と青葉木菟(あおばずく)」の冒頭に収められた話だそうだ。
總一郎は、純国産・ビニロン開発にあたって、「戦争に負けて自信を失っている日本人の心を奮い立たせるために、純国産の合成繊維の工業化を何としてでも成功させたい」といった。敗戦後の日本は、このような多くの人々が、己を忘れて、人々のために尽くすという素晴らしい心、志があった。私の母が良く言っていた。“貧しき中にも礼儀あり”、正にあの時代そうだった。そして、“衣食足りて礼節を知る”という現代はどうだろうか? 如何なものか。

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