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マスコミ批判 [社会]

“みのもんたの朝ズバ”や“朝日スーパーモーニング”などで、自民党のマニフェストが取り上げられていろいろ批判されていた。その批判をソックリ、コメンテータ達に返したい。
政党のマニフェスト評価、即ち選挙投票とマスコミの視聴率は似たようなものだと思う。
その評価を大切にしながらも、そこから脱皮してこそ本物になる。

橋下知事のインタビュがあった。政治家になった理由は日本に対する危機感だったそうだ。
「悪魔に魂を売っても人を動かさなければ政治家として失格」 であるという。
橋下知事は、「地方分権は、知事のためでも市長のためでもない。国と地方がそれぞれ分担して、強い日本をつくるために必要だ。」、「橋や道路は国より地方の人の方が余程よく知っている。」という。橋下知事の地方分権は、適切な分担、そしてそれぞれの適切な判断・処理ができれば、という前提がある。多くの人々が、悪魔に魂を売らないで成長、実践する必要がある。
その出発点として、我々は過去を否定するのではなく、過去を肯定した上で、自ら謙虚に反省すべきである。それは過去を否定した戦後日本の今までの軌跡をみればわかる事である。

そのような観点に立って、私が、イの一番に自己評価して貰いたいのがマスコミの皆さんだ。
マスコミが、第二次世界大戦後、言論の自由を旗印にそれなりに民主化に貢献した事を評価するにやぶさかではない。しかし、橋下知事の指摘する日本の危機を打開するためには、真っ先に、民衆のオピニオンリーダであるマスコミの現状に関して猛省を促したい。

民主主義に最も大切な否偶像化の原則を破り、視聴率を“金の牛:偶像”としてしまい、視聴率を言い訳に(戦前は軍隊の専横を言い訳にした)、責任を蔑ろにして私利私欲に走っている。
戦前のマスコミは権力に媚びたために報道を誤った。だからコメンテータはバカの1つ覚えで
権力(政治)批判の姿勢をとる。視聴率は民衆の声だから媚びてもいいという態度である。
自分達の私利私欲のために、有識者・学識者さえ、視聴率が暗黙の圧力で言いたい事も言えない尤もらしい番組や、青少年の育成上、問題のいい加減な放送を垂れ流しにしている。
視聴率万能と決め付けている根拠は何か?マスコミの経営者の基本的問題はないのか?
マスコミこそ今や政治家を超えた戦前の軍部をも凌ぐ絶対的権力者である。言論の自由を主張するからには、それに伴う責任というものがある。マスコミ関係者が真の報道精神をもっているなら自分の業界(真の権力者)を徹底的にあばき、問題を明らかにするべきだ。如何なものか。

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閑話'09_07.30 [大家族]

午前中は日差しが強かったが、午後は曇ったのでスロージョギング兼用の散歩に出た。
今日は、SlowJog・5旬目の4日目に当たる。5旬目の初日に炎天下を頑張り過ぎて、2日間
心臓と膝に違和感があり、筋トレもSlowJogも休業という状況だったが、今日は快調に50分弱
SlowJogをこなし、筋トレも平常通り実施した。炎天下の疲労は、想像以上にこたえるようだ。

第91回全国高校野球大会も、地区予選における大勢がほぼ決まり、各地区代表が揃って来た。
当地では、倉敷商業が昨年に続き2連覇、8回目の代表高に選ばれた。昨夏、倉敷商が
甲子園に出場した件では、2008.07.26のブログ“夏の球児”などで大いに盛り上がったものだ。
第91回全国高校野球大会では、学生時代の友人の母校が地区大会で大健闘してベスト8
進出を果たし、大いに盛り上がった。地区予選のベスト8如きで大騒ぎするのは可笑しい?
イヤイヤ、学生時代の友人の母校はどこも進学校。普通は、ベスト8はおろか、初戦敗退が
5年間続いているというところもある。私の母校も今年、2回戦で敗退している。
「縁は異なもの味なもの」 今年は倉敷商のご縁で、私は甲子園に乗り込めるだろうか?

昨日(7/29・總一郎命日)は大原美術館関連の1日だった。1ヶ月程前に親戚を案内し啓発されてから大原美術館を再認識する機縁が何度かあった。昨日から9/27まで大原總一郎の
生誕100年記念展をやっている。気持も新たに妻と午後いっぱいを美術館、工芸館で過ごした。
約1ヶ月前に鑑賞した時と絵もレイアウトも随分変っていて、大変見応えが有った。
“大原總一郎の生誕100年記念展”のパンフレットには、「美術館は、・・・よどんだ単なる陳列場ではなく、常に生きて成長していなければならない」 とあった。素晴らしい美術館だ。

名画鑑賞の後は、18:30~20:30頃まで大原孫三郎・總一郎記念講演会(無料)を拝聴させていただいた。この講演会については2007.07.27のブログ “物語の裏側” で紹介した。
その時の講演者は、小説「バッテリー」の あさのあつこ氏だった。孫三郎が社会教育を目的として、明治35年に始めた「倉敷日曜講演」を、戦後、總一郎が再開して継続されている。
今年通算130回目にあたる。講演会のテーマは、「生誕百年・大原總一郎を考える」 
クラレ会長、経済学者、大原美術館・館長、そして長女・れい子氏によるシムポジウム形式で行われた。司会は長男・謙一郎氏。 總一郎は一人の優れた経営者であり、また多彩な才能に恵まれていた。2時間で語りつくせるものではないが、貴重な話を聞かせてもらった。感謝!
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文化資本の伝授 [大家族]

幸田露伴の娘・幸田文の「幸田文しつけ帳」(青木玉・編)という本を読んでいると、
“格物致知(かくぶつちち)”という言葉が出てくる。大意は、「物に接し体験して得た個人的・個別的知見から法則を解き明かすことによって、普遍的な知を拡張・深化すること」
格物:我(個別的自己)が、個人的体験を通して、物の個別的な格(法則)を知った上で、
致知:吾(一般的な自己)の知識、即ち、普遍的な真理を汲み取るに至る、という事である。
幸田家は幕臣で明治維新には貧しかった。露伴は兄弟の多い貧困家庭に育って、朝夕の掃除、米とぎ、洗濯など家事全般、何でもやらされた。そのような経験の中で、“格物致知”を実践し、若くして成功者となった。露伴の6人の兄弟姉妹は、全員“格物致知”を含む文化資本をしっかりと譲り受けて、名を成しただけでなく、子供にも文化資本を伝授した。
「幸田文しつけ帳」には、文が露伴から、厳しく家事について伝授された経緯が書かれている。

私は、日本に於ける“文化資本”の中の珠玉の1つが、この“格物致知(かくぶつちち)”であると、常々、思っている。何せ、親が身につけた知的資産を子供に譲るのに、税金もお金も要らない。
子供が真剣に自ら学ぶ心構えを、愛情をもって伝え、取組む要領を教えればよい。
“格物致知(かくぶつちち)”をどのようにしたら子供たちに伝授できるのかは、それぞれ日本家庭の個別的なノウハウになっているが、“格物致知”の法則に則れば、ノウハウの開放によって、さらに“格物致知”を、民衆全般の文化資本として有効利用できるのではないかと考える。

現代の学校教育におけるゆとり教育、体験学習等の“格物致知”教育がうまく行かなかった理由には課題設定が画一的で生徒の興味を引く内容になっていない事、生徒の指導ノウハウの欠如等がある。企業等における「体験学習」も同じで、実習生が真面目に取組む課題と指導ノウハウがなければならない。こういった大切なポイントをなおざりにして、方針をころころ変えるところが教育における基本理念の欠如を物語っているのではないか?

官僚を一足飛びに改革することは難しいが、官僚を上手に使いこなす、個性的・独創的で優秀な政治家を育成するために、官僚を超える“格物致知”・自己学習能力を備えた人材育成こそ喫緊の課題である。そしてまた、まやかしのマニフェストに騙されない民衆の育成のためにも“格物致知”の能力開発が重要課題である。 “格物致知”による能力開発は、事実から学ぶが故に真の倫理観を学びとることができる。倫理観のない人間は“格物致知”失格。如何なものか。

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政治家の禁じ手 [大家族]

新聞紙上で紹介されている民主党のマニフェストの子供手当・出産支援から雇用対策までの
8項目を見て、第一に、大衆受けする分りやすい、人気取りマニフェストだと感じた。
政治において分りやすさは決して否定されるべきものではない。
いくら難しいものでも易しく国民に解説する事は可能であろう。

しかし人気取りの気持が先走っているだけの分りやすさでは仕方がない。
子供手当や公立高校の実質無料化などは、目的と手段との整合性が極めて曖昧で、バラマキと
言われても仕方ないのではなかろうか?子供手当を支給すれば、親が経済的に楽になるから
子供を生むだろう。従って世界に例を見ない素晴らしい政策だというが、本当にそうなのか?
親に金で子供をつくらせるという発想自体が、社会倫理の規範たるべき政治家として、
やってはならない禁じ手ではないのか。

子供を生まない、結婚しない、という人々は、経済的な問題だけではなかろう。
子孫を残すという事は、人間の存在・尊厳にかかわる非常に重要かつ重大な問題である。
そのような問題を、金で解決しようという考え方自体が、子孫を残すことに不安を抱かせている
大きな理由の一つであることが分らないほど、民主党は金の亡者なのだろうか?

子供の将来に不安を持っているのは、子供を生まない人々だけではない。子供を育てている
人々の方が、より真剣に子供達の将来を心配している。子供をもつ親達が持つ将来への心配。
それは、無差別殺人、強姦、その他凶悪犯罪の増大、地球温暖化による自然災害の増大、
そして、様々な国際的なテロや軍事対立など、人間の無限の欲望への恐怖である。
何でも金で得られ、金で解決し、金、金、金、と金を欲しがる世相への非難と危惧である。

そのような世相に対する世直しのホンの第一歩として、打ち出されたマニフェストの第1が、
世界にも例を見ない政策だと、恥ずかしげもなく金で少子化の解決を図ろうという。
そういう政策を提案する輩がいても、即、問題にするわけではない。しかし、政権奪取を
確実視されている民主党が、こんな政策を看板にすることに、誰も異論を唱えず、或いは
異論を無視して、看板として登場した事は、民主党の底の浅さ、人物のなさを露呈した。
日本の恥を世界に曝してしまった。まさに断腸の思いである。如何なものか。

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魔法の運動・その後 [大家族]

今日は、午前中から徐々に晴れ上がり日中は晴天。真昼の炎天下を午前中から二人でお散歩。
といっても、私はスロージョギング。炎天下を今までの最長・60分間強 実践した。
NHKテレビ  “ためしてガッテン”の「脳いきいきダイエット 超らくジョギング革命!」という
放送(それも再放送)を見て、それに感激し、“魔法の運動” と名付け、ブログに紹介した上に
翌日から実践し始めて既に、昨日で4旬を終了し、今日は5旬目に突入した。
7月17日には、スロージョギング実践開始以来30日間の実績、7割という結果をまとめた。

まずその後の結果、4旬目の実績は、8勝2敗=8割、40日間では、29勝11敗=7割2分5厘
40日間で、7割以上、スロージョギングを実践できたのは、時間調整自由な仕事(それも絶対量が多くない)と、昼間に制約がないのが大きい。逆に言えば、旅行、その他の娯楽に時間をとられるよりも、“魔法の運動” の方を選択することに魅力を感じている?

さて当初、“魔法の運動” のことを連続5日間、実践も踏まえて書いたが、その後の実践経過を踏まえて、何が変り、何が変らなかったのか? 只今、現在の心境はどうなのか? 
アラフォーの子供、高齢化した親戚、そして自身のために役立つかも知れないので書き残した。
① “ためしてガッテン”の宣伝文句、「ラク~に走れちゃう」というのは、少なくとも私のような前期高齢者で私程度の健康状態では、最初の段階は、決して簡単でも楽でもなかった。
最初の連続5日間は、歩くのに毛の生えた程度であったし、珍しさも手伝って勢いで実践したが
左胸が苦しいような違和感があり、また、下肢や膝も違和感があった。
② “ためしてガッテン”の宣伝文句、「血糖、血圧、尿酸値などの数値を下げ、生活習慣病改善効果が絶大!」 というのも、私の場合、検査に行っていないので確証はない。
どちらかというと、2旬目は、ひざや心臓等の違和感のためにお休み期間となった。
③ それでは、何が私をスロージョギングに引き戻した原動力だったのか?
今の時点で言える事は、“ためしてガッテン”の宣伝文句、「脳までイキイキさせちゃう不思議な走り方」 という効き目を実感でき、惹きつけられたということになるだろう。

スロージョギングを交えた時は、散歩だけの時と比べて頭がスッキリ、帰宅後も素振り等をやろうという積極的な気持になるのである。そして、その後も継続していると、膝も心臓もだんだんと負担を感じなくなり、スロージョギング持続力も高まる。私は、スロージョギングを延命のためではなく、充実した余生のために利用したいと思っている。如何なものか。

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民主主義の拡張 [社会]

Kijuro_Shidehara_diplomat.jpg民主主義の拡張とは、様々な地域や国の人々に求められ受け入れられて
いくという意味である。ルース・ベネディクト著「菊と刀」の最終章“敗戦後の
日本人”の中の一節に、戦後初の首相・幣原喜重郎(明治5年(1872)-
昭和26年(1951):写真は外交官時代)が組閣時に述べた内容を披瀝し
それは日本国民の考え方を的確に代弁したもの、と書いている。幣原首相
の発言(昭和20年(1945))は、 “新生日本の政府は、国民の意思を
尊重する民主主義的形態を備えている。(中略)天皇陛下はその御意思を国民の意思としてこられた。これこそが明治憲法の精神である(後略)”。

60有余年を経た今日、この引用文のみを読むと、日清・日露戦争、世界金融恐慌、日華事変そして第二次世界大戦へと、怒涛のごとく破滅に突っ込んでいった歴史から、明治憲法の精神が民主主義?そんなバカな!と思うかもしれない。しかし冷静に考えれば、明治時代は封建時代に比べて格段に民主的になったといえる。幣原首相は自らの経験に基づき、民主主義は日本に受け入れられ、不十分ながら成長してきたことを実感していたと思われる。敗戦後日本の歩みは、まさに民主主義の拡張への歩みであった。ベネディクトは、当時の日本人の気持を民族・文化を超えて理解しようと努め、そして的確に読み取っていたといえる。この引用がその証しである。
民主主義の拡張とは、民主的思考の相互理解の輪が広がることでもある。

民主主義は理想ではない。現実の社会を良くして行く為の考え方である。
幸福な人が更に幸福になると言うよりは、不幸な人々を少なくしていくための現実的な方法論
なのだ。そこで大切なのが、民主的思考の相互理解の輪である。日本では党派にたよって党や
派閥の考え方を絶対として、相互理解の輪が拡張されないために、財源の枯渇と共に、
財の分捕り合戦に陥り、民主主義の拡張が頭打ちとなってしまうのではなかろうか?

今回の衆院選は自民党や民主党の集団主義的政権争奪戦としてだけでなく、民主政治の恩恵が
拡張される方向なのか、縮小される方向なのか、という視点も大切だろう。第二次世界大戦前のように、或いはブッシュ政権の時のように、民主的相互理解についての努力に問題はないか?
民主主義の輪が狭まっていく兆候が現れていないか?注意して貰いたい。如何なものか。

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好感度と民主主義 [社会]

今日も、朝から曇って今にも降りそうな天候だ。梅雨明けはまだまだか?
雨を気にしながら、スロージョギング、ゴルフの日課もこなして、気分もスッキリした。

オバマ大統領の就任で、米国の好感度が相対的に上昇した事が、米調査機関ピュー・リサーチ・センターの世論調査で7月23日明らかになったという。オバマ氏の個人的な魅力によるもの
という見方が強いようだが、私は必ずしもそうばかりとは言えないと思う。
オバマ大統領の米国内での支持率は、60%を割り込んだという。オバマ氏も超人ではない。
国際社会が、相対的に米国の好感度を向上させたのは、民主主義の本質・根幹にたち帰った事
に、安堵したためだと思う。
民主主義の本質・根幹とは、“常に民主主義を拡張し維持・強化すること”であると思う。

人間であれば過ちや失敗はあるかも知れない。しかし、主義・主張の本質・根幹は、誤って失くしてしまうと、最早、それは別のものになってしまうので守らなければならないものだ。
民主主義は、民衆と共にあるが、その民衆に垣根を作り、守りに入ったらお仕舞である。
前大統領のイラク攻撃は、当時の情勢では止むを得なかったかも分らない。しかし、それを
隠蔽し、イラクの自主性を阻害する方向の政策を継続しすぎたのではないか?

米国は世界のどの国にも増して民主主義国家であるが、そのために多くの問題も抱えている。
先進国をはじめ、民主化を進めている国々は、米国の民主主義の本質・根幹が揺るぎない事で
はじめて、安心して民主化を進めていけるのである。
民主主義国家が、すべて米国のようでなければならない事はない。それぞれに歴史も風土も
異なるのだから、様々な形態の民主主義国家や地域が出来て当然である。
従って法律や言語・文化・習慣が異なるのも当然である。だが民主主義国家である以上、他の国や地域の法律や言語・文化・習慣を尊重し、互いに理解しあい敵対しないように努力すべきだ。

2001年9月11日の同時多発テロのように、本土攻撃を仕掛けた組織や地域、国家に対して報復攻撃をするのは止むを得ないが、法律や言語・文化・習慣が異なり理解できないと言っても、民主主義国家である以上は、理解するあらゆる努力をすべきであり、攻撃を受けないような相互理解の努力をしなければならない。このような努力こそ民主主義の本質・根幹だ。如何なものか。

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ミーハー族 [社会]

PN20090703フェデラー.jpg今日は、昨日の曇り空から、晴れ間の多い一日で、
太陽が照りつける中、散歩に出た。
風は涼しかったが、最高気温は30℃を上回る真夏日だけあって
スロージョギングでの汗は容赦なく流れ落ち、目の中に入ると
沁みて痛くなる。日焼け止めを塗っているので、やたら、
ごしごし拭い取るわけにもいかず、真夏のスロージョギングは
大変だ。
テニス選手がよく使う汗止めのヘッドバンドでも使わなければ
やってられないかもしれない。去年全英オープンテニスの覇者・
ラファエル・ナダルのヘッドバンドもカッコ良かったが、
今年の決勝戦で歴史的激闘の末、世界ランク1位に返り咲いたロジャー・フェデラー(写真)
のヘッドバンドもなかなかのもの。なーんてまったく強者に媚びるミーハー族、いや陣笠族?

陣笠で思い出したが、幸福実現党と名乗る宣伝カーが我が選挙区にも現れて驚いた。
選挙公約に堂々と相続税廃止を掲げていることにも2度驚いた。相続税の納税額は
年間 約5~6千億の額を多いと見るか少ないと見るか?相続税の存廃問題は議論の余地あり
だろうが、幸福実現党という名前だけで釣られて投票する浮動票のミーハー族の多くは、
恐らく、相続税を支払うほどの遺産を受け継ぐこともない人が殆どだろう。
どうか投票する際には、名前だけで釣られないように、事前に調べて投票してもらいたい。

幸福実現党は、宗教法人「幸福の科学」の大川隆法総裁(53)が創立者である。
結党理由は、「安倍晋三さんや麻生太郎さんを応援してきたが、この体たらくでは無駄と
考えた」という説明であった。昨日7月22日、東京・調布市の講演会で、同党の総裁就任と
8月30日投票の衆院選に東京比例区第1位での立候補を表明したという報道があった。
全小選挙区と比例代表の全ブロックに候補者を擁立したのは、大新聞の新聞紙上における
“衆院選・予想立候補者” の報道からも事実である。
都議選でも10人の候補者を擁立したが、結果は泡沫候補として落選した。
あまり騒がないのが一番いい対処法であろう。政教分離の考え方も怪しげである。
日本国民の良識を信じたい。如何なものか。

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再帰性と選挙 [社会]

今日も曇り空、皆既日食を楽しみにしていた日本人は、当て外れでガッカリの人が多そうだ。
小さい頃は、何となく望遠鏡や顕微鏡に憧れ、天体にも興味を持ったことがあるが、いつの間にかニュートン力学の法則に沿って予測されてしまう現象に魅力を感じなくなってしまった。
皆既日食のときに、動物たちが日ごろと異なる奇妙な行動を取るのを、さも超常現象のように
テレビで言っているのは、全く馬鹿げている。元宇宙飛行士が、中学時代の皆既日食観察で
宇宙飛行士になろうと決心したというが、それも単なる偶然で、皆既日食の力ではない?
まあ、いろいろ面白おかしく世の中を見るのが、マスコミや芸能人の飯の種?とすれば、
人の職業上のノウハウをとやかく言っても仕方ないだろう。ただ注意すべき事は、皆既日食に限らず、現象に対する人間の反応は、動物のように画一的でも、正直でもない、という事である。

いよいよ衆議院が解散されて選挙戦に突入した。現況は非常に読みにくいのではなかろうか。
自民・公明は、“政権選択選挙” だと言っていた。何か物足りない命名である。
民主党は、“これから開ける国民の希望の選挙”という。民主党が政権をとったら、国民には
大きな希望が持てるようになるということらしい。本当にそうなら嬉しい事である。

今の混沌とした政治状況を省みると、その状況は、政治関係者やマスコミ関係者が、“誤解”や
“過ち”を生み、また様々な圧力が掛かって、それらに、また様々な思惑が入り乱れ、“誤解”
や“過ち”を生む、という正にソロスのいう「再帰性」に陥ってしまったと見る事ができる。
人間のやる事は、物理法則や、動物の本能の世界とは異なる、測り知れない変動をもたらす。
いわば、人間が情報の力だけで、人間に災いをもたらす事件を作るのである。
それは、突如、荒れ狂う洪水や土砂崩れ、烈風と寒気による夏山での遭難、突然の交通事故
といった予想外のことに見舞われたようなものである。しかしそんな天変地異や、偶発事件の
後には、我々人間は、素晴らしい再生作業や復興作業を行うことのできる能力がある。

現在の混沌とした政治状況を、人間の欲望による金融危機や、天変地異、偶発事件と視るか
否か、そこが、これからの日本の針路を決める上で重大なポイントになると思う。
その視点を決めるのは、日本人一人一人の歴史観、人生観、哲学観である。人間の限界、
おろかさ、そういったことを十分にわきまえるのか?超人的なもの、超常現象に頼ろうと
するのか?地道な努力なのか?他人任せ、棚ぼた式なのか? 如何なものか。

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生と死の重み [希望]

今日は朝から雨が降り続き午後もやまない。散歩にも出られないので何となくテレビを見た。
最近の私のテレビ趣味は“サスペンス”。再放送で 「弁護士迫まり子の遺言作成ファイル4」 を
やっていた。殺人事件に絡む悲しい話だったが、なかなか物思わせる話でもあった。

あらすじ: 沢田(大地康雄)は殺人罪で無期懲役になり、14年間の服役後に仮釈放となった。
沢田には服役中に離婚した妻と娘・みゆき(奥貫薫)がいるが、一人娘に、せめてもの償いを
したいと、遺言状専門の弁護士・迫まり子(斉藤慶子)に依頼に来る。
娘には婚約者・中谷(林泰文)がいるが、これが実は、沢田に殺された被害者の息子だった。
沢田への復讐のために、みゆきに近づき騙して婚約までしていた。このことを知ったみゆきは
計り知れない精神的な苦痛を受ける。そのことを知った沢田は、中谷に謝罪するも許されず
死のうとするが、迫まり子たちに止められる。其処に現れた中谷は、沢田が何処までも自分本位であると詰り、“あんたは結局「人が死ぬ」ということがどう言う事か分っていない!”と
殴り続ける。そして「あんたは生きて償うべきだ」 といった。

中谷は、父親を殺された上に、母親もそのショックから亡くなり両親を奪われてしまう。
少年の頃に両親を失うことの辛さを身に沁みて知っているから、沢田が“「人が死ぬ」ことの
意味”を理解していないことを責める資格があるのかもしれない。
しかし、身に沁みて“「人が死ぬ」ことの意味” を理解している人がどれほどいるのだろう?
“死ぬことの意味”とは、“生きることの意味”でもある。私のような愚か者は、この年に
なってはじめて、様々な“生きることの意味”を身に沁みて思うことがある。
もっと若い時に、そのような“生きることの意味”を理解していればもっと有意義な人生を
送れたのではないかと悔やむことも多い。

“生きている”人間は、“生きている”ことに慣れ親しみすぎると、“生きている”ことが
見えなくなってしまう。ましてや、“死ぬこと”など見えようはずもない。
ドラマの中で、中谷が、分っていないと沢田を責めた“死ぬことの意味”、それは
“生きている”ことに慣れ親しみすぎて、“生きている”ことの重要性が見えなくなっている
人々すべてに当てはまる警告である。“生きていることの意味”とは、自分本位の抑制
“真・義・愛”の敬慕、尊重、実践という方向性への努力ではなかろうか?如何なものか。

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