SSブログ

あおばずく物語 [物語]

今日の午後は曇天といえど蒸暑い夏とあっては、スロージョギングも楽ではない。
途中、一休みもあったが通算で約45分。最近、粘りが出てきたような気がする。
先日の講演会のご縁で、井上太郎著「大原總一郎」という本を読んでいる。
大原總一郎は、明治42年(1909)生れ、私の母より1歳年長、父より2歳後輩に当たる。
没年は昭和43年(1968)、私の母より1年後になる。彼は私の両親の世代に重なる。
總一郎の母親・大原寿恵子(おおはらすえこ:1883(明治16年) - 1930(昭和5年))は、
広島県の東端(現在の福山市)の出身で、実家は代々庄屋、父・石井英太郎は地域の名士。
寿恵子は、18歳で孫三郎と結婚、なかなか子供が授からず、5日間の断食をした翌年、26歳で
長男でただ一人の子供を授かった。このことを大きくなって父親から聞かされた總一郎は、
大きなショックを受けたという。「母にとって私がすべてであり、希望のすべてである」と
總一郎は書き残しているという。母親の重圧を感じながらも總一郎は立派に大成した。

この本は、様々な人々とのインタビュや本人、関係者の著作を参考にして書かれている。
この辺りでは既に有名な話のようだが、母と息子のほほえましい話を紹介したい。
話の大意は以下の通り。「幼稚園時代、夏に遊びにいった明石の別荘で、巣立ちしたばかりの
“あおばずく(フクロウの一種)”の雛をつかまえる。總一郎坊ちゃんとしては大手柄。帰宅後、皆に自慢したい。翌日の帰宅まで、その夜は納屋に、木箱で伏せて、上に大きな石を置いて寝ることにした。しかし翌朝、箱の中にいるはずの雛がいない。母親に聞いたが“知らない、不思議だ”と答えるばかり。總一郎坊ちゃんは諦めるしかなかった。そして二十年間、そのことを思い出しながら、いつも不思議なことがあるものだと思っていた。二十年経ったある日、突然謎が解ける。そして、それまで母の言ったことを一度も疑わなかった自分に驚きの気持を感じた。」

この話は、總一郎の随筆集「母と青葉木菟(あおばずく)」の冒頭に収められた話だそうだ。
總一郎は、純国産・ビニロン開発にあたって、「戦争に負けて自信を失っている日本人の心を奮い立たせるために、純国産の合成繊維の工業化を何としてでも成功させたい」といった。敗戦後の日本は、このような多くの人々が、己を忘れて、人々のために尽くすという素晴らしい心、志があった。私の母が良く言っていた。“貧しき中にも礼儀あり”、正にあの時代そうだった。そして、“衣食足りて礼節を知る”という現代はどうだろうか? 如何なものか。

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。