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盆休'09・② [大家族]

090814_備中国分寺.jpg写真は、Shinを空港まで送る途中に立ち寄った備中国分寺を背景に
撮った。真っ青な空が印象的だった。半分、空が白っぽくなっている
のは、太陽光線によるハレーション?

一昨日、Shinと三人で金毘羅さんにお参りした帰りに、満濃池に
立ち寄った。幼い頃に大叔母(祖父の妹)から聴いた話を思い出し
急に、行ってみたくなった。ナビで簡単に行けそうだから。
昔は、簡単に近づけなかったような気がする。 大叔母の話は
“我が家の先祖は、満濃池を作る工事の御奉行様に任命されて、立派に完成させたが、
あまりに大きな池になってしまったので、その責任をとらされて、切腹し、家も武士から
農民に降格させられた” というものだった。後に弘法大師が作られたというのを聴いて
つくった時代が違うし、荒唐無稽なデッチアゲではないかと思ったものだ。
両親が四国・香川の出身だから、いろんな人から満濃池の話は幼い頃から良く聴かされていた。

まんのう町役場から出されている「満濃池」という小冊子の中の“満濃池要記”によると
○ 大宝年間(701~703)、湧き水をせきとめて最初に池をつくる。
◎ 弘仁9年(818) 決壊、国司(地方長官)が、讃岐出身の名僧・空海を朝廷に招請。
◎ 弘仁12年(821) 5月、空海は太政官符を携え、讃岐に下った。その報に接し、
  役夫は大挙して集まり、谷地全域を池とする難工事も、わずか三ヶ月で竣工した。
○ その後、何度も決壊、修復を繰り返したが、元暦元年(1184)に決壊してからは修復
  することもなく、池地には、池内村が出来ていた。
○ 寛永5年(1628) 当時の領主の命により満濃池再建に着手、寛永8年(1631)に竣工。
  弘仁の昔を凌ぐ大池となった。

香川は、雨が少なく、山が浅いので、ため池で灌漑用水を補っている。
満濃池は、いわば特大のため池であり、近郷近在の農家はそのお陰を蒙っているのである。
しかし、今まで満濃池に行ったこともなかったし、その由来も詳しく知らなかった。
今度、満濃池を訪問し、役場に寄って歴史を勉強したお陰で、我が家の先祖かどうかは別にして
大叔母の話も全く嘘とばかりは言えないのではないかと思えてきた。如何なものか。
 
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