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言語と伝統・文化 [閑話]

昨日のブログ「22012-02-27正論?暴論?」にコメントが入っていた。時々、書込みをして
くれるnogaさんという人からだ。以前の書込に、それなりの応答をしたが、それを無視し
その後も同じ事を繰返し書込んで今日に至っている。私にとっては得がたい読者の一人。
何とか意思疎通したいと思い、書込みの内容に関する私の意見を再度、書いておこうと思う。

nogaさんの書込みには色んな内容があるが、引っかかる点は「日本語に時制がない」云々と
「英米人と対等に話し合うには、同性能の武器 (言語) を用意しなくてはならない。」云々
という点である。私は「英語を国語にすべきかどうか」という議論をしたいのではない。

私が言いたい事は、「日本語と英語には言語的優劣はない」という事である。その為に
私が知っている拙い言語の知識を簡単に述べたい。言語学や記号論に詳しくないから、
間違いがあれば読者諸氏から厳しく指摘していただきたい。
私が知っている言語知識(R.Jakobsonの著書等から)
* 人間の言語は、構想力や創造力、抽象や仮想、時空を隔てた事物を取扱う能力をもつ。
* 一連の特性によって、人間の言語は、動物言語とはかけ離れている。
* 記号での3つの時制 象徴(symbol)=未来、指標(index)=現在、類像(icon)=過去
「日本語が英語に言語的に劣っている」という事になると、言語的大発見になるのでは?
私は「言語には、人間の精神や脳、或いは伝統や文化と深い関係がある」と考えている。
nogaさんが、何故「英米人と対等に話合うには、同性能の武器 (言語) を用意しなくては
ならない」と主張するのか?その背景なり、根拠を、その考えに沿って探って見たい。

nogaさんの主張は、「言語」を過大評価し、英語を物神化しようとしている様に見える。
確かに言語には大きな力がある。言語の発達が、人間の成長と強い相関がある事は明らかだ。
人間が社会化し、個性化し、自己実現に至るのも、言語能力の発達によるといえる。しかし
それは或る言語能力が人間力の全てという事ではない。現代の嘘つき社会における充満した
嘘は文法上の時制で見抜けられる様な甘いものではない。それは欧米社会の様々な事件でも
明らか。情報を見分け社会から疎外されない為には、自国や他国の伝統・文化を正しく継承
しなければならない。物心付く前から獲得した伝統・文化(言語は、その核となるもの)を
基礎にし、基礎を何度も検証し堅固なものにしなければ人間的発展はできぬ。nogaさんは
日本人が英米人と対等に話合うのに英語を前提としている様であるが、それは何故なのか?
日本語が劣っている事を前提にしているからではないか?日本語を選択できない、という
前提は最初から日本は、英米に劣っていると言うに等しいのではないか? 如何なものか
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