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自分の問題? [希望]

昨日、雨散歩で幼い頃を追憶して、消し去られていた‘記憶’を取り戻した。そして自分の
‘我儘’さ加減も再認識した。されど「我の在るが儘」は“生きる源泉”? と結んだ。
私は、人が生きる原点は、“自己の肯定”だと思っている。自分の存在に自信が持てなく
なった時に、周りの環境と自己とが対立するような時に、“在るが儘”の自分を自分で肯定し
そして肯定した自分に自信を持って、周囲と調整しなければ、生きていけないだろう。

或る雑誌記事を読んでいたら、若者達の悩みの中で大きな割合を占めているのは、“世間への
適応に対する不安”だと書いていた。自分が世間に受け入れられる様に自分を変えなければ
ならぬと思い込んでいるというのである。そしてそのために自分がどういう人間になるべきか
分からなくて、思春期には荒れ狂うのだという。私の薄れた記憶を辿ってみても思春期に荒れ
た状況や理由など良く思い出せないが、最近の若者と大して変らなかったのではなかろうか?

その雑誌記事の結論めいた結びは、社会は、個人に合わせて自らを変えていくべきであると
いうことだった。私は、この論旨に反対するものではない。ただ私の付け加えたい事は、
社会が、全ての個人に合わせて自らを変えるような、そんな理想的な道は無いのではないか?
ということである。現代思想に至る道筋を辿ってみれば、比較的明確な事のように思える。
西欧的知性が歴史的正統性を持つとする考え方が妥当性を失い、マルクス主義を最後として
世界や全人類に普遍的に通用する共通の理想的な道等は幻想に過ぎなくなったのではないか?
理想的な道があるとすれば、それは、その個人や組織、地域や社会の歴史的な背景を考慮した
個人や組織、地域や社会のそれぞれの道でしかないのではないか?

だから或る地域や社会が、自分達の地域や社会の成り立ちを考察し、それらがその構成員で
ある家族や組織、或いは個人に合わせて自らを変えるという行動をとる事は可能だろう。
しかしだからと言って、家族や組織、或いは個人の全てに合わせることは難しい?また、
家族をとっても、家族全員に合わせて家族の運営を行うといっても、家族全てに合わせる事は
難しい?結局、個人とそれを取巻く家族や、組織や地域・社会との相互の対話、気配り等に
より相互に調整していかざるを得ないだろう。この調整に個人が積極的に関わるという意味で
周囲との相互調整を他人に任せないで、“自分の問題”として取組むべきだ!と私は言いたい。
“自分の問題”として周囲と相互調製する中で、 “在るが儘”の自分を磨くと共に、社会を
鍛えてゆく。それが社会と個人の相互変容である。如何なものか。
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