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続5・たこ壷型社会 [社会]

昨日、私は「KY」が流行語=‘空気支配’のような書き方をしたが、2007年に「KY」が流行語
になった背景には様々な理由があるだろうし、社会が、即、‘空気’の支配に屈したという
のではない。流行語「KY」は、古い日本人的体質を喪失した人々が市民権を得た現状への
アイロニーという面もあった。即ち流行語「KY」自体は、「KY」を否定した訳ではない。

しかし日本社会は重層的な複雑な構造をもっているが故に、「KY」の流行から複雑な反応を
起こし、人々の意志とは無関係の大きな流れを作る可能性がある。その下地が、日本独自の
“察しの文化”である。主人に忠義を尽くすのに、主人の言うことを忠実に実行することを
「小忠」と言い、主人の言外の言を心の耳で聞き取り、その心を察して、忠義を尽くすことを
「大忠」と言った。昭和11年(1936)の2.26事件を起こした青年将校らが、大御心を察した
「大忠」と思って実施した事は有名である。ご承知の様に昭和天皇の大御心は、青年将校の
察した内容とは違っていた。しかし流れは、第二次大戦へと傾斜した。

私は、“察しの文化”や「大忠」を非難するつもりはない。人間は不完全な動物だから過ちも
ある。それを咎めても、完全を要求するようなものであり、理想主義でしかない。また
“察しの文化”や「大忠」は、正しく運用すれば素晴らしい。そういうものを否定する事は
何の益にもならないだろう。昨日紹介した中島義道の本の<対話>や<論争>を取り入れる事も
否定しないが、“察しの文化”を抹殺するのも良くない。中島義道は、日本的優しさと思いやりが
日本で<対話>を圧殺してしまっていると説いているが、時と場合、個別的人間関係の中には
対話も会話も論争も、いい意味での葛藤もあると私は思っているし、現実に体験もしてきた。
しかしそういったものが、社会的、文化的に普遍的に存在しているか?と問われれば、やはり
‘No’といわざるを得ない。それが、「日本的たこ壷型社会」と呼ぶ理由となっている。

「日本的たこ壷型社会」は世の中の“起承転結”状況によって変容する。危急存亡の“起”の時は
皆、壷から出て‘激論派’、‘思いやり派’、・・・それぞれに、自分流で活発に活動する。
世が落着く“承”の時期は、自己の‘壷’の繁栄にいそしむ。そして一応の安心を得た“転”では
広角アンテナを張る必要がないと思い、現実の社会で活動しながら‘壷’の中(自己)に沈潜し、
ある種の現実遊離の世界に生きる。勿論、1億数千万人が一様にそうなるというのではない。
ある程度社会的にそういう変化が生じた時に、人々は様々に反応して、政治的に起こした波が
現実認識の欠如から思いもかけぬ方向に動いていくという仮説である。如何なものか。

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